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2019年11月24日 音声



2019年11月24日 マタイ14:13-21(ヨハネ6:5-6 マルコ6:33-44 ルカ9:10−17)
「五餅二魚」 招詞コロサイ1:15−18前半
 
序文)今朝の記事は新約聖書の四つの福音書に共通に載せられている唯一の出来事です。5000人以上のユダヤの群衆に5つのパンと2匹の魚で必要を満たされた。本文に入る前に、同じような出来事が15:32-39にも記載されています。そこでは異邦人の群衆に、7つのパンと少しの魚で、4000人を養われたとあります。マタイとマルコが、この同じように見える記事を二つとも記しています。さらに16:9-10でこの二つの出来事を主イエス様が追認して、単なるパンのことを示したのでないと言われています。それらの箇所が来ると詳しく話しましょう。今朝はまず、5000人の給食を考えましょう。
  主イエス・キリスト様の自然法則を支配する力と群衆への憐れみが強調されています。弟子たちが主イエス・キリスト様のすすめで休みを得るために寂しいところに出かけたにもかかわらず、その休息が破られて大群衆が押し寄せてきたのでした。普通なら自分たちの休息が破られたので怒るところですが、イエス様は彼らの必死な熱心さに、ご自分だけが与える事の出来るものを惜しみなく与えようとされました。
 
 Ⅰ 主はその飼う者のいない羊のようであるのを見て、深く憐れまれて、魂のために教えのみことばと、体のために食べ物で養われたのでした。飼う者のいない羊は、自分で道を見つけだすことができません。人生の道に迷うのです。導く者がいないからです。私たちの人生は正しく導く者がいなければ迷うのです。イエス様は私たちを神の子としての真理によって導きます。羊の大牧者です。また、飼う者のいない羊は、食物も飲み水も見つける事が出来ません。イエス様は、いのちのパンを与えて力をくださることができます。飼う者のいない羊は、羊を脅かす危険に対して無防備です。羊は盗人や野獣から自分を守ることが出来ません。自分に襲いかかる誘惑、自分を攻撃する世の悪から、自身を防御出来る者はいないのです。イエス様は世の終わりまで、私たちを、共におられて守り続けてくださるのです。
 
 人のための本当の必要は霊の糧です。それをまずお与えになりました。私たちの回りの人々には霊的な必要があります。最先端の街に住んでいますが、そのライフスタイルが魂の必要を本当に満たしていると言えません。本質的に変化が起こらない限り、どこに住んでも変わらず人間関係の罪深い中傷や陰口やうわさ話や、比較によって、互いに傷つけ合っていたり、関わり合いの無さ過ぎるために孤独になっている方々が大勢おられるのです。主イエス・キリスト様は一人一人を憐れみ、それぞれに救いの道を備えてくださるお方です。
 
Ⅱ さて、ここでは、霊の養いと共にもっと詳しく述べられていることがあります。それは主が、神のことばに耳を傾けていた群衆のために、その空腹を満たすために働かれたことです。それによって主は神の支配を求める者には、あとの物をすべて上から授けられるという約束を確証されました。
 ヨハネの福音書によると、イエス・キリスト様は人々の食べ物について、早くから心を配り、自分では何をなさろうとしているか既に決めておられたのでした。「ご自分では、しようとしていることを知っておられた。」私はこの言葉に強く引きつけられています。主は、しようとしていることを知っておられた。実に幸いな励ましの言葉です。
 ピリポに「どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせようか」と言われました。(ヨハネ6:5-7)ピリポはじめ弟子たちは、この問いかけを考えました。その結論は人々にパンを食べさせるには200デナリのお金がいる。それは200日分の給料に相当する。弟子たちにはそのような大金はない。食事時間になると解散させればよい。私たちも自分自身を見るとどうしても回りの人々の必要を満たすことは不可能に近い。そのような必要を満たすことができない。
 
 ところが主イエス・キリスト様は弟子たちの「解散させましょう」という提案に対し「あなた方の手で食物をやりなさい。」と言われました。弟子たちは先ほどのピリポの答えを繰り返しました。弟子たちは自分の食べ物も持っていなかったのです。5つのパン、2匹の魚は群衆の中の子どもが持っていたのです。イエス様は、それをご存知でした。しかしあえて「あなたがたの手で食物をやりなさいと」と言われました。
 主は弟子たちが、「主よ、その食物を与えてください。」と願うかどうかにより、弟子たちの信仰を試されたのでした。神様の前に持ち出すことが、他では与えられない救いを与えられるチャンスとなります。自分に何もないと分かったら、落ち着きなく、ばたばた慌てて、心をあれこれとめぐらし乱すのをやめて、神が働かれる機会を神様に譲らなければなりません。私たちは神様の働きを無視して、願い求めないで、万策尽きたとしばしば思ってしまいます。「神は、ご自分の富にしたがい、キリスト・イエスにより栄光をもってあなたがたの乏しきを補いたまわん。」すべての必要と、すべての祝福は、牧者であるキリストから来るのです。
 
Ⅲ 主イエス・キリスト様は、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を用いられました。
私たちがこの街の26,000人に何も出来ないと考えるでしょうか。それとも私たちが持っている5つのパンと2匹の魚をイエス・キリストに用いていていただくように差し出すでしょうか。どちらにするかを考えなければなりません。
イエス様の回りにいた人々は、実に男だけでも5,000人以上です。少なくとも10,000人以上の人々がいました。彼らが、十分に食べたのです。ピリポは「少しずつ取るにしても」といいましたが、全員十分食べたのです。残りが12のかごに一杯になった。始まりより多く残ったのです。
 
 パンと魚のことでしょう、と済ませられないのです。主イエス・キリストの福音はどのようにして大勢の群衆に届けられなければならないか。主はご自分ではしようとしていることを知っておられるのです。福音を届けられるために、私たちのすでに与えていただいた福音と、それを伝えようとする少しの信仰をも、敢えて用いてくださって、教会がなかったこの地域の人々に届いて下さることを信じます。
 私たちは、自分たちが直面しているいのちのパンを必要としている大群衆を目の前にして、自分たちの経験から来る計算と金銭感覚と結論を優先して、主がご自分ではしようとしていることを知っておられたのにもかかわらず、何もなさらないように、さっさと群衆を解散させていないでしょうか。計画中止を叫んで、そのような挑戦を無謀といっていないでしょうか。これまで一緒に歩んで下さった主イエス・キリスト様を思えば、ピリポももう少し違った答を出せたのではないか。私たちは、これまでよくしてくださった主を忘れないようにしましょう。悔い改めと信仰の恵みに再び満たしていただいて、主がなさろうとしていることを全部していただくために前進しましょう。
 
 どのようにして福音は配付されたか?
 パンと魚はどのようにして10,000人以上の人々に混乱なく配られたのでしょうか。それはルカの福音書に書かれているように、主が弟子たちに「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」と命じられた事から分かります。小グループに分けられたのです。福音が届けられ、信じた人々の信仰の成長のために、フォローアップは、この小グループによる組分けをする事で、数千数万に及ぶのです。
訪問したアメリカ長老教会で大きく成長している教会は皆この仕組みを持っていました。福音の恵みが一人一人に届くために、求道者も信者も組分けられて生き生きとして仕え合い愛し合っていました。
私は小グループによる教会形成を今も考えています。会堂を建てることはできないのです。ベイタウンに小グループの集合による教会を形成するVISIONです。
 
 結び)あなたのために、主は何をしようとしておられるか知っておられます。信仰の目で祈り求めて、信頼と従順が私たちに今必要なのではないでしょうか。
 
エペソ1:15-23「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

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