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2019年11月10日音声


2019年11月10日  マタイ13:53-58「故郷の人々の反応」
 
序文)著者マタイは、主イエス様につまずいた人々を記してきました。11章から12章バプテスマのヨハネに始まり、イエス時代の人々、奇跡を経験した町々、パリサイ人、律法学者たち、ついで13章から横道に入り、主がたとえ話で人々に語られた。その目的を弟子たちに示した。そして今朝の箇所で、元のつまずいた者たちに戻っている。それはイエスの故郷ナザレの人々のことです。
 
Ⅰ 自分の故郷の会堂で、話された結果、聞いた人々の反応 53節
 さてイエス様の説教を聞いた人々は,どのように反応したのでしょうか。
最初はイエス様の口から出てくる恵みのことばに大変驚いていたのです。明らかに聖霊の力と恵みがあらわされたことばだったのです。
 ところが、聞いた人々は、このことばと語っている救い主ご自身を受け入れることを拒否したのです。「この人は大工の息子ではないか。」(55節)と言ったのです。ナザレの人々は、つい最近まで自分たちの間で30年近く生活をして共にしていたイエス様をよく知っていました。彼ら俗世間の目で見ると「イエスは大工の息子で、母はマリヤで、弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダである。その姉妹たちも、みな私たちと一緒にいる」(55-56節)。その生活ぶりは貧しく、イエスはラビのように特別の教育を受けていない。彼らは、あまりにも肉の目で外見から見たイエスに慣れすぎていて、「しもべの姿」をとって世にこられたイエス様の本当の働き、イザヤ書61章のメシヤ預言が、今、成就したという重大な宣言を受け入れられない、見えなくしてしまっていた。イエス様ご自身の説教内容と、彼らの知っていると思っていたイエスとのイメージのあまりにも違いすぎること、この不一致につまずきました。これが、あのエルサレムの神殿にいる学者や博士たちが語っているのなら、多分何の違和感もなく受け入れたでしょう。
 
人は、この世俗の判断により数多くの恵みを拒否し、神の真理のことばを測ろうとして間違えてしまうのです。霊の心を開いて、このお方が「救い主」だと受け入れることができなかった。彼らの心の思いは、あなたは大工の子ではないか、自分のことをメシヤだというなら、「医者よ、自分自身を癒やせ!」(ルカ4:23)。 
 人を解放する前に、まず自分の経済状態を改善し、自分の人格を磨き、その後で人を救え。
  イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、家族の間だけです」(57節)。普通は、預言者は神から遣わされた神の人として敬われていました。ところが昔から生まれ故郷ではそうではなかったのです。幼い頃から接してきた人物が神の預言者であると認め難かったのです。人間としての仲間意識が強すぎて、神から派遣された人という側面に尊敬を払わなかったのです。イエス様がこの言葉が昔から言われているのを知っておられ、格言にまでなっていたのを言われたのです。
 
 救い主を拒否する心は 、イエス・キリストを肉の心で見ようとする時に起こります。そのように見る者はつまずきます。「十字架」のつまずきがあるからです。自分たちと同じ仲間でしかない。自分たちよりも下である。知恵も能力も財力も人格だって、となるのです。同じ目で教会を見ます。牧師を見ます。兄弟姉妹を見ます。そこにつまずきが起こります。自分の家族の中で、友人や、隣人の中で、イエスを信じて証を立てようとする時の困難が、ここにあります。肉によって外からだけしか、お互いを見ることがないという罠があるのです。
 クリスチャン同士でもよく気をつけていないと、お互い同士に対してナザレの村の人々のような反応をしてしまうのです。お互いによく知っているのです。よく慣れているのです。そのために肉において兄弟姉妹、牧師、長老、執事、リーダーたちを知るだけで事足れりとして、まことにお互いが神様からの者、聖霊を宿している者、新たに生まれ変わった者と見て、交わり、尊敬し、励まそうとすることがなくなってしまうのです。つまずきはすぐそばにあります。主イエスにあって、共にいのちの恵みを受け継ぐ者であることを忘れてはいけません。
 主は「家族の間」と言われましたが、このとき家族はまだクリスチャンになっていませんでした。のちになって「ヤコブとユダ」は弟子となり、ヤコブ書を書き、ユダ書を書くほどの新約時代の重要信徒となりました。
 
Ⅱ ナザレの人々がイエスを拒否した第二の理由
 彼らは自分自身の必要に気づいていなかったからです。もし、イエス・キリストご自身とその宣言された福音に霊の目が開かれて、自身のたましいの必要に気づいていたら、その人はクリスチャンの内に働かれる聖霊の力や、いのちを知り希望に気づいて、自分もまた、救い主を信じるに至ることでしょう。
 ナザレの人々は自分たちの必要に気づかないで、イエスに向かって「医者よ、自分自身を癒やせ」といった風情なのです。私たちの家族が、後になって霊的な自分の必要に気付かされた時に、すぐそばにあなたがいることに目覚めることでしょう。あなたが彼らのために祈っていたことに感謝することでしょう。
 人は自分の必要に気づくとき、その前にキリストが立っておられ、約束のいのちのことばが与えられる時、心からそれを受け取り、救われ、解放されます。
 しかし、多くの人は「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何も無いと言って、実は、自分がみじめで哀れで貧しくて盲目で裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17)。そして、ナザレの人々のように他を批評するだけで終わってしまいます。あなたを散々批評することでしょう。あれは大工の子だ、と。
 
Ⅲ「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」58節。 
  救い主を拒否するところでは、イエスは力ある働きをなさらない。不信仰とは信仰を否定することなのです。不信仰は神の働きを拒否します。そのために、そこに神の救いのわざは行なわれません。カペナウムで行った力あるわざはナザレでは行なわれません。それはイエスがキリストでないからではなく、ナザレの人々が不信仰であるからです。
 
 平行章句であるルカの福音書4章25-29節によると、主イエスの言葉が続いています。預言者エリヤの時代、3年6ヶ月にわたって天が閉じて全国に雨が降りませんでした。大飢饉があったのです。その時イスラエルに多くのやもめがいましたが、その一人も預言者の救いにあずかることがありませんでした。かえって異邦人シドン人のサレプタの一人のやもめのみ、その恵みを得ました。エリシャのときも異邦人シリヤの将軍ナアマンが、そのツァラアト病から癒やされましたが、イスラエルの多くのツァラアト病の人々はそうではなかったのです。なぜでしょうか。当時のイスラエルは神をあがめず、尊ばず、預言者たちを軽んじて不信仰を持って対峙し、神のことばと働き人に歯向かったからです。ナザレの村人も、また、ひとり選民といえども、不信仰のために神は働かれませんでした。たとえ異邦人といえども、信仰を持って期待する者には、神は恵みに満ちている方です。神の救いの恵みは信仰をもって霊によってイエスを迎え入れいる者には溢れ注がれるのです。信じるものが救いにあずかるという、この主イエスの語りかけに、ナザレの人々は、今度は怒りを発しました。
 イエスは神の恵みは不信のナザレから離れ、他の村々にと運ばれてゆくことを語られました。ナザレの人々は自分たちの不信を恥じて悔い改めるかと思いきや、良心に痛みを感じることも無く怒り、狂気に走り、神の容器に反抗し、神の僕に対して侮辱的な仕打ちをしました。イエスを町の立っていた崖っぷちに連れてゆき、投げ落とそうとしました。真理の王を殺そうとしたのです。イエスはナザレで福音を説教しました。恵みのことばを伝えました。しかも彼らを愛し、救おうとされたのです。しかし、彼らはイエスを亡き者にしようとしました。
 
 結び)イエスは彼らの真中を、権威を持って通り抜けて行ってしまわれました。ナザレはこの日からもうイエスの故郷ではなくなったのです。以来ナザレは福音を聞くチャンスを失ったのです。そこで育たれたイエスは万民の救い主として立てられ、働かれ、語られたのに、ナザレからは去ってしまわれました。不信仰は神の働かれる絶好の機会を失うのです。「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
 

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