2018年9月16日 海浜幕張めぐみ教会 ヨハネ15:12-13
「互いに愛し」
序文)「互いに愛し合いなさい。」主イエス・キリスト様が私たちの身代わりとして十字架にかかられる前の晩に、これだけはと弟子たちに示された、最も重要な新しい戒めです。愛し合うならば、この世に対して、主イエスの弟子であることのあかしとなります。愛し合う模範は、先ず主イエス・キリストが弟子たちに示されたようにです。キリスト教的な愛し方で、わたしたちは互いを愛し、主人や妻や子どもや隣人を愛するのにどのようにしたらよいのでしょうか。
Ⅰ 主イエスの愛が原点
キリスト教がいう愛の原点は何でしょうか。
弟子たちは、互いに愛し合うなさいと戒められる前に、まず主イエス・キリストから最大限の愛をいただいていました。「わたしがあなたがたを愛したように」とある通りです。この主イエスの愛が原点です。弟子たちは、いままでお互いの中を仲裁し、とりなし、教え、励まし、愛してくださった主が、自分たちの前からおられなくなると、すぐに、あのときお前はこうだったとか、ああだったとか言って、一致団結するよりは、分裂するほうに進む危険性があった。でも、それを乗り越えられるだけのいのちと恵みと愛を主イエスはご用意くださった。「愛はすべてのそむきの罪をおおう」(箴言10:12)とあるように、主イエス・キリストは十字架の上で、弟子たちのそむきの罪をおおってくださろうとしておられました。それどころか「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」といわれたように、主イエスは弟子たちの救いのためにいのちを捨てて、最大限の愛を示そうとしておられました。この愛は神様から一方通行で人に与えられるのです。あなたにも与えようと主は願っておられるのです。
人は自分に示された愛の大きさによって、愛してくださった方のいのちを受け継ぎ、今度は自分が他の人をそのように愛することが出来るように変えられるのでしょう。それで「あなたがたも互いに愛し合うこと」と戒められて、愛が実行できることを発見してゆくのです。弟子たちに出来ないことを主イエス様が戒められたのではありません。出来る者に変えてくださったので戒めが生かされるのです。主は言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)。
このような愛は、弟子たち同様に、わたしたちも生まれながらに持っているものではありません。弟子たちだけでなく、私たちもまた、主イエス・キリストを信じるときに「互いに愛し合う」ことが出来るいのちと恵みと愛をいただくのです。聖書の生きておられる真の神様は、主イエス様を信じた者に、新しい神の子としての誕生を与えられます。主イエス・キリストのうちにおられた聖霊が、信じる者のうちにも宿られることによってそうなるのです。聖霊は信じた者のうちにその実りをもたらして、宿っておられることを示されます。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」ガラテヤ5:22。実りの一番初めの実が「愛」です。この愛は行動することで実っていることが分かるのです。
Ⅱ 互いに愛し合う
ところで、ここで主イエス様が弟子たちに求めておられる互いの愛は、多く愛してとか、誰にもまんべんなくとかいった、愛の量のことでしょうか。どうもそうではないようなのです。愛の量ならば、人数が少ない方が互いに多く愛し合えますから、福音を全世界に伝えて信じる者が増えるのは困るのです。教会も人数が少ない方が、牧師を独占できるし、信者同士も親しく家族的で満足で嬉しいでしょう。愛の量と理解して無意識のうちに少ない人数がよい、質が高くなるからとそう考えて、なかなか宣教の広がりを実践できないのです。それではなぜ、主イエスさまが全世界に出ていってすべてのつくられた者に福音を伝えよ、と命令なさったのでしょうか。
ですから愛の量ではないのです。愛の向かう方向が大事なのです。主イエス様が用いられた愛(アガペー)という言葉は、一方通行の愛をしめします。他のエロース(肉の愛)は自分の方にだけ引き寄せる愛、奪う愛、自己満足だけの愛です。フィリア(親子、兄弟、姉妹の間にあり、友情の愛なども入る)という言葉は相互通行の愛、おかえしを求める愛を示します。
主イエスの一方通行の愛をもって、相手を愛するように。互いに一方通行の愛を示し合うようにと戒めておられるのです。互いに愛し合うのだから、相互通行だと理解したら、違ってしまうのです。おかえしを求めないで、それぞれが一方通行で示されるまことの愛をあらわすのです。
Ⅲ 夫婦の結婚生活に示される愛
この例として、家庭の中でどのように愛を示し合うことが出来るかを考えてみましょう。特に、焦点を夫婦に絞って結婚生活で愛をどのように示し合うことが出来るかを、共に考えてみましょう。
結婚生活について、愛を示し合うことは具体的には、個々人の生活と、人との関係に、三つの実用的な原理を適用して、更新して行くことではないかと考えます。
第一は、成長の原理です。夫婦が人格的に成長し続けることです。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」創世記2:24。夫婦であることは全人格的な関係を一体として深めて行く歩みなのです。夫、妻がそれぞれの独自な人格性を確立してゆくことで、成熟するのです。そのために神様がそれぞれにくださった賜物を理解し、その能力や潜在力を発揮して、まだ用いられていない力をだんだん現実に生かしてゆくことです。自分も成長しながら、相手も生かして行く。
第二は、意志性。これは自分の生涯の目標を選ぶことです。結婚生活の目標を夫婦が一緒に共に選ぶことです。その目標に向かって努力することです。意志性とは、単になりゆきにまかせたり、環境や相手を互いに非難することよりも、よりよい未来を創造する力を神が自分に与えてくださったことを認めて、その力を用いることです。特に中年期の人は、自分たちの今までの生活への大変化を経験してゆきます。変化の存在を否定したりしないで、どのように有効に用いることができるかで、暗黒時代になるか、革新の時代になるかが決まると言われています。意志性はその人の残された生涯が長かろうと短かろうと、自由に用いるようにさせます。
この時、キリスト教の信仰と主イエスがもたらす愛を意志的に受け入れるならば、夫婦の関係性は著しく革新され、永遠を見据えた意志性を発揮できるものと変えられるのです。意志的に示される一方通行の愛は、老齢になってゆく過程で、どちらかが、あるいわ双方がそこにいることしかできない状態に身体的、精神的になっていっても相互に関係できない状態になってもなお、有効に働くのです。
第三は、生成力。他の人のために自分のいのちを投資することによって、かえって自分のいのちを発見することです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(マルコ8:35)。中年期は生み出すか、停滞かのどちらかになりがちです。実状はどちらも少しずつしている。教会や、価値観を育てるために、自分の持つ何かを投資することによって、未来について、未来のために配慮をすること。
この三つの原理を統合した生活様式を考えることで、全人格性を成熟させて行くことが出来るのです。
人生を生かし切れずに、可能性を無駄にした結果おこる痛みは、中年期から老年期にかけて夫婦の生活を圧迫してきます。痛みを取るために、ますます働き中毒になるか、過度の飲酒と薬物の乱用、また、絶望的に「暴走する」性関係に走るのです。このような逃避は、偽りの解決に過ぎないことが分かってくるのです。それでますます人生を無情なものにしてしまうのです。これらを防ぎ、いやすためには、もっと成長し、意志的で、生成力をもつ人になることが必要なのです。それは主イエス・キリストにあって可能なのです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」豊かないのちを主イエスは与えてくださり、わたしたちが持つようにしてくださった。
結び)「互いに愛し合う」ことは、私たちのために主イエス・キリストによって用意された、罪の贖いと赦しと清めを受けることから始まります。福音において提示されている約束を二人の人格的成熟のために適用し、結婚生活を活性化し、霊的な深まりと、肉体的な健康保持への心くばりによって、それぞれの年齢段階に応じて調節することを怠らないことです。創造主である神様は、救い主であり、完成者でありますから、それぞれの人生の出会いと日々を豊かに導き励まし祝福しようと待っておられます。過去は戻ることが出来ませんが、これからの人生を意味あるものにし、赦しと愛の交わりに二人を入れて行き、さらに迎える永遠は、今の、あなたの主イエス・キリストへの態度で決 まって行くことでしょう。主の愛を信じ受け入れましょう。
付録:
Ⅳ 具体的に愛し合うため考えてみると役立つと思われること
1 自分自身に与えられている能力、長所、可能性、資産(健康・財産・時間など広く考 える)に焦点を合わせる
2 自分自身のために、結婚生活のために、よりよい未来を創造するのに役に立つことを選んで行うことによって、自分の資産を計画的に用いる。
これからのために、自分たちが確認した長所や可能性、資産を活用して、これからまだ選択できる事柄にたいして積極的にかかわってゆく。
3 「内なるわたし」を良き友とし、強める。自分自身を良く知ること
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」Ⅱコリント4:16
これは配偶者との親しさ以上に大切なことです。外の関係を豊かにしようとするなら、内なる人が日々に豊かに新しくなることです。内なる人は個人的成長の出発点だからです。内面の成熟は、内面を創造された主から与えられるのです。中年期は精神的危機に直面します。それを乗り越えるためには、行動的な信仰を生き生きと保つ、御霊の愛と交わりを深く求めることです。
4 価値観と優先順位を修正する
人生で二人ともに、何を優先するか、価値あるものとするか、再検討を迫られます。内面の指針を途中で修正する必要があるのです。
わたしは自分の限られた時間、エネルギー、能力を、主のために、配偶者のために子供たちに残して行く世界・教会のために、もっと大事なことに用いているかどうかの検討。価値観の修正は、地上を去るまぎわまで何を価値あることとして生きるかを考えさせ、夫婦が一致できるか、相違を受け入れることが出来るかで重要です。
マルコ8:36-37「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」
5 配慮の共同体-育てあう関係のネットワークを密にし、強めること
結婚生活で夫婦以外の人間関係が貧困な場合、問題が大きくなる。人はだれでも受容と愛と配慮を経験させてくれる人が幾人かは必要なのです。多くの人々との表面的なふれあいはあるが、あきあきしている。それは深いかかわり合いがないからです。中年期から老年期に向かって、拡大する家族のような関係の輪を作るように、務めなければならない。夫婦関係が時に危機になる場合でも、広がる輪は安定性と力と復元する支えを与える。相互に愛し合う、支え合うことは、人間関係を健康にし成長させます。主イエスにある共同体としての教会は、神の家族としての愛の配慮、交わりの場にな ります。
6 修正した優先順位に照らして、職業と結びついた、あるいは職業から離れた生活を、ともに考え直してみること。その上で、どちらの生活を進めるにしても、より以上に意欲的になり、充実したものとなるために、必要なことを実行してみる。
7 あなたが打ち込める目的を見いだし、それに積極的に向かう
自分の人生に有意義と思うことに積極的に打ち込めることは、人生に目的と強い興味を呼び覚ます。ボランテア活動や、宣教活動に、社会的問題の解決のために協力する等
8 怒り、罪責感、悲嘆など、自分のエネルギーを消耗させる重荷を降ろすこと。
だれでも人生半ばに達すると、間違いや、失敗や、機会を逃がしたことや、失望することや、罪深い思いと行いを豊富に経験してきている。その重荷を降ろすことが重要です。互いに愛し合うためには、この重荷を後生大事に抱いていては、愛が発揮できない。未解決のままでこれらの課題をおくと相乗的に痛みが増し悪循環を作ることなる。怒りや悲嘆は、自分自身に内向すると抑鬱をもたらします。喪失に対する悲嘆は危機の大きな部分を占めている。心の傷をいやす道をたどることなしに放置してはなりません。過去は変えられない。しかし未来は変えることが出来る。主イエスは人生を変えてくださることが出来るのです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
9 自分自身をまことに今に生きるようにさせる
10 二人で楽しみと遊びの時を計画し、多様性と回数を増やすこと
ONとOFFの使い分を上手にする。OFFを定期的な楽しみ、遊びとして計画を増やし、実行する。二人は一緒に愉快と思うことを楽しむ。子どもの部分を発揮する機会を 作る。二人だけの時間を老後に求めて今を犠牲にしてはいけない。今、必要なのです。そうすれば老後もなお楽しいものと変わるのです。
11 あなたのマイナス面を、可能性をもったプラスの面と評価すること
詩篇23:3-4「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」悲劇、苦痛、損失が人生を織りなす構造の部分であるという事実は、避けがたい。でもその経験の中に慰め励まし贖いの部分を見いだすことができる。主イエスがともにおられる実感が深まる。
12 自分の身体をいたわり、気を配り、大切にすること
ストレスと疲労は、楽しめるはずの良い時期を、つまらないものにする。体の調子を良く保つため、カロリーを制限し、適度に休息し、規則的に運動する。身体的な諸器官を大切に取り扱うなら、自尊心もまし、心の鋭敏さがまし、夫婦生活はいっそう性的にも魅力あるものとなろう。忙しさと疲れと過度の飲酒は寝室に持ち込まれた三重の落とし穴です。