2018.4.29 「祈るときには」その一 マタイ6:5-8
序)ここから祈りについての主イエス様の教えが始まります。聖書が教える祈りの全体像を数回に分けて、学びをしましょう。今朝は、祈りは「神との交わり」ということについてです。クリスチャンで、これについて異議を言う方はいないと存じます。正確には、神様からの呼びかけへの、わたしたちの側からの応答です。基本的には、そのようなパーソナル(人格的)な、やりとりを交わりと言います。
Ⅰ 祈りは神様との交わり(コイノニア)
1 神様が人を創造されたときに、すぐに神様との間に交わりが普通にできるように創造されました。それで神様はアダムに話しかけます。するとアダムは答えます。その交わりは、瞬時にどこからでも、どのような情況下でも可能だったのです。この神の話しかけに応じる人間からの応答を、私たちは「祈り」と呼びます。祈りとは三位一体の神様が、ご自身に似るものとして、人格的存在として人を創造してくださったときに与えてくださった自然的本能なのです。人が存在するところには、必ず祈りがあります。アダムは、いちいち祈らなければなどと意識しなくても良かったのです。神様が彼にふさわしい助け手として女性イブを創造してくださったときに彼は言いました。{こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」}(創世記2:22-23)これは最初の祈りです。神様のお働きに関して、人として喜びと感動を込めて応答しているのです。ごく自然に祈っているのです。
祈りは、まず神様を見上げます。詩篇25:1「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」祈りの第一の姿勢が、ここにあります。すべてこの世の、罪ある、むなしい思いを捨て去り、私たちは信仰によって、至高の方、永遠に「わたしはある」といわれるお方の前に上ります。「たましい」をあらわす原語には、たくさんの意味があります。「息」「人」「動物」「自己」「死骸」「感情」また「願望」などです。ここでは、祈っている人の全存在が、救い主である神様に意識的に向けられていることを示します。全存在をかけて見上げるのです。祈りは礼拝です。ダニエルが一日に三度、祈りと感謝をささげて礼拝をしていました。
次に、祈りはことばで応答します。応答することばが見つからないときはただ沈黙して見上げるかします。アダムが罪を犯してからは、ただうめいていたりすることもあります。そこに父なる神パーソンと、子なる神パーソンと、聖霊なる神パーソンがおられるからです。アダムは人パーソンとしてこの神様との豊かな交わりを当たり前のこととして日々に全時間楽しみました。何も妨げる者は他にいなかったのです。
2 アダムが罪を犯して以来の人間は、聖書が成立するまでは、神が直接的に語りかけられたり、天使を遣わしたり、幻の中で語ったり、預言者を通してみこえを聞かせました。また、神様が書き記させられたみことばとしての聖書が成立したときからは、人は聖書を読むことで、み声を聞きます。真理の聖霊の啓明(イルミネーション)を得て、読んでいる私たちは、みことばの示しに応じて、それぞれ応答をします。そこに交わりが生じます。その結果、主イエス・キリストを信じて、罪のもたらした聖書の神様との断絶から救われて、和解をえて豊かないのちの交わりを回復していただきました。神様との交わりが全存在の基礎となったのでした。以来、人間が生きるために、呼吸を欠かすことができないように、クリスチャン生活にとって、み声を聖書に聞くことと、それへの応答としての祈りは欠かすことのできないものなのです。
Ⅱ 神の交わりへの備え
1 祈りを通して神様への交わりが成り立つのは、何よりも神様の側の積極的な交わりへの働きかけがあるからです。創造者が被造物に向かってへりくだってくださって交わりを呼びかけておられるのです。アダムが罪を犯して神様との交わりから隠れようとしたときのことです。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:8-1。)この神様のお心が、わたしたちの祈りを成り立たせています。救いへの道は、神様の一方的な恵によって備えられたのです。恵によって救われ、恵によって生かされ、導かれ、恵によって完成します。その恵への祈り、応答のすべての局面で聞かれるのは、神様の側の交わりをしようとしてくださる働きかけがあるからです。
それは新約聖書でも変わりません。主イエス・キリスト様は、神の御子であるにもかかわらず、しもべのすがたをとって人となってくださった。その謙卑(ヒュミリエーション)が、わたしたちに直接応答できるようにとの道をひらきました。長血の女性とイエス・キリストの出会いにみられるように、神との交わりは何事でも、人間の側からの一方的な呼びかけや、タッチや、礼拝や決断だけで成り立つのではなく、必ず神の側でそれと分かるように働かれており成り立っているのです。私たちは三位一体の神との交わりを、ヨハネが「見たもの、聞いたこと、手でさわったもの」というふうに、全生活の中で体験させられてゆくわけです。そして「主ともにいます」、ということをさらに強く信じて歩むわけです。信仰のスタートにおいてこのような人格的な神との交わりを大切にしなければなりません。曖昧にしてはなりません。それは全生活がインマヌエルの主との交わりであり、まさに全生活は祈りなのです。生きている一呼吸一呼吸すべてが祈りといえます。吸う息で祈り、吐く息で祈っているのです。
2 祈りは、私たちクリスチャンにとって最も偉大な特権の1つです。箴言15:8には「正しい者の祈りは主に喜ばれる」とあります。祈りが答えられるという経験は、神様の側の備えがあるので、異常なことではなく正常なことなのです。私たちは、祈りについて、神様の答えのすべてを理解できないかもしれません。祈りとは、神が人間に定めてくださった交りの方法なのです。私たちは、祈りによってもたらされる恩恵を、自ら失うことがないようにすべきです。
また祈りとは、ある意味で大きな冒険です。ある人々は、祈りとは何か神秘的な恐ろしいことのように考えます。彼らは、祈りを通しての神との交りを恐れます。確かに私たちは、神の聖さと義を忘れることはできません。しかし神は、信仰によってイェス・キリストを受け入れた者たちの天の父なのです。神は私たちの最も愛すべきおかたであり、すべての人間的愛を超えた永遠の愛をもって、私たちを愛していてくださるおかたなのです。神は、幼子がその両親を慕うように、私たちが単純に確信をもって神のみもとに来ることを期待しておられるのです。
3 決定的な神の側の、私たちの祈りへの備えは、主イエス・キリスト様による永遠のとりなしの備えです。へブル7:24-25「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
聖書の示す主イエス・キリストは救い主です。完全に救うことが出来る救い主です。このお方にすべての鍵が与えられているのです。ヘブル8:2「私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座されたかたであり」としるされています。御座について、ヨハネ黙示録4:2−11に詳しく情景が記されています。「天の御座」は王の存在を示します。命令を下す方、主権の象徴、公の場、万物を支配する座です。椅子と言うよりプラットホームのようなもの。四角で空中に支えられている。そこに座る人は3節、赤く輝き、決まった形を持たない。旧約聖書では、神のことを「火のごとき」とあらわしています。
幻はただ一つの情景からなり、一つの大きな教訓を語ります。中央の正方形は御座を表し、そこには御座に至る階段がある。御座の中央に父なる神がいましたまいます。最中心部の円は輝く白いダイヤモンド(碧玉)次の円は赤めのう(紅玉)、第三番目の円は緑玉のように見える虹、第四番目の円は四つの生き物または御使いたち、第五番目の円は24の座と24人の長老たち、第六番目の円は多くの長老たち、第七番目の円は全宇宙のなかの他のすべての被造物をそれぞれ表します。また、御座の前には7つの燭台とガラスの海があります。小羊は片方に、御座と4つの生き物、もう一方に24人の長老たちという両者の間に立ち給うのです。しかし後には、御座の前に進み、5:7、今や父と共に御座にいましたもう。
黙示録4-5章は天の御座を中心に、天からみた全宇宙の描写です。この幻の目的は万物が御座にいます主によって支配されていることを美しい象徴によって示すことです。万物に当然私たちも入るのです。教会の試練や苦難も含まれます。御座は宇宙の中心そのものです。霊的中心です。宇宙は、神中心で、歴史はこの神の支配のもとにある。人間の責任と自由を完全に守りながら、しかもこの宇宙を真実なる神が、真実なる意志を持って支配し給う。神のご支配の外にある物は何者も存在しないということを教えています。
4 主が「神の右に座し」とはどういう意味でしょうか。
① まずこれは最高の栄誉の座につくことを意味します。列王上2:19ソロモン王の前に母バテシバが出たとき王ソロモンは立って彼女を迎え、母のために座を設けさせた。「彼女は彼の右に座った。」とあります。私たちの主は地上での苦痛と恥辱と拒絶と不信のすべてをぬぐい去られて、よみがえり、天に帰られて、最高の栄誉の座に、神によって着けられています。栄光のキリストを仰ぐのです。
② 次ぎに、神の右の座は、天と地と教会と世界に対する権威の座です。私たちの主は地上では、罪深い人間によって裁かれていました。パリサイ人、律法学者たちは常にキリストを裁きつづけた。ピラトも最後の裁きを下しました。民衆の大部分は「十字架につけよ」と叫びました。彼らは現代もキリストを裁き続ける人間を代表しています。今もなお、同じ思想的文脈の中でキリストを心密かに裁いている大多数の人々がいます。しかし、今や主イエス・キリストは審判者として権威を与えられ、判決をくだすものとなられたのです。全世界が天と地における一切の権威を授けられた主キリストの前に裁かれるのです。
③ 第三に、神の右に座ることは、不滅の喜びを表します。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたのみ前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」ここには、悲しみの後の喜び、苦痛の後の安寧、悲劇の後の幸福な結末があります。十字架の後の休息と栄光があるのです。神の右に座すことは、神の統治と力と尊厳と栄光と喜びにあづかっておられることをしめしています。
5 さて、このように神の右にキリストは座しておられますが、そこで積極的に何をしておられるのでしょうか。
①エペソ1:20−21キリストは王としての支配権を行使しておられるのです。全被造物の上にです。教会との関係ではかしらです。主は遣わされた聖霊によって教会を支配し保護し集め守り、その役員と民に賜物と恵みを与えて働いておられるのです。世界の人々は、この真の主として、今も働き給う主イエスを知らないかのようであり、その主権を認めないようですが、教会はキリストが自分たちの頭であることをまことに知っており、さらに歴史を支配しておられることを認めています。そのことを世界に告示し認知させ、服従させ、宣教と証によって戦っていくのです。
② 第二は、神の右に座し、聖徒のために執り成しをし続けられておられる。ヘブル7:24-25「いつも生きていて、執り成しをしておられる。」どのように執り成しておられるのか。
ウェストミンスター大教理問答55問 「地上でのキリストの従順と犠牲のいさおしによって、わたしたちの性質において絶えず天にいますみ父の前に出ている。わたしたちの欠点や弱さを知っている者として出る。そのいさおしをすべての信者に適用するという、彼の御心を宣言すること。彼らに対するすべての訴えに答えること。彼らのために日毎の失敗にも関わらず、平和な良心とはばかることなく恵みの御座に近づくこと。彼ら自身とその奉仕が受け入れられることを獲得してくださること。」
キリストの執り成しは、何か危険のあるときだけではない。「いつも」という、常に、四六時中、言い換えると、わたしたちはいつも執り成しを必要とするほどに無力である。そのことをわたしたちが気が付いていなくても、キリストはご存じである故に、いつも執り成していてくださるのです。
③ 第三は、預言者のわざを神の右の座から、聖霊を通して続けておられる。神の右の座に座られたキリストは聖霊を遣わされた。聖霊は地上に来られ弟子たちに記憶を助け、新しい真理を示し、キリストの満ち満ちた所までに富ませ給うために働いておられる。この聖霊は今も教会を導き、真理の基礎、柱を立て、信じる者へと人々の心を変え、救いを有効に適用して行かれる。
結び)祈りが、神との交わりであること、それが現代でも可能なのは、神の右の座で、いつもとりなし続けてくださる救い主イエスがおられるからであることがわかりました。私たちの祈りは呼吸のように、みことばに応答して、何でも主イエスの御名によって祈り続けることで成長して行きましょう。