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2019年4月19日受難日礼拝音声


2019年4月19日(金) 11:00-12:00  聖書箇所 マタイ27:45-56
           「わが神、わが神、どうして?」  
 序)主イエス・キリスト様の受難と、十字架の死を見るとき、人間の罪にたいする裁きのきびしさを現実に見ます。「罪の支払う報酬は死である。」天地の主である神様は、どのようなかすかな希望も罪ある人間には残しておられないのです。身代わりの死を遂げた主イエス様のお姿の中にそれははっきりと示されています。同時に成し遂げられた身代わりの死の完全さと尊さと、神様の人間への赦しと愛の深さを新たに受け止めます。
 
 Ⅰ 十字架の暗さ その周辺
 1 マタイは全地が暗くなったとしるします。昼の12時から地上の全面が暗くなって3時にまで及んだ。自然界の暗さです。この暗闇は神様の直接のご介入で生じました。昔、出エジプトの出来事のおり、モーセの言葉に逆らい神に逆らったエジプト人たちの所に「さわれるほどの」暗闇がおそったが、「イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」出エジプト記10:21-23。神様の怒りと裁きを示すしるしとして暗闇が用いられたのです。それは人々の罪に対する怒りと裁きです。
 2 十字架の周りの人々の暗さ 
  祭司長、律法学者たちユダヤ教の指導者たちのねたみが、主イエス様を十字架に付けさせた。このことは裁判官ピラトが見抜いていました。そのピラトも罪なしと、言いながらイエスをバラバと交換して十字架に付けました。兵士たち、通りかかりの人々、皆異口同音にののしりと悪口をあびせかけました。共通していたことは「他人を救ったが、自分を救えないイエス」だったのです。これは確かに正しい判断でした。他人を救い、いやし、力ある業で悪霊を追い出したイエスが、自分を救えない。しかしこの正しい判断でも、実は神様の目からは全く間違っていたのです。キリストはご自身を救わなかったので、いのちの贖いがなしとげられた。私たちを救うことができたという、すばらしいお計らいがあるのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分のいのちを与えるためである。」
 十字架に関して人間がくだす判断は、神様の前で間違っていたという事実を忘れてはなりません。人間の理性の完全な判断でも、間違っている事が神様のお計らいの前にはあり得るのです。
 十字架の暗さはサタンがついに神の子を死においやったという、悪と罪の力の総合であるのです。一時的敗北です。創世記3:15の預言の成就です。へびであるサタンが「主イエスのかかとにかみついたのです。」
 
Ⅱ 十字架の上の暗さ
 1 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」
  十字架の上でイエス様は、父なる神様に見捨てられたことを体験しておられた。それはイエスのたましいの意識のなかで常に彼を満たしていた喜びと平安が去り、彼のたましいに暗闇と孤独と苦悩以外の何ものもなかったということであります。死を前にして父なる神が、味方であられたのに、イエスの敵にまわられたということです。慈愛の父ではなく、罪人に怒りと呪いを注ぐ審判者の立場をとられたというのです。
 2 どうしてこうなったのか。わたしには分からない。イエスさまの思考も感情も皆暗黒の中にあった。そうならねばならなかったのだから、そうにちがいない。でも。なぜ「どうして」というのか。ここにイエスご自身も、われわれも解くことができない神秘があります。すべての人の罪が、一人の方の上にのしかかった、ということの悲惨は、とうてい計り知れない。
 
 3 しかしこの言葉は、同時にイエスさまご自身は自分では見捨てられるようなことに値する何物も、見つけることができないということを示します。十字架の上の犯罪人たちは、自分ではこうなったのは当たり前であると自覚があった。「しかしこの方は何も悪いことをしていない。」
 この暗闇のなかでイエスご自身は罪のない完全さが輝いている。「どうして」といわれたことでそれが証明されている。
 
 4 このことは主イエスの絶望的な問いかけに対する唯一の答えが「あなたは他の者のために苦しむ」ということであると教える。キリストは自分がなぜ苦しむかをしらなかった。彼はただ一つの事実だけを知っている、それは彼が自分の罪のために苦しむのでなく、他の人のために苦しむということを。「神は、私たちの罪のために罪を知らない方を罪とされた。それはわたしたちが彼にあって神の義となるためなのである。」Ⅱコリント5:21
 知るべきはイエス様の絶望の叫びではなくて、本当は神から捨てられなければならない私たち罪人の絶望と戦慄の叫びを、十字架の上で代わりに叫んでくださったということです。本当は私たちが十字架につけられて叫ぶべきことばだったのです。
 
Ⅲ 十字架からさしくる光
 1 主イエス様は、このさけびをなげかけつつ、み父から離れなかった。この暗闇の中でなお、み父の元にとどまっておられる主を知る。神をのろうこともしなかった。こんなことがあるなら、とか、神の憎むとかいわなかった。神よ、たとえあなたが私を見捨てたとしても、あなたは最善をごぞんじです。だからわたしはあなたをはなれません。あなたなくして生きることができないのです。あなたがみ顔をかくされて、くらやみが覆っていても、私のたましいをお捨てになったこのときも、神よわたしはあなたにさけびます。
 私たちの日常に、主イエスが経験されたほどの見捨てられたとの事件があったでしょうか。いろいろあったでしょう。でもこれほどの事はなかったのです。なぜなら主イエスは全人類の罪を全部負われたからです。本当の意味で神が見捨てることに耐えられたのは、救い主イエス様だけなのです。そのことによって、神が私たちを見捨てなかったことを示されました。どれほど深い憐れみと愛でしょうか。あなたは神に近く、備えられた救いの道に導かれて、今歩みをすすめています。感謝です。
 一部始終を主イエス・キリスト様の十字架の真正面で目撃した百人隊長は、{イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。}「ユダヤ人の王」と言ってあざけっていたローマの兵隊グループの隊長が、「まことに神の子であった」と告白したのです。イエス様の死は、あざけりつばきし、ののしっていた者たちを沈黙させ、ついには神の子であったと告白させるほどに人を恐れさせ、謙虚にさせ、素直にならせるのです。どのような、いきさつが、これまでのあなたの人生にあったとしても、まじめにジッと十字架の主イエス・キリスト様をみつめるなら、赦しの祈りに心とかされ、素直にうけとめ、平安が静かにあなたのこころに満ちてきて、あなたのいのちは新しく神の子としての誕生をいただけるのです。
 
 結び)ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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