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2018年7月22日 礼拝 説教 マタイ6:22−23,ルカ11:34-36「全身が明るくなる」(録音音声あり)

2018年7月22日 説教個所 マタイの福音書 6:22-23  ルカ11:34-36

「全身が明るくなる」

「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」

序文)先週の箇所で、地上の生活態度として、天に宝を積むことを目指すようにとすすめがありました。そのために地上生活をどのように見るかの「目の役割」が重要となります。22-23節で、私たちの目が「健やかな目」なのか「悪い目」なのかで、全身が明るく光のなかにあゆめるか、闇の中に全身暗い生活を送ることになるかの、大きな違いが生じると主はいわれました。

私の左目白内障が急速に進み、ぼんやりと人の顔や、文字が特に読みにくくなり、手術となりました。今はすっかりよく見えるようになり、新しいめがねを調整したので、小さい文字も読める用になり快調になりました。右目も少し白内障がありますが、こちらは進展していないので、まだ支障がでていません。問題は、心の白内障が両眼に起こるようになると、みことばの真理を読み取ることが難しくなり、説教準備もおぼつかなくなりましょう。兄弟姉妹に起こっている生活上の変化や支障も十分くみ取ることができなくなり、執り成しの祈りも浅くなることです。聖霊の助けが、今まで以上に、ますます一杯に必要となります。

 

Ⅰ 全身が明るくなる

この数節の表現は実際にはいろいろと理解が分かれて、曖昧になりがちな部分です。一つの理解は、世の光である主イエス・キリスト様も、「からだの明かり」である「目」がないと見えないというように理解する。目は窓のようであり、機能上、外の光がからだに入ってくる役目を果たす。目が健やかだと全身明るくなる。主イエス・キリストの真理といのちが、私たちの中に入ってくるために健やかな目は重要である。素直な心の目がこの役割をはたす。信仰の素直さが強調される。真理をみつけ、道をさししめし、いのちを受け取るのは、健やかな目の役目である。健全な目は、目的のある人生を送らせる。どのようにあゆめばよいかの道を見せ導くことができる。

もう一つの理解は、目はからだ全体の状態を外に表す。落ちくぼんだ目は、からだ全体、心身が弱っていることの現れとなる。目は口ほどに物を言い、とはその人の心の状態をアウトプットしていることを指す。悪い心の状態で物事をみるなら、悪く見える。いろいろの誤解が生まれるのは、目が悪いことでそうおもえることとなる。光をてらすことがないので。利己的な物質主義の人生に終始して、迷いつづける。

どちらにとっても、目が効果を発揮するのは、目が健全であるかどうかできまる。さらに「健全」とは原義で「単一の」「純粋の」「誠実である」を意味します。さらに「気前が良い」「おしみない」「満ち溢れる」とも新約で訳されています。それは「悪い目」(「健全ではない」)がここで対照的に書かれており、それは「嫉妬」「けちんぼ」「欲が深い」を意味します。二重の意味をもつ言葉を使っているので、「目に二心がない」と、「二心がある」と、に分けているのです。

こういうわけですから、「からだ」は全身全霊、人格全体を指していると考えることができます。

 

Ⅱ では、今の時代の、私たちはどうでしょうか。

神は福音のあかりを全人類に見えるように燭台の上に掲げられました。ベイタウンの人々にも見えるように掲げられました。今朝、人々は求めさえすれば福音の光に接することができます。聞く機会があります。絶好の機会に恵まれています。かの時代の人々よりもはるかに比べるべくもないほどの好機と特権に恵まれています。

それに、イエスは事実、三日目に死人の中から復活されたのでした。その結果として教会が今日までも、なお存在し,働き続けています。あらゆる者にまさるお方イエスは、明白に世の光りです。隠されているのはありません。最大のしるし復活を信じられなかった弟子のトマスのために、主はわざわざ現れて、手と脇腹を示して、「信じないものにならないで,信じるものになりなさい。」と言われました。この復活のイエスを見ないで信じる者は幸いです。

ニネベの人々や、シバの女王のように復活がまだ起こっていない時にも、信仰を表すことができた。また、復活が起こったあとも、それを自分の目でわざわざ確かめて、証明しなくても、その目撃証人のことばにより、信仰はもてるのです。キリストを信じるのに不可欠なものは「しるし」では無くて、宣教のことばです。みことばの説教です。みことばは、「私の足のともしび。私の道の光です。」(詩篇119:105)。福音は今や全世界に語り伝えられた光で、かがやいているのです。第一コリント15:1-8.

この神のみことばを聞くことから、信仰は生まれます。そして今まで見えなかったものが見えるようになり、罪のための心の暗やみに光がさしこみ、全身が明るくなるのです。主イエス様のいのちが宿り全身に満ちあふれるのです。このお方を信じましょう。受け入れましょう。信仰の目が健全にイエスを見つめており、みことばを聞いているならば、あなたの全身は明るいのです。

 

Ⅲ 既に信仰に入った人々への警告と励まし

「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。ですから、自分のうちに光が闇にならないように気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」(ルカ:11:34-36)。

警告は、主イエス様からすでに受けた内なる光、信仰の光を暗くするなということです。光を受けながら最大のしるしと最大の神の知恵をかんじながら、信仰の光を暗くし、聖霊の油によってもやし、輝き続ける事をしないならば、からだ全体が真っ暗になって、脱落し、キリストを捨てて行く者が多いのです。

「イエス・キリストは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように光を信じなさい」(ヨハネ12:35-36)。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです」(ヨハネ12:46)。

世の光であるキリストの輝きは、隠されてはいません。輝いているのです。人のことばに乱されず、主イエスのことばを心に入れて照らされないといけません。みことばの光は私たちのまわりにあふれているのに、その中にいながら、不信仰に逆戻りして、光が見えないといっているなら、これほどの悲劇はありません。

また、しるしを見せろとみことばの宣教から迷いでて、いくのなら、それはニネベの人々にさばかれるのです。神は人々の求めるしるしに対して、主イエスご自身を持って答えられました。これ以上を求める事は、もはや、信仰ではなく、神への不信仰です。

もしあなたの全身があかるくて、何の暗いところもないなら、その全身は丁度あかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。そのありさまは、主イエスが、あなたがたは世の光りですと言っておられるようになります。光であるイエスを信じ、従い、みことばに聴き、したがってゆくとき、その人が光となり、あかしの輝きがますのです。そのように主イエスを輝かすものを通じて、また他の人々が、光りなるキリストに導かれて、みことばを聞き救いにいれられるのです。あなたの耳元に語りかけられることばが、神の生きているみことばなら其れによってあなたの心はかがやくでしょう。しかし、それが人間の発する不信のことばであれば、その結果あなたの全身を暗やみが覆い隠すでしょう。自分がどこに行くのかわからなくなるでしょう。

 

結び)光であるイエス・キリスト様を自分の心に迎え入れましょう。全身が明るくなります。そのこころから外に向かっていのちの光が輝き出すことでしょう。そのような人生の歩みはなんと輝かしいことでしょう。

 

 

 

 

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