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2019年2月10日


2019.2.10 マタイの福音書10:1-4「12使徒任命」(参照聖句:ルカ6:12-16マルコ3:14-16)
 
序文)主イエス様が、ご自分の周りに集まりだした多くの弟子達の中から、12人を選びだして「使徒」と名付けられた事を学びます。イエス様はこのことによって宣教の拡大と教えの深まりをもたらし、救いのわざの範囲を世界大に広げる準備をなさったのでした。マタイは簡明に12弟子が呼ばれて、使命を受け、12使徒となったことを書いています。ところが、ルカによると、12人を選ぶにあたって、主は、山に行き夜を徹して祈り、備えられたのでした。ルカは特に、イエス様が重要な出来事の時には必ず祈っておられることを書き留めています。神の国の前進と教会の成長の折々の重要な局面で、イエス様は祈ってくださっているのです。私たちはこのことを覚えて、主に大胆に近づき、祈りあって教会の働きのために執事や長老、セルグループリーダー方、教会学校の教師方を選任し続けましょう。
 
Ⅰ 12弟子が任命された目的は三つありました。マタイは使命を一つだけ書いていますが、マルコは三つ書いています。マルコ福音書3:14-16
1 ご自分のそばに置くため
 主のみそばに座り、共に過し、主と交わり、主から学ぶ。弟子たちが寝食を共にして、主イエス様の行くところどこにでもついていって、共に働いて何を主イエス様が願って折られ、何を行おうとされたかを見ること、主イエス様のみこころを間違いのないように理解し、知り、行える者とならせるためでした。
 地上で、イエス様は天の父のみこころをことごとく行われました。ヨハネ17:4「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」17:6-8節「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
 私たちも主イエス・キリスト様のみそば近くに日々に歩み、真理のみことばを味わい、祈りの交わりと生活を通して、みわざを経験させていただくことが求められています。弟子であることの目的は、主イエス・キリスト様に近くあることです。
 
 2 宣教に遣わすため
 12弟子たちは、後にイスカリオテのユダが欠けて、マッテヤが入ったが、宣教に遣わされました。福音を宣べ伝えるため。このわざは今や世界の隅々にまで広がっています。弟子たちの任命の目的は、世界の果てまで福音を伝えることでした。神さまの永遠のご計画が実行されるために弟子たちの誠実さがかかっていました。私たちに届いた福音を、他の救いに与るはずの人々に届ける架け橋となることが求められています。自らも受けたことで、恵みの福音の喜びといのちを他の人に分かち合うためでした。主イエス様に近く歩む者が、準備できて、遣わされるのです。主イエス・キリスト様の存在のすばらしさと福音の恵み深さと愛を近く歩んで経験することなしに、遣わされることはありません。準備なしにはないのです。自分の熱心や意欲で遣わされることが決まるのではなく、主イエス様との祈りの交わり、御言葉の真実を味わったものが、押し出されて福音を伝えさせられるのです。
 
3 悪霊を追い出す権威を持たせるために弟子とされた。
 悪魔とか悪霊について、あるクリスチャンたちは無関心で無知です。まして未信者の方々は、存在を知りませんし、認めたくありません。聖書ははっきりとその存在を示し、その害悪を語り伝え警告をしています。最初の人アダムは、悪魔にそそのかされて神さまに背き、罪を犯しました。悪魔はエバにまず誘惑したのです。「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」(創世記3:6)。これに味を占めた悪魔は、クリスチャンたちをうち倒すために激しく責めます。力を尽くして誘惑します。主イエス様をも誘惑しました。その結果悪魔は敗退しました。それで私たち人間に、主イエス様をあがめることを止めさせようとします。主イエス様が優先順位第一でないように仕向け、代わりの存在を第一に置き、自分の判断を最優先させます。礼拝を止めさせ、御言葉から離れさせます。目先の種々の益を計らせることで、御言葉の約束を発見しないようにさせます。希望を神さまに置かないように導きます。目に見える物に目を留めさせます。だんだん信仰を薄めてゆき、最後には無しにしようとします。
未信者であったときの自分を聖書は次のように表現しています。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ2:1-2)。
 クリスチャンは自分の救いのためだけではなく、悪霊に捕らわれている者たちを解放するために権威を主イエス・キリスト様からいただいているのです。それは相手のために祈ることで行われるのです。主は十分に神の子となった私たちに権威を与えてくださっているのです。祈りと断食を持って主イエス・キリスト様は弟子たちに、この権威を与えられました。
 
Ⅱ 選びだされた使徒たち マタイ10:1-4
選び出された使徒たちは,次の通りでした。ペテロという名前をいただいたシモン、その兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネです。この4人はガリラヤ湖で働く漁師だったのです。ピリポ、バルトロマイ、トマス(この二人は双子)、取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員と呼ばれるシモン(狂信的愛国政党)、イスカリオテのユダ(裏切り者)。
1 これらの人々は、まず、ごく普通の人々であった。世間的には、粗野で無教養な身分の低い者をお選びになった。教養のある文化人はいなかった。裕福でもないし、有名でもなかった。彼らが一人抜けてイエスの使徒になったからと言って、国や、町に影響が及ぶわけでもなかった。一般民衆と異なるところはなかった。この選任にはイエス様のまことの知恵があった。その働きを世間で大人物といわれている人々ではなく、普通の人々の手にゆだねられた。神の教会はさまざまな欠点と弱さを持った、ごく普通の人々の手によって担われ進展してゆくようにと主はなさった。
 良い地位にあった人のなかにも、イエスへの心からの同情者は、多少いました。ニコデモやアリマタヤのヨセフのような人々です。しかし使徒として選ばれるにふさわしいほど、イエスに対して明確な態度を示していなかった。ニコデモはイエスの生涯の終わり頃に、やっとの思いで弁明をおずおずとしただけです。アリマタヤのヨセフはユダヤ人を恐れてイエスの弟子である事を隠していた。彼らは到底十字架の福音宣教者として遣わされるのにふさわしくなかった。だからといって、イエスは奉仕のために、それぞれに与えられている学問、地位、富、人間としての洗練などを決して軽視された訳ではなかった。ただ、イエスはそれらのものを備えているが、献身的でない人よりも、それらを持ち合わせていないけれども、献身的な人の方を選ばれた。召された使命に霊的に整えられるために、社会的地位や、以前の経歴などは、ほとんど問題にならないのです。重要なことは人間の外側のことでなく内側にあるのです。
 
2 これらの12人はまことに奇妙な集団でした。
 例えば、デドモと呼ばれるトマスは、暖かい心の持ち主であったが、性格は憂鬱(ゆううつ)な人でした。物事を悪いほうへ、暗いほうへと受け取る人でした。イスカリオテのユダは裏切り者といつも書かれています。最初は、そうではなかったが、ついには裏切る事となった彼を仲間に加えておかれた。彼だけはガリラヤの人ではなく、カリオテの人で都会人だった。熱心党員シモンは名簿以外のどこにも名前が出てこない。しかし通称「熱心党員」は、その背景が十分語られています。これは政治団体で指導者ユダのもとで、イエスの宣教開始20年ほど前にローマ政府の徴税を目的とした人口調査に反乱し、政治的不満分子として剣や槍で歯向かった国粋主義的活動を狂信的に行っていた。シモンがなぜ精神も目的も手段も異なる主イエスの仲間に鞍替えして入ったのかは分からないのです。しかしこの変化は彼にとって幸いだった。指導者ユダの暴動はローマ軍により鎮圧されたが、後に残っていた火種が再び燃え上がり、巨大なローマ帝国と死闘を演じることとなり、ついには、エルサレムは陥落して、全世界にユダヤ人は散らされることとなったからです。
 イエスは、シモンを12弟子に加えた。危険分子とみなされていた彼が迎え入れられた。一方取税人マタイは、このシモンとは正反対の側にいた。税金を徴収する側におり国を売る者と言われていた。非愛国的ユダヤ人であった。ローマ帝国のためにお金を集めていたからである。ヤコブとヨハネは雷の子とあだ名がついていた。すぐに怒りを露にした。サマリヤの町がイエス様の一行を受け入れなかったときに、彼らは天から火を降らせて燃やしてしまいましょう、などと言った。
 この選ばれた12人の雑多な姿、多様な集まり、両極端が存在している様子は、この中にキリストの教会の芽生えを思わせます。またそのような区別、差別を越えたイエスにある一致を悟らせられます。主イエスを中心にしてのみ、全体が各自のために、各自が全体のために存在する事を教えられます。
 
3 主イエスは 彼らを使徒とされた。
 彼らを選んで任命されたのは主です。主が地上に来られた目的を理解させ、教え、受け継がせ、行わせるために、一方的に選び出された。そして彼らもまた、良くその召命に答えていったのです。 
 私たちもまた、今や、一人一人が主の一方的な愛と選びの中に、キリストに従う者となった。私たちは、使徒の任務を与えられた者ではない。しかし、その働きを受け継いだ者として、彼らの土台の上に信仰を立て上げ、キリストのあかし人とされている。彼らを使徒とされた主は、「使徒の働き」に見られるような、みわざを成し遂げていった彼らの未来を見抜いて、今はいかにつたなくてもスタートを切られた。同じまなざしは私たちにも注がれている。
 
Ⅲ 助け主聖霊の必要
  彼らが使徒として準備が完了するためには、助け主聖霊の注ぎが必要であった。主イエス様は、天よりの力が完成のために必要であるといわれた。
ここに始められた使徒としての訓練と教育は、主イエス様が十字架に向かわれる歩みのなかで達成された、もう一つの重要な使命であった。使徒たちをまことの使徒とならせる。それで最後に彼らの準備の完成のために、助け主聖霊の注ぎが必要であった。「その結果、彼らは、この世に真理を伝え服させるためのとがれた剣、みがかれた矢となった。彼らに蓄えられた知性は、本当の照明を受けて輝いた。偏狭なこころは世界大に広く高く深く拡大した。彼らの持っていた才能は聖められ,神のご用に用いられた。彼らの生まれつきの性格は変貌した。これは聖霊の力によった。愛と慎みの霊として現れた。使徒たちはよりいっそう理性的になり、よりいっそう冷静になり、威厳のあるみことばの講解者となった。もはや無知で子供っぽい弱々しい肉的な者ではなく、御国の奥義を授けられ、いつも聖なる恵みのみ座で、御霊に導かれる者となった。」(ブルース)
 
結び)主イエス様は、私たちがいつまでも群衆の中の一人であることを喜ばれません。むしろ本当の弟子として、聖霊の助けを得て、歩むことを求めておられるのです。主に近く歩み、世界に遣わされ、主の権威を受けていることを日々に確認しましょう。神の民としての完成に向けて、導き続けておられるのです。感謝して従いましょう。

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