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2019年6月2日礼拝音声


2019.6.2 マタイ11:20-24 「イエスに反対する町々の結末」
 序文)11章の文脈は、イエス様の宣教の言葉とみわざの数々に対する、バプテスマのヨハネの信仰的「つまずき」に続いて、世の人々の反応も「つまずき」で、子どもの遊びのような態度であったことを示されました。今朝は、イエスに反対する町々の「つまずき」と結果としての災いについて語られました。
 
Ⅰ「イエスは責める方」
 20節「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」とある。キリストは、これまでこの町々に教えを説いておられた。(4:17)しかし、これまで「責め始める」ということはなかった。穏やかな手を尽くしている間は荒々しい不快な手段はとらなくていい。キリストに、責めると言う行為は相応しくない。「誰にでも惜しげなく、咎めることなくお与えになる」(ヤコブ1:5)お方であるのに、イエスがこんな行為に出られたのは、罪人のかたくなさのために、そうせざるをえないこととなったのです。最初、招いたのは「知恵」によってでありました。だがその招待が軽視されたとき、「知恵」は「責める」こととなるのです。(箴言1:20,24)
 
 この人たちを責められたのは、彼らの(具体的な)道徳法の罪のゆえではありません。(肉を持った罪人は、道徳法的には50歩、100歩と言って良い)そうではなく、福音の訴えに対する拒否のゆえです。罪を認めて、悔い改め、神に立ち返ること、即ち「救いへの招き」の拒否です。「かたくなさ」が問題なのです。意図的なかたくなさは、福音を受け入れた群衆がいた中で、最大の呪いの罪であり、永遠の刑罰を課せられるものです。
彼らが、キリストは「神のもとから来られた教師」(ヨハネ3:2)であることを信じていないからと言うのではなく(この種の信仰はかなり一般的であった)、そうではなく彼らが悔い改めないことが、一番の問題でありました。キリストが神の元から来るという信仰はあっても、彼らの心を改革する(悔い改める)、そして彼らの生き方を再形成するところまで行っていなかった。キリストが、その他の罪(道徳的罪)のことを責められるのは、彼らを「悔い改めに導く」(ローマ2:4)ためであった。(具体的な道徳的罪が取り除かれればいいというものではない。)「町々が悔い改めなかったので、責め始められた」のです。彼が責めたのは、人々が自らを責め、ついには自らの愚かさを悟ることを求めてのことでありました。
 
Ⅱ「悔い改めに導く」
  数々の町は、キリストの「力あるわざ」を見て、驚き、その教えを受け入れ、その法に従うものも出た。しかし、そこに達しない多くの町々、人々がいた。即ち、からだの癒しなども、本来、霊の癒しに通じなければならないものでありましたが、そこまで行かなかったのです。キリストは、「数々の力あるわざ」と私たちのためになされた恵み深いわざの清算を必ずなさるのです。それは、私たちを「悔い改めに導く」ために、です。(ローマ2:4-5)「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」
キリストが世に来られたのは私たちを祝福するためでありましたが、その祝福を軽蔑される場合のためにわざわいがとってあるのです。しかもそのわざわいは他には見られない恐ろしいものです。
 
コラジンとベツサイダはともにガリラヤ湖のほとりにあり、ともに豊かで人口の多い町でした。ベツサイダからは、3人の使徒が出ました。このように重要な町であったが、「神の訪れの日」(ルカ19:44)を知らなかったが故に、わざわいの下に倒れて、歴史上消滅しました。罪が都市を破壊させたのです。
ツロとシドンは、ガリラヤと境を接する地中海に面した町で、旧約時代から富裕な地で、バアル神への偶像崇拝で悪名高いところでした。しかし、ニネベで起こったようにヨナの説教によって、「荒布をまとい」「灰の中にすわって」悔い改めました。
 真に不従順の子らの中にも、説得に服するものたちはいます。一方、恩恵の働きを十分に受けていながら、心のかたくなさを解かないという大きな悪業があります。どれほど大きな悪を行ったかというより、その非を認め、悔い改めて神に立ち戻るかどうかが問題なのです。
滅び行く者たちのへ呪いは耐え難いものです。しかし、キリストの力と恵みを十分に、そして明確に受けていながら、悔い改めようとしなかった者たちへの呪いは、最も耐え難いものとなるでしょう。
福音の光と響きは見る目、聞く耳の能力を高めて、神の恩恵の富をうけるか、(その恩恵が少ない場合は)神の怒りの豊かな流入を受けることになるかを決定することになります。もし、自責の念が地獄の苦しみであっても、その地獄があってこそ天国に入るための公正な機会を人々に用意することになるのです。このことを知っていることは重要です。 
 
Ⅲ「町々は?」
 カペナウム(ガリラヤ湖の北西岸)は、イスラエル諸都市のなかでも、キリストの主要な滞在地として尊ばれていた(マタイ4:13)のですが、ここでカペナウムをひどく非難される。キリストの奇跡も、ここではほぼ毎日のことであって、従って、昔のマナのように、軽蔑されていた。軽食のごときものと呼ばれ、キリストが神の恩恵に関する慰め多い講義をいくらやってみても、目的を果たさなかった。そこここで彼は恐ろしい怒りの講義を行なうことになりました。慰めの話に聞き入らない人々は怒りの話に聞き入るようにさせられるのです。
決然として言われます。「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデス(地獄)に落とされるのだ。」と。
 
第一に、福音の力と純潔に感ずる人々は「天に上げられる」。この人々は、現在という時間の中で大きな栄誉を授かっている。そればかりか、永遠に入る特権を授けられている。彼らは、天に引き上げられたのです。しかし、それにもかかわらず、彼らがなおも「地にへばりついている」(詩篇44:25)というのであれば、彼らは「天にあげられること」はないということを、むしろ感謝しているのかもしれない。地にへばりつき続けられるからです。 
 
第二に、福音の利点と前進が悪意を持って愚弄、悪用されるなら、罪人たちをさらに、深く地獄へまで沈めることになるでしょう。私たちのこの世における外面的富は、私たちの救いとは全く無関係のものです。私たちの心と生命が、その特権に歩調をあわせないなら、私たちは神の招きを焼き捨てる他ないのです。断崖が高ければ高いほど、そこからの落下は命取りとなってきます。
 
 ソドムは、罪と滅亡のかかわりでは、多分、他のどの町よりも目立つ町でした。(創世記13:12-13,14章)しかし、カペナウムで行われた力あるわざが、仮にソドムで行われていたら、ソドムは救われたことでしょう。ソドムの人たちは、道徳的には、カペナウムの人たちに劣らず悪に染まっていてはいたものの、悔い改めにおいて、カペナウムほどかたくなさはなかったでしょう。ソドムとゴモラは、破壊力を有する「裁き」の現れたところでありますが(ユダ7)、にもかかわらず、破壊を免れて神の赦しのあわれみの記念碑として残されたかもしれないのです。現実には、見せしめとして滅ぼされました。神のあわれみは、100%神側の裁量だからです。まことにキリストのおかげでほんとうに悔い改めるなら、これ以上ないような罪であってさえ赦され、これ以上ない破滅も避けることができることは、このキリストのことばから明らかです。天使たちが、ソドムに遣わされたが、ソドムは残れなかった。だが、もしキリストが遣わされていたなら、ソドムは残ることができたでしょう。後の世は、キリストに従うのであって「御使いたちに従わせることはない」(ヘブル2:5)のです。「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」 キリストがこの町で奇跡を行っていたとすれば、ロトの婿たちには「それは冗談のように思われる」ということはなかったはずです。(創世記19:14)「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」 ――今の多くの人たちも、福音をたわごとのように、冗談のようにしかとらない。しかし、キリストのことばを否むものは、絶体絶命であり、最悪の、逃れられない罪となるのです。
 
 ソドムは破滅したが、それはカペナウムに比べれば(最後の日には)小さな事件でしょう。ソドムは、最悪の不道徳を行ったが、カペナウムのようにキリストを無視するという罪は犯さなかった。もし福音に「死の香り」の力があるとすれば、それは「死から出て死に至る香り」と言われるように、二重の死の力を持っている(Ⅱコリント2:16)。まさに大きな死である。キリストは、ソドムだけでなく、彼の派遣する教職者たちを受け入れず、福音を歓迎しない他の町々のことにも触れておられる。「さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりまだ罰は軽いのです。」(マタイ10:15) 
 
 結び)私たちの手には今や書かれたみことば「聖書」がある。説かれた福音がある。福音に立脚した儀式、礼典があり、助け主御霊を注がれ、御霊の指導の下に生きている。コラジン、ベツサイダ、カペナウムとは比べものにならない利点を与えられている。最後の日における清算はそれ相応に下される。従って、今の時代の信仰告白者たちは、天国であれ、地獄であれ、そのどちらにあっても、その最大の権利義務を負う。天国へ行けるのであれば、そのための豊かなお働きを受けるということで、神のあわれみの最大の受益者である。また地獄へ落ちるとなれば、そこへ落ちないように、地獄から離れさそうとする神の最も豊かなお働きを受けているわけです。その意味において、神の裁きの最も厳しい受け手とならねばならないでしょう。
 「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストの香りなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせる香りであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」(Ⅱコリント2:15-16)
 
福音は、人を永遠の死と永遠の生とに峻別します。ある意味で恐るべき厳粛なものです。こんな恐るべきことを、私たち人間ができるものではありません。ただただ、みことばを、福音を、真実に、誠実に、率直に大胆に語る以外にない。福音そのものが、なすべきことを行うのです。
 

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