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2019年2月17日 礼拝音声



2019.2.17 コロサイ3:1-17 「 天国人のように振舞う」 マーク・ボカネグラ師
 
序論
皆さんは、もし他の国籍を得たかったら、自分の国籍を犠牲にすることが出来ますか?例えば、アメリカ国籍になるために、日本の国籍を手放すことができますか?日本人の私の妻にとっては、すこし難しいことです。宣教師家族としてアメリカに出入りすることが多いので、妻のためにアメリカ国籍を取ることを検討していました。しかし、妻は、日本人として有益になるもの、日本人としての誇り、自分が生まれ育った文化と歴史、日本食、日本の「匠のわざ」などを考えると、アメリカ国籍のために日本国籍を簡単に手放すことは出来ないと感じたようです。
 
しかし、私のフィリピン人の両親にとっては、アメリカ国籍のためにフィリピン国籍を手放すことは全然難しいことではありませんでした。むしろ、私の両親は子供たちに違う国籍を与えたかったのです。ですから、私にアメリカ国籍を与えるために、私の母が8カ月妊娠しているときに、アメリカへ行って、私を産んで、私にアメリカ国籍を与えました。そして、私にタガログ語またはフィリピンの文化や歴史を一切教えず、私に英語、アメリカで通用する教育、アメリカに住んで働ける機会だけを与えたのです。両親は、私がフィリピン人として育ち、フィリピンに生きることを望んでいませんでした。
 
一つの質問に対して、なぜ考え方がこんなに分かれるのでしょうか?それは、日本国籍とアメリカ国籍の利点にはあまり差はありませんが、アメリカ国籍は様々なことにおいて、フィリピン国籍よりも断然有利なのです。自分の国籍と他の国籍の価値の差によって、私たちの反応と行動は変わると思います。
 
私が、どうしてこのような話しをしているかと言うと、私たちがクリスチャンになることは、自分の「籍」を変えると言うことなのです。クリスチャンは「天国人」なのです。クリスチャンは、自分が今まで住んで属していたこの「世界」に虚しさを感じ、「天国」での生活に期待し、自分の籍を「世界」から「天国」へ移した者達です。そして、クリスチャンは「天国生活」の準備のために、教会でクリスチャンたちと共に天国の「言語」、「教育」、「文化」、「世界観」を身に付けて「天国」を待ち望んでいるのです。そのため、クリスチャンたちは、この世では「寄留者」または「異国人」とみなされるのです。
 
しかし、クリスチャンも「天国」を待っている間、不安になるときがあります。「え?天国生活とこの世の生活はあまり違いはないんじゃないの?むしろ、この世の生活のほうが楽しんじゃないの?すこしこの世の生活を楽しみ味わいながら、天国生活を待ち望んでもいいじゃない?」と考えるときがあります。
 
パウロは今日の箇所で、その不安に対して強く反対しています。パウロはこういっているのです。「私たちは、キリストの蘇りを通して天国人となり、天に蓄えている満ち満ちた祝福を得る資格を頂いているので、この世の生活を全て投げ捨て、せっかく頂いている天の生活を、今から楽しみなさい!」パウロが言っていることを理解するために、三つの質問を通して説明したいと思います。①私たちはなぜ天にあるものを求めるのか? ②なぜ、この世の生活を殺す必要があるのか? ③どのように天の生活をこの世で送るのか?
 
一つ目の質問は、「私たちはなぜ天にあるものを求めるのか?」です
それは、すでにキリストにあって私たちは天国人なので、天にあるものを求めるのです。
 
「天にあるもの」を意識することは.クリスチャン独自の考えではありません。むしろ、この世でも意識している考え方です。しかし、両者の大きな違いは、「天にあるもの」を手に入れる方法なのです。
 
この前の箇所と今までの流れとしては、「この世」的な考え方では「天にあるもの」を獲得する方法が二つあります。一つは「努力と根性」です。つまり「律法主義」です。2:22-23に書いてあるように、人間の戒めや教えによって、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行を通して「天にあるもの」を獲得することです。要するに、自分の苦労、頑張り、実力によって、天への階段を昇って行き、努力して、根性で全てを乗りこえて、「天にあるもの」を自らの力で獲得しに行く方法です。
 
もう1つの方法は「混合主義」です。コロサイ1章と2章の大きなテーマは、「キリストのみ」で十分であると言うことです。キリストのみにより頼めば、天の相続分を受ける資格(1:12)を頂けるし、満ち満ちた祝福を得られること(2:3)をパウロは散々主張しています。しかし、コロサイ人にとっての大きな誘惑は、キリストに何かを「付け足す」ことでした。彼らは、キリストだけにより頼むことだけでは不安になり、他の神様、力、方法に力を借りて、「祝福」を獲得できる保証を得たかったのです。
 
しかし、パウロは「この世」的な考え方に対して、、こう反論します。まず、「あなたはすでにキリストと共に蘇り、神の右の座に着いていることを忘れていませんか?」と、鋭く私たちに問いかけます。
 
1節には、「キリストとともによみがえらされるために」または「神の右の座に着くために」、「上のものを求めなさい」とは書いてありません。「何かを達成すれば、あなたが求めるものが与えられますよ」とも書いてありません。逆のことが書いてあります。1節には、「あなたがたは、キリストとともによみがえらされた」と書いてあり、私たちは、キリストと共に「神の右の座に着いておられる」とも書いてあるのです。つまり、キリストが私たちの代わりに天までの階段を昇られたのです。そして、キリストを信じる人たちはキリストと結ばれているので、神の右の座に着く特権が私たちにも与えられているのです。
 
もしクリスチャンがキリストの花嫁であり、そして同じ相続分を頂いているのであれば、キリストが「天国人」になられ、「天のもの」を相続されるなら、私たちもすでに「天国人」になって、「天のもの」を相続したことになるのです。要するに、パウロは「あなたには、求めているものがすでに与えられているんですよ!」と、私たちに思い出させているのです。
 
次に、パウロはこうコロサイ人の誘惑に対してこう反論します。「あなたはキリストと同じように、天の祝福をこれから得ると言うことを忘れていませんか?」キリストが蘇えられて、天に昇られたとき、どのような祝福を得られましたか?ピリピ2:8-11節には、こう書いてあります。
Phil. 2:8  自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。Phil. 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。Phil. 2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、Phil. 2:11 すべての舌が 「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
コロサイ3:4節では、もし私たちがキリストと結ばれたのなら、キリストと同じように私たちも天に昇り、天で受ける栄光と祝福を私たちも同じように受けると書いてあるのです。
 
ですから、「あなたのこの世の人生は終わり、天での生活が始まっていることを忘れているのかい?」とパウロは最後に注意します。キリストと結ばれたことによって、私たちは「この世」と縁を切ることを決めたのです。
 
次のような例にまとめられると思います。フィリピンの孤児は、よくアメリカ人の家族に養子にされることがあります。フィリピンでは、貧困の差が激しく、政府からの支援も限られていて、弱肉強食の世界なのです。ですから、多くの孤児にはつらい将来しか待っていないのです。
 
ちょっと自分がフィリピンの孤児だと想像してみてください。もし、あるアメリカ人の家族があなたを養子にすることが決まって、あなたが、その家族の苗字をもらって、アメリカ国籍ももらい、そして、アメリカへ行く航空券もあり、アメリカ人の家族と幸せな生活がアメリカで待っているとしたら、フィリピンに残りたいと思いますか?「あー、フィリピンの文化が恋しくなるから、アメリカ人の家族がフィリピンに引越せばいいのに~」と思いますか?むしろ、アメリカの家族が迎えに来る間、私はアメリカの生活に期待しつつフィリピンの生活には、何の未練も持たないのではないかと思います。
 
クリスチャンにも全く同じことが言えると思います。私たちは天国へ向かっている、この世の孤児なのです。ですから、パウロは2節でこう言います。「上にあるものを思いなさい。地上にあるものを思ってはなりません。」
 
私たちはどうでしょうか?こんなに素晴らしい恵をいただいているのに、私たちはなぜ「この世」のものにまだ関心を持っているのでしょうか?コロサイ人達の傾向を見ると、二つの可能性が考えられます。一つは、私たちはキリストによって完全に「天国人」になったことを信じきれていないと言うことです。もう一つは、単に天国人になるのは「物足りない」と思っていると言うことです。まだこの世のものが恋しく、「天のもの」に付けたしたいのです。私たちには似ている部分はないでしょうか?
 
二つ目の質問を見ていきたいと思います。
②なぜこの世の生活を殺す必要があるのか?です。
天国人として、この世の生活は、偽物の喜びであり、自分を破壊するものなので、完全に殺す必要があるのです。
 
この世に育った天国人としての私たちには、一つの大きな問題があります。1:21節では、私たちがキリストに結ばれる前、私たちは神から離れ、神様に対して敵意を抱き、悪い行いをしているものと書いてあります。そして、天国の籍を頂いていても、私たちの体は、まだ神様に敵対する「この世」に染まっているのです。孤児の例えに言い換えると、養子にされたフィリピン人の孤児がアメリカに着いたときに、その孤児はまだフィリピンの文化しかしらず、アメリカにまだ慣れていないと思います。
 
しかし、パウロは、5節には、「地上にあるからだの部分を・・・殺してしまいなさい」と書いてあります。私たちは「地上にあるからだの部分」と言う言葉を聞くと、どういうことを思い浮かべるでしょうか?コロサイ人の手紙を読んでいくと、他宗教の儀式や偶像崇拝やこの世の哲学、自分で作った宗教などをすぐに思い浮かべますが、パウロはもっと深いことを意識しているのです。「地上にあるからだの部分、すなわち、淫(みだ)らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」と5節に書いてあります。パウロ、そして、神様にとって、この世のものの本質的な部分は心の中の曲がった欲なのです。目で見え、手で触れられる偶像ではなく、心の中に密かに隠れている欲が本当の「偶像礼拝」なのです。そして、6節に書いてあるように、これらの「偶像礼拝」があるために、神の怒りが下るのです。
 
「偶像礼拝」はなぜこれほどの神の怒りをもたらすのでしょうか?偶像というのは、祝福に満ち溢れている本当の神様よりも、安い、石でできた、神様の偽造物と関係を持つことなのです。本当に考えられないことです。21世紀の私たちには、わかりずらいかもしれませんが、もし偶像礼拝を結婚関係に言い換えるなら、自分の目の前にいる愛する妻よりも、自分のパソコンかスマホのスクリーンの中にいる、会ったこともない、幻想の女性と交わりを持つことなのです。私たちの欲は、キリストから喜びを求めるのではなく、安くて中身のない偽造の神様から喜びを求めることなのです。偶像礼拝は曲がった「欲」なのです
 
もしこれを知った上で、神様に対して、「私は天に向かうことをすごく楽しみにしてますが、頂上にあるからだの部分(つまり、偶像)を少し残してもいいですか?」と言うとしたら、どうでしょうか?神様はこう命じられます。「偶像を全て破壊しなさい。全てを容赦なく殺しなさい。」と絶対おっしゃると思います。
 
そしてパウロは、様々な問題の根源はこの「欲」であることも主張しています。8節に書いてあるように、怒り、憤り、悪意、ののしり、口から出る恥ずべきことばの源は曲がった「欲」なのです。9節に書いてあるように、互いに嘘をつくこともこの曲がった「欲」が源です。そして、11節に示唆されているのは、えこひいきや人を裁くこと、差別もこの曲がった「欲」から来ているということです。この曲がった「欲」が人を傷つけたり、関係を破壊したり、戦争を犯しているのです。皆さんはいかがでしょうか?そのような曲がった「欲」またはそのような隠れている偶像がありますか?それはどのような偶像でしょうか?また、自覚していない偶像はないでしょうか?
 
しかし、重要な点は自分の偶像を認めることではなく、その偶像を破壊、または殺すことです。クリスチャンとしてよくあることは、もし偶像を見つけたときに、私たちはすごく悔い改めたい気持ちが与えられますが、私たちはその後、見つけた偶像をただ自分の心の中の押し入れに隠し、「偶像を始末した」と自分に言い聞かせるのです。しかし、これはただ場所を変えただけです。神様が私たちに求めておられるのは、金属バットを取って、その偶像を粉々にすることです。そして、自分が嫌な偶像ではなく、8節に書いてあるように、愛用している偶像も含め「すべて」を捨てることなのです。
 
そして、偶像を破壊する理由もまた思い出す必要があります。これは「天国人」または「新しくされた人」になるためではありません。10節には、私たちはすでに「新しい人を着た」、つまり「天国人になった」ので、天国人のように振舞いなさい、とパウロは書いています。私たちが天国へ向かうことは確実であり、ただ恵みによって神様と永遠に過ごすことができるのです。感謝をもって、そして積極的に、その生活のために準備することは当然のことなのです。では、、私たちはどのように天国生活のために準備をすればよいのでしょうか?
 
三つ目の質問は、「どのように天の生活をこの世で送るのでしょうか?」です。
自分が受けた天の恵をまず思い出し、その恵を言葉と行いで感謝をもって表すことです。
 
12-17節を見ると、この世で行う天国生活は特別なことではありません。親切に、謙遜に、寛容に人と接すること。互いに忍耐し合い、許し合うこと。愛をもって、一致を保つこと。感謝をもって、互いに知恵を分かち合うこと。クリスチャンであってもなくても、このようなことは常識でもあり、世界でどこでも認められている美徳でもあります。このようなことはクリスチャン独自のものでもないし、天国の独特なものでもありません。
 
では、何が違うのでしょうか?それは、このような事柄を行う動機なのです。この世が良い行いをする動機は様々あります。もちろん、悪い動機もありますし、良い動機もありますが、天国人の動機とは全く違います。この12-17節を見ると、天国人は自分が受けた天の恵みをまず思い出し、義務感ではなく、感謝をもって良い行いをするのです。ここの四つの例をみると、そのパターンを見ることができます。
12節に書いてあるように、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着る理由は、「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」だからなのです。パウロがこの表現を使った理由は、イスラエルの歴史を思い出させたかったからです。。イスラエルが何回も神様を裏切っても、何回も神様に敵対しても、何回も他の神様と浮気をしても、神様は深い慈愛の心からイスラエルを聖なる愛されている者として接したのです。私たちはイスラエルのように罪を犯しているのに、私たちを天国人として神の子としてくださったのです。ですから、私たちも感謝をもって、その恵を言葉と行いにするのです。
 
次に、13節に書いてあるように、互いに忍耐し合い、赦し合う理由は「主があなた方を赦して下さった」からです。私たちは神様に対して膨大な負債を負っているものでした。しかし、私たちをその負債から解放するために、神様は惜しげもなく御自分の御子を捧げて、私たちの負債を許してくださったのです。もし私たちがそのような恵を頂いているなら、私たちも他の人に忍耐し、赦すことはなおさらのことです。
 
14-15節に書いてあるように、愛を着けて、平和をもって一致する理由は、「あなたがたも召されて一つのからだとなった」からです。私たちの曲がった「欲」で神様と兄弟姉妹を憎んでいても、イエス様は私たちを御自分の「一部」としてみなされ、私たちと一つのからだとして結ばれて下さいました。私たちも同じように、感謝をもってちょっと苦手な人であっても、自分自身のように愛するのはなおさらのことです。
 
そして、16節に書いてあるように、私たちが互いに教え、忠告し合う理由は、私たちが頂いているキリストの言葉が私たちの罪を明らかにし、救いの道を明らかにしたからです。ですから、キリストと同じように、私たちも愛をもって真実を互いに語り合う のもなおさらのことです。
 
皆さんは、どのように天国生活を送っているでしょうか?人を愛するとき、神様を愛するとき、どのような動機で「良い行い」を行っているでしょうか?自分の評判をよくするためですか?みんなが行っているからでしょうか?何かを得るためでしょうか?ただの義務でしょうか?良い理由があるかもしれませんが、しかし、「イエス・キリストに対する感謝」が私たちの動機の中心になっているでしょうか?
 
クリスチャンが「良い行い」をする理由は、「いい人になるため」ではなく、イエス・キリストの御業を通して、私達が一方的に天国にふさわしいものにされたからなのです。「良い行い」は何かの恵みを頂くための通貨ではなく、「良い行い」はもうすでに頂いた恵みの感謝の表れなのです。
 
結び
3:17は私たちの理解を試す一説だと思います。
ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
私たちがこの一節を読んで、どう感じるかによって、私たちの信仰の本質が問われると思います。「すべてを主イエスの名において行いなさい。」という言葉を聞いたとき、みなさんはどのように感じますか?
 
私はあるとき、少し面倒くさい、もう諦めたい、または重荷と感じるときがあります。そして、ため息をついて、「んー、この世のもののほうが楽しいけど…まあ、言ってることは正しいから…そうだね…よし…じゃあ、やるか…」のように天国生活を送るときがあります。しかし、もし私のそばに養子にされた孤児がいたとすれば、私にこう言うと思います。「あなたはイエスの名を頂いた人になったんだよ!あなたが神様を裏切っても、神様を無視しても、神様に敵対しても、神様は御自分の息子を惜しげもなくあなたのために捧げられて、あなたに三位一体の名前を与えられたんだよ!私たちは神様に敵対する孤児だったのに、御霊を通して、神様のこども、イエス様の花嫁とされて、神様の王家に入ったんだよ!その名前を頂きながら、感謝もしないで、『面倒くせー』と言うのはどういうこと?!誇りをもって、神様の王家に感謝しながら、ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスの名前と名誉を汚さず、頂いた主イエスの名前の栄光を喜んで表すべきだよだ!」と絶対に言うと思います。
 
皆さんは頂いている神様の御名に感謝していますか?もうすでに天国人であること、そして、永遠に天国で神様と共に過ごせることを覚えていますか?それが私たちの生きる意味、唯一望みなのです。
 
この世のものを捨てて、この世でキリストの名を頂いているものとして、大きな喜びと感謝をもって、天国人としてふるまっていきましょう。お祈りします。
 

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