2018年7月8日 マタイ6章16-18節「断食について」
序文)6章1節「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」
主イエスさまは、ユダヤ人の宗教的善行(彼らに取っての義の業)について、「施し」「祈り」と注意をうながされ、三つ目に「断食」についてとりあげられました。
私たちは健康上の理由で断食する場合がありますが、ここでは宗教上の理由での断食について話されたのです。
Ⅰ ユダヤ教徒にとって、断食は、国民的な年一度、贖罪の日に守るべき宗教行事でした。「ついで主はモーセに告げて仰せられた。特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたがのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちはいっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。」(レビ記23章26~29節)。年一度の贖罪の日に、大祭司は、神殿の一番奥にある至聖所にはいり、いけにえの血を祭壇にそそぎ、全国民を代表して一年間に犯した罪の贖いをします。民は一日中仕事をやめ、断食(身を戒める)して過ごします。そうしない者は「民から断ち切られる」のです。これは、しても、しなくてもよい善行ではなくて、しなければ断ち切られるほどの義務的な苦行だったのです。
ほかにも、ユダヤ人は新年を迎えるときも断食しました。また敬虔を求める人々は他に年間10日ほど断食をしました。パリサイ人は週二度の断食をして、それを誇って、他の人が分かるようにしていました。一般的に、このような断食を守る人々は、神に受け入れられている、尊敬に価する人々とみられていたからです。
旧約聖書には預言者たちが民族的な危機に直面しているときに自ずと断食をして神に執り成しの祈りをしていたことが記録されています(ダニエル9:3)。国民全体で断食して祈ることもありました(ネヘミヤ9:1、)。バビロンに捕囚にあったユダヤ民族が、ひきつづき、ペルシャにとどまり、捕囚にあっていたとき。王の役人ハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族皆殺しの危機に直面したとき、王妃となっていたエステルは、モルデカイに「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王の所に参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます」(エステル4:16)。結果は、エステルとユダヤ民族は助かり、ハマンは王の怒りにふれ、一族もろとも殺され、モルデカイが、彼の地位に就くこととなった。
Ⅱ イエスさまは公の救い主としての仕事を開始するときに、「四十日四十夜、断食をし」ました(マタイ4:2)。しかし、主イエスの弟子たちは断食しないと非難されていました。「ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」(マタイ9:14)。初代教会が誕生した頃のクリスチャンたちの中には断食を週二回した人たちもいたようであります。
ところで、宗教的断食が偽善的なものにならないようにという警告は、旧約聖書に既にありました。イザヤ58章は、当時行われていた偽善的断食と主が喜ばれる断食がどういうことかが描かれています。「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか」(58:6)。
主イエスさまは、当時行われていた断食の偽善性に警告をされました。
「偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが、人に見えるように、顔をやつれさせるのです」(6:16新改訳2017)。「やつす」は原語の意味は「目に見えないようにする」ことであり、同じ語は、19-20節では「傷物になる」と訳されています。別訳では「食い尽くす」です。わからないようにする、ことが原義でしょう。ところが偽善者たちは、わざと顔や頭に灰をかぶり
その灰が頭から垂れてきて、誰の顔か分からないようにする、そのことでげっそりとした顔になる。断食をしてこうなりました、と、見えるようにすることで、人々の称賛を得ようとした。イエスさまは「彼らは既に自分の報いを受け取っている。」といわれました。すでに報いを受け取った人に、神様からの報いは必要ではない。
Ⅲ 次いで言われました。「あなたが、断食するときは、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れたことを見ておられる父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」 断食しているユダヤ人たちは、頭に油を塗らない、顔を洗わない、のでした。断食中であることをアピールするためだった。
イエス様は、ちゃんと油を塗り、顔を洗いなさいと言われた。普通のみだしなみを整えなさい。
さらに。あのバプテスマのヨハネの弟子たちへの答えでは、「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しみことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときは断食します」(9:15)です。イエス・キリストという花婿が一緒にいるので断食をするのは無理。喜び、祝うでしょう。花婿が取り去れる日、十字架に死ぬ日には、悲しみ断食する。
取り去られる日、以後のこととして、信徒は、復活の主を知っていた。天に昇られた主も知っていた。再び来られる日は、大いなる喜びに溢れます。それまでの間に、幾たびか、断食して祈る時があるでしょう。
初代教会では、祈りと結びついて、重要な役割を担っていたことがわかります。アンテオケの教会が、宣教師を派遣するときの記録に「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が『さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい』と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した」(使徒13:2-3)。長老選出の時にも断食した。「彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた」(使徒14:23)。
私たち日本長老教会の採用している信仰規準にも神聖な断食をすることについての告白があります。ウェストミンスター信仰告白21章『宗教的礼拝と安息日について』第5項目「敬けんな恐れをもって聖書を読むこと、健全な説教、神に服従して理解・信仰・尊敬をもってみ言葉を良心的に聞くこと、感謝して心から詩を歌うこと、またキリストが制定された礼典を正しく執行し、ふさわしく受けることは、すべて普通の宗教的神礼拝の要素である。このほか宗教的宣誓や誓願、神聖な断食、また特別な場合の感謝の祈りも、それぞれの時また時期に、きよい宗教的な態度で用いるべきである。」
教会として断食を定める時があるかもしれません。個人として健康上の理由ではなくて、信仰上の理由で断食をすることがあるかもしれません。この場合は、見えないところでしているので、断食していることが知られることはありません。
結び)宗教的な善行は、神様に向かってなされるのであって、人に向かって見せるために行われるのではないのです。礼拝、祈り、断食、献金、奉仕、慈善、いろいろの働きは、教会のかしらである主イエス・キリストに向かって行われる。それは天の父が見ておられる。「私たちは、神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた。」主が私たち信じる者のたちに、「あらかじめ備えてくださった」「良い行い」に歩みましょう。良い行いの数々は、神の前に見られている歩みで、天の報いを伴っているのです。その中に断食も入るでしょう。