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2019年11月3日 礼拝音声



2019年11月3日 マタイの福音書13章44-52節「畑の宝・良い真珠」
序文)主イエス様が教えられた「たとえ」は、今朝の所で四つ出てきます。「畑に隠された宝」「良い真珠」「地引網」「一家の主人」です。皆、短いですが、二組ずつ共通している教えがあります。
 
Ⅰ イエス・キリストこそ(福音)まことの宝。「畑に隠された宝」とは、「天の御国」。 小さなものに例えられていた。
キリストの中には「満ち満ちた神の本質」(コロサイ1:19、ヨハネ1:16)。「知恵と知識との宝庫」(コロサイ2:3)。これらはみな私たちのものとなる。
その始まりが小さいから。そのために低く評価するきっかけを誰にも与えないように。それは、今は小さく見えるかもしれないが、とてつもなく大きな価値のあるもの。
 
福音という宝は、旧約聖書と新約聖書との両方の福音のみことばに隠されている。
ヨハネ5:39 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」 
聖書は、他の良い書物より何が優れているのか。キリストの福音はプラトンの哲学、孔子の道徳などより何が優れているのか。こういうレベルでキリスト教を見ている人は多い。自分はクリスチャンだという人の中にも。 
キリスト教の価値は、神の子イエスさまの中にある。畑に隠された宝を見つけても、帰って、持ち物全部を売り払って、戻ってきて買い求めない人は、結局、畑に隠された宝の価値が分からない人、信じきれない人。
 
この畑の価値が分かり、これを買う決心をした者は、福音の出す条件で、福音の申し出た条件に喜んで(快く、イヤイヤではなく、willingly) 応じ、この畑を買う。彼らはそれを自分のものとする。我々が目当てにしているものは福音の中にいますキリストである。我々が天に上ることが必要なのではなくて、みことばの中のキリストが、我々の近くにおられることが必要なのだ。キリストにしっかり目が向かうと「この畑を買うために持ち物全部を売り払う。」 キリストの恩恵に与りたいのなら、それを確実に手に入れるように、持ち物を快く手放さなければならない。「キリストを得、また、キリストの中にある者と認められるように、いっさいのことを損と思わねばならない。」(ピリピ3:8-9)
 
キリストに従うためのコストは、ルカ14:26-33などに明示されている。マルコ10:29-30「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
 
Ⅱ「素晴らしい値打ちの真珠」の話は、畑に隠された宝と同じ話。
同じことが二度繰り返されるのは、意味がある。創世記41:32 「夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。」
持ち物全部を売るとは、キリストへすべてを明け渡すこと。多くのクリスチャンがそれをしない。その理由は、見つけたすばらしい真珠の本当の値打ちがわかっていないから。
 
Ⅲ 「海におろした地引き網」 47-49節
この網は、大きな地引き網のようにあらゆる種類の魚を集める。網が、海の中にある間は、中に何が入っているかはわからず、漁師自身にも区別がつかない。しかし、注意深く引き上げる。中に入っているものが欲しいので、そのすべてを岸に引き上げる。これは見える教会に対する神の配慮を表わしている。と共に、教職者たちとしても、牧会をしている人々に対して、気配りを怠らないわけであるが、そのことを言い表している。最後の審判のときまで、毒麦と麦の区別もはっきりとは分からない。だから、教職者は地上の教会にあっては、両方とも、わからないままに配慮しなければならない。
 
49-50節 キリストご自身は、偽善者の永遠に絶えることのない刑罰として、地獄の苦しみの言葉をしばしば語られる。この真実 ― 人の目を覚まさせ、いのちを蘇らせる真実 ― を、我々として、時折思い起こす必要がある。
 
51節「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。こう言われたのは、もし分かっていなければ、それを説明するつもりを示された。みことばを読んだり聞いたりした人が、皆、みことばを理解すべきであるというのが、キリストの意図である。わからなければ、どうしてそれによって良い物が手に入るであろうか。従って、我々がみことばを聞いて、それがわかったかどうか自分で調べたり、調べてもらったりすることは、良いことである。
種まきのたとえで、4種類の土地に蒔かれた種が、きちんと成長するのは、一つだけ。それはみことばを聞いて、悟る人、すなわち、理解する人のみである。理解しなければ何にもならない。
 
パウロは、使徒行伝20:31で語っている。「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」
パウロは、必死になってみことばを(福音の教理を)教えたのである。聞く方も当然、そういう態度でなければならない。キリストは教えを求めてご自分のもとへ来るように私たちを招いておられる。教職者も、聞いた人がわかったかどうか確かめる必要がある。
ある良い説教は、また別の真理と相互に関連し合い、例証し合えるのである。持っているものはますます与えられ、持っていない者は、持っているものまで取り上げられるとは、まさにみことばの理解のことである。
 
(結び)「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
よく、新しいもの、古いものと言うのは、新約聖書の知識と旧約聖書の知識のことを言うと言われる。いずれにしても、説教者の口から知識が教えられなければならないとすれば、彼の頭の中に知識がなければならない。福音の知識である。従って、教職者の最大の責務は、勉強することであり、そのために、牧師の資質として最も重要なものは、飢え渇きであると、我が神学校の卒業式で語られた。
クリスチャンすべてに当てはまる真理である。
 

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