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2019年2月24日 礼拝音声


2019.2.24  マタイ 10章5-15節      「12使徒の派遣」 
序)「あなた方を人間を取る漁師にしてあげよう」と言って、主は弟子達を召し集められました。先週の箇所で、主イエスは12人の弟子を「使徒」として任命されたのでした。今朝の箇所は、この12使徒たちが、主イエスの全権を帯びて、主イエスの代わりに神の国を前進させるために近隣のまちまち村々に派遣されることになりました。彼らにとって初めての事でした。いわば実地教育であったのです。キリストは彼らに本来の使命を果たさせるために、第一歩をいよいよ踏み出されたのでした。初めに使徒たちの派遣についてその範囲、教え、活動と心得をまなびましょう。
 
Ⅰ 派遣の範囲 マタイ10:5、6
主イエスさまが12使徒に第一回目の実地教育をしようとされた時に、その目的はあくまで主の心を痛めていた民衆の霊的必要に応じるためでありました。12使徒たちは、主のお心を自分の心として伝道者、使徒として、神のあわれみを待ち望んでいる人々に良き知らせを運んでゆかねばなりませんでした。 派遣された範囲は、「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」(10:5、6)と命じられました。イエス様と滞在している地方であるガリラヤの小さな村々に伝道をしました。彼らは異邦人の道、サマリヤの町に入る事を禁じられていました。このことは主が神の国の基礎を据えるために手始めに選民たちの間に働きを始め、その後に伝道の広がりの拠点作りをするためであったのです。ですから、最終的な派遣が命じられたときには「全世界に出て行って」と主は言われたのです。ペンテコステの約束のときは、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで」と語っておられます。なぜイエスさまが、はじめから「全世界へ」と使徒たちにおっしゃらなかったか、という点で考えられる理由のもうひとつは、彼らの信仰が、異邦人やサマリヤ人を受け止める迄に成長していなかったからではないでしょうか。今は、まだ彼らに「全世界へ」と言えなかった。彼らの心は狭く、しかも偏見が強かった。後になって、実際サマリヤの村で(ルカ9:54)ヤコブとヨハネが「主よ、私たちが天から火を呼びくだして、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言っているほどです。遣わされた地の人々の救いや憐れみを求めるどころではなかった。使徒たちはキリスト者としての新しい性格をもっと受け、神の豊かな愛とあわれみの心をいただく必要があったのです。そうでないと「全世界へ」ということができませんでした。生まれながらのユダヤ人としての肉の強さだけでは、主の世界宣教の命令を果たす事はできませんでした。ペンテコステによる聖霊の降臨は、弟子達を全世界へと派遣する力といのちを十分に備えさせたのでした。
 
Ⅱ 携えていった教え 10章7−8節
 使徒たちが派遣されるとき、主イエス様は彼らに、主が持っておられる権威と力をお授けになりました。すべての悪霊を追い出し病気をなおすための力を彼らは無制限に与えられました。しかし、伝えるべき教えについて「行って天のみ国が近づいた」と宣べ伝えなさいとあります。12弟子が奇跡的な働きについては、彼らがうぬぼれたり、得意満面になりさえしなければ、何も制限する必要はなく、イエスのみ名によって行われたので、イエス様が行ったのと同じでした。「教え」に関しては、「天のみ国が近づいた。」とだけ伝えるようにと制限されました。その理由や必然性を考えてみなければなりません。
 第一、この段階で、弟子達自身が知っていることは、み国が近づいたことと、その為にどのような人も悔い改めて備える事だけであったのです。バプテスマのヨハネから聞いていたことを、メシアであるキリストの来臨を見て、さらに確信し、神の小羊に従って歩んできたのです。まだ彼らは十字架の上での、わたしたちのためのイエスの身代わりの死を少しも理解していなかったし、「み国」の性質についても深く分かっていたわけではなかったのです。ですから、当時のイスラエルの人々とほとんど大差のない理解しかなかったのです。それは主イエス様が教え実行しようとしておられることとは一致しなかったのです。主は彼らがそれについては、誤解を人々にふりまいたり、政治的な王様に自分を仕立て上げる運動に走ったりしないようにするためにも「天のみ国が近づいた」とだけ語らせた。ルカの福音書では地上の国ではなく「神の国」と書いています。このようにして、弟子達による最初の伝道は、地上的なことに望みをおけないような人々に、天のみ国を望むようにと伝えることで、この地上で重荷を負い、疲れ果てている人々を招き安息を与えられた。12弟子達が後になって主の十字架と復活を目撃し、もっとくわしく神の国をおしえられ、贖いのめぐみを理解したとき、初代教会のメッセージは、今私たちに届けられているのと同じ内容として語られた。
 
Ⅲ 派遣にあたっての注意点 8-15節
  主イエスさまが、遣わされるものに与えた注意は、見習い中の使徒として、何をすべきかを示したものです。その中心は「心配しない事」と「恐れないこと」の二つでした。これは、今も受け継がれているすべての宣教師への心構えなのです。主イエスは最初に弟子達を遣わすにあたって、あとから来るあらゆる時代の教会に対して、主の祝福をうけるために、どのような心構えで宣教をし、従事するべきか、その業を遂行していけばよいかを語られたのです。 
 1 生活の必要について用意周到ではなく、摂理にゆだねて宣教地に入るように。「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、2枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。」イエスさまは、今あるままで行きなさい、食べる物や着る物のことで心配してはならない。与えられるはの当然だからです。それらの必要のために神に信頼しなさいと言われた。このようにおっしゃったのには、神のみ国のしもべたちは、その働きに精励して行くならば、神はその兵糧を引き受けられるという確信があるからです。今日でも多くのしもべたちが、この霊的精神を守って来たし、字義通り守った者たちもいます。12使徒として今後の働きを進めるため、この最初の経験において信仰によって生きなければならなかった。今までも、イエスに従ってきて、明日を思い煩う事なく、生きてきた。しかし、この実習にあたって、これからはイエスが共におられなくても、そのように歩むようにと求められた。 
 2 そしてまた、使徒たちが自分のために備えていなかったものを神が、その民を用いて備えて下さる事を望むように励まされた。11—12節「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」イエス様は、どの所にも神と真理への純粋な愛により、み国の使者を家に迎え入れてくれる暖かい心の持ち主が必ずいることを知っておられた。それは勝手な想像でなかった。ソドムのような町にも、知らずに神のみ使いをもてなしたロトがいた。主はイエスを信じるものたちに、いつの時代でも、イエスの使者が親切に取り扱われるようにと勧めておられます。このような思いやりを示される主イエスに仕えて、ガリラヤから全世界に出て行く事は本当に心強いことです。  
 3 その上でなお、イエス様は現実の中には、万事順調であるとは、限らない事を使徒たちに教えられました。14-15節「もし、だれもあなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けないなら、その家または、その町を出て行くときに、あなたがたの足のチリを払い落としなさい。」冷淡にあしらわれることもある。旅人をもてなす事を拒否する無愛想な人々もいる。メッセージを頭から受け付けない無関心の人々に出会う。その場合、みことばを聞こうとしないとしても、使徒たちの責任ではない。足のチリを払いおとして、次のところにゆくように。主イエスが派遣された者の福音の言葉を軽んじる罪は、主イエスご自身を無視する事と同じである。 ルカ10:16[あなた方に耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒むものは、私を遣わされた方を拒む者です。]
 
 4 15節「まことにあなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」福音を聞いた者の責任がここに記されています。ソドムは、その絶望的なまでの、悪徳、放蕩、不義により、神が火と硫黄で滅ぼされた町です。今、行われているうな力ある業、福音の宣教がソドムとゴモラの地で行われたら、彼らはとっくに悔い改めただろう。だから、神の国が近くに来てすぐそばにあるのに受け入れないなら、裁きの日にその責任は大きく問われる事になります。人は、福音を知るチャンスにどれだけ恵まれているかによって、さばかれるのです。世の中には、子供にとっては大目に見られ、ゆるされることでも、成人には許されない事柄がたくさんあります。未開発の国に大目にみられることでも、開発国には罰せられる事があるとおりです。
 福音を聞かないで死んでいった大昔の人々、先祖たちはどうなるのか、と問い 
かける前に、福音を一杯聞いているあなた自身の身をこそ案じなさい。また福音を聞くチャンスに恵まれ招かれていながら、断り続けている人々の行く末を案じなさい。
 
結び)「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる、神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト.イエスにあって守ってくれます。」ピリピ 4:6、7
 
 
 

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