2018年9月2日 マタイの福音書 7:12 「黄金律」
序文)主イエス様は、これまでの教え、断食について、天に宝を積みなさい、目がすこやかであるように、二人の主人に仕えられません、明日を思い煩わないように、さばいてはいけません、求めよ、探せ、たたけ、の結びに、「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい。これが律法と預言者です。」(12節)ということばで締めくくられました。先に教えられたことの結論部分です。そして、また13節以降を導入している接続聖句ともなっているのです。これは「人生と人の生き方の黄金律」と言われていることばです。
Ⅰ 12節は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(19:19)と同じなのです。今の世は、お互いの独立性を尊重し、あまり干渉せず、お互いに迷惑を掛けないようにという風潮です。(この世の人達の理念であり、これさえも守られない場合が多い。) 新約聖書の奨める愛の実践は、積極的です。
聖書の世界以外では、次のように語られます。ユダヤ教最大のラビ(律法学者)・ヒレルは「自分にとって嫌だと思う事を他の人にするな。それが律法であり、ほかはすべてその説明だ。」と言いました。アレキサンドリアの哲学者ヒロンは「自分が被りたくない事は、他の人にもしてはならない。」ギリシャの哲学者で雄弁家ソクラテスは「他の人の仕打ちにあって、あなたが憤慨するようなことは、他の人にもしてはならない。」哲学の一派であるストア派の基本原理「自分にしてほしくない事は、他人にもしてはならない。」中国の孔子の言葉は「己の欲せざる所は、人に施すなかれ。」
以上ほとんどは否定的に語られています。しかし、主イエスは、自分がしてもらいたいように、他人に対してしなさいと、積極的、能動的に行うことを求められた。「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(1コリント10:24)とあります。(誰も肉では出来ないし、生まれながらの人にとっては、理念にさえ反する。)パウロは、「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)と言っています。
キリスト者の愛の実践は、悪い事をしないことではなくて、積極的に良い事をすることにあるのです。「あなたをのろう者を祝福しなさい。」「あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」「上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。」「すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」これらの奨めは本当に文字通り守れるかというと、ある状況下では、それほど難しいことではなく、どのような人間でも実行可能です。例えば、強盗に襲われている状況で、いのちが惜しければ、言われる通り、要求する通りにするでしょう。まして、すぐに取り戻そうなどと考える余裕も全くありません。戦争で敵軍が占領してきたときに、その支配下に置かれた人々は、これらの言葉が暗示するような行動が出ます。大きな権力が民を抑圧して無理難題を押し付けてきたとして、断固いのちがけで抵抗するよりも、従順に従う人の方が多いでしょう。
Ⅱ 自分にしてもらいたいことを、人にせよと言われる。主にあるクリスチャンとして、してもらいたいことである。真のクリスチャンは、罪人である古い自分の肉的な要求に応じてもらいたいとは思わないであろう。神を愛することと隣人を愛することの二つに律法と預言者が懸かっているとある。これがすべての基準なのです。
「律法」は旧約聖書の最初の五巻をさします。そして残りの書は「預言者」といわれています。旧約聖書全体ということです。主は旧約聖書の全体は黄金律の要約であるといわれたのです。「律法と預言者」ということばは、すでに5章17節以降に出ており、主はそこで、「律法と預言者」を成就するために来た、と言われていました。その箇所の説教を再録しましょう。
主イエス様はここで旧約聖書を成就するために来たと語られたのです。「成就する」は満たすという意味でもあります。完成する、終了させるという意味ではありません。すでに始まっていることに何か付け加えるというのではないのです。旧約聖書がある教えを説く時に、ある程度までそれをすすめた。そこへイエス様がやって来て仕上げをした、というのではありません。
成就したとは、旧約聖書を実行した。完全に教えに従ったという意味です。律法と預言者に語られていることは一つ残らず文字通り実行した。満たしたということです。さらに律法全体の根本を掴んで、それを守ったということです。「廃棄する」はバラバラに分解するという意味です。律法や預言者のことばを分解し、相互の連絡を失わせ、無意味にしてしまうということです。
旧約聖書はイエス・キリストが来られるまでは、その律法は誰も守りきることができない空文だったのです。その預言も予告に過ぎなかったのです。イエス・キリストが来て、初めて「律法と預言者」に一つの大原則が全体を貫いていることが分かったのです。主イエスこそ旧約聖書を満たして意味あらしめたお方です。イエス様が言われた通り「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(18節)。旧約聖書の一点一画が変更されて天国に入る条件や、資格が変えられたのではなく、むしろ、はじめて、旧約聖書の意味が明白になったのです。神の律法は不変であって、天地の滅びゆくまでは廃止されたり効力を弱められたりすることはないのです。天地が存在する間は、一点一画すらすたれることはないのです。主イエス様が来て、この不変の法を成就し、実行し、完全に服従されました。「神の約束はことごとく、この方において、『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」(第二コリント1:20)。
今朝の箇所で、わざわざ黄金律を語られてから、「これが律法と預言者です」と言われたのは、当時イエス・キリストに敵対していた律法学者や祭司たちが、まちがった聖書の解釈と守り方をしているのを正そうとされたからです。
後になって、納得しなかった律法学者がイエスをためそうとして「先生、律法の中でどの戒めが重要ですか。」と尋ねました。「イエス・キリストは彼に言われた。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが重要な第一の戒めです。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(マタイ22:35-40)。と教えられました。
Ⅲ 主イエスの福音が必要です。
このことばは,現代社会に溢れている倫理、道徳、人間関係に関わる一切の教科書の教えを、一語で要約してしまうほどに大切で単純なことばであります。
私たちが、人に対して、どのような態度を取れば良いか、ことに敵対してくる人に対して困っているなら、主イエスは、こうするべきだと言われるのです。何よりも相手について考えるよりも、自分について考えることから始めなさい。「私は何をしてほしいか。どのようにされたら嬉しいか。助けられ励まされるか。」さらに「私は何をしてほしくないか。どうされたら困るか。いやでがっかりするか。」
積極的に考え、次に消極的に考える。両方考えてみる。今朝、家に帰ったらぜひ自分の生活や行動の全体にわたって、行い、思い、会話の点でも、具体的に詳しく書き出してみましょう。
次に、自分のまわりにいる人々、また、遠くにいる人々にも接するとき、自分に対して、この人もこうした点では自分と全く同じだと言いなさい。さらに、相手に対して、自分の行動や態度を決めるとき、自分がされると好き、嫌いと思うことに注意を払って決めなさい。これらは単純なことです。しかし、こうしないために人生のあらゆる不和、騒ぎ、不幸がまき散らされているのです。私たちは人がパンを求めているのに石を与え、魚を求めているのに、蛇を与え、石を投げつけ、コブラの毒によって人を害してきたのです。さて、この原則を実行に移せるでしょうか?
主イエス様は、このように守れないし、行動もできない私たちのために、十字架の福音を、身をもって成就してくださいました。それは、主イエス・キリストが、恵みによって、十字架の上で私たちのために、私たちとともに、死んでくださったからでした。それで信じる私たちはキリストとともに死に、その罪は赦されたのでした(ガラテヤ2:20、エペソ2:5-6)。しかしそれだけではありません。私たちのいのちが新しく生まれ変わらせられて、新しい神の子としての性質にあずからせていただいたのです。キリストが私のうちに形作られつつあるのです。神のご性質にあずからせていただく者とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。それで、福音に生きることで、神を愛し、人を愛することができるように、心と言葉と行いを備えてくださったのです。
結び)私たちは、天の父の神の子だということなのです。天の父のあわれみの心は、私たちのうちに同じ心を持たせておられるのです。福音に生きて、実際に信仰をもって福音の恵みを使用してみる事で、実が結ばれることを経験するでしょう。だんだんと確信を増していただき、主はさらになし続ける力を供給してくださるお方なのです。
神の愛に生かされてある日々を、自覚することの深さに従って、人は他の人を愛せるのです。