2019年2月3日 マタイ9:35−38 「働き手を送ってください」
序文)この部分は、これまでしるされてきたキリストの教えと奇跡のわざのまとめです。35節の「イエスはすべての村を巡って…教え、…あらゆるわずらいを直された」は、4章23節と同じです。4章23節は、これから始まるキリストの教え(5,6,7章の山上の垂訓)、キリストのいやしのみわざ(8,9章)に対する先導役の務めを果たしていた。そしてこの9章35節は、それらの総まとめとしての確認です。
Ⅰ 35節 「証明の終わり」
1 従って、この個所は、「証明の終わり」です。ここでは、福音書記者は、次のように述べているように思われます。「さて以上で、キリストの教えといやしを具体的な実例を差し挟みながら、よく説明することができたと思います。イエスの説教の項目と、いやしの実例をいくつか挙げて、主のみ教えがおわかりいただけるようにいたしました。“これらのことが書かれたのは、あなた方が信じるため”(ヨハネ20:31)ですよ!」
今回のガリラヤ巡回は、イエスとして第二回目であったと考える注解者もいる。そうだとすれば、一度説教したことのある人びとを、ここで再訪したことになります。パリサイ人たちが、イエスにけちをつけ、反対ののろしを上げても、イエスは動ぜず仕事を続けられました。イエスは「御国の福音を宣べ伝えられた。」イエスは、恩恵と栄光のみ国を宣教なさったのであり、そのみ国は、いまこそ仲介者の支配の下で、打ち立てられる必要があります。これこそが福音、「良い知らせ」「すばらしい喜び」なのです。ルカ2:10「御使いは羊飼いらに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
2 イエスさまは、町や村を巡って、会堂で教えられたとあります。公の礼拝をとおして宣べ伝える。イエスは会堂で教えられたが、それは公の集会は(例えどれほど堕落していようとも)重要なものであると証言なさりたかったからです。我々は、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたり」(ヘブル10:25)してはいけない。従って、使徒たちも、たとい福音の教会が建ち、キリスト教の集会が備えられても、しばしば「ユダヤ人の会堂で教える」ということが起こるのでした。存在しているものをよく活用するということが、知者の知恵というものです。
Ⅱ 派遣への導入
1 さらに、この個所は、10章のはじめに語られる弟子たちの任命、派遣への前書き、導入の役割を果たしている。癒(いや)しを求めて御許へやってくる人たち以外の多くの人たちがイエスの目に入っていた。それらの群集を憐れまれ、かわいそうに思われ、心配されたのです。貧しさ、病気の問題もありますが、それ以上に、霊的問題があります。彼らが、無知蒙昧(もうまい)で、洞察の欠落の故に、いつ破滅に陥っても仕方がない状態にあることをご覧になって心を痛められた。悲惨は憐れみの対象です。なかでも罪深く、自己破滅的な人々の悲惨はこの上ないあわれみの対象となります。キリストは、自分たちを哀れむことを知らない人々を、深く憐れまれた。私たちも、それに見習わなければなりません。キリスト信徒に最もふさわしい同情は、他人に対する同情であって、それこそまさにキリストに似た同情です。
さて、このあわれみの原因はなんでしょうか。群集は…、弱り果てて倒れていた。貧窮し、弱り果て、迷って、皆がばらばらになっていた。律法学者やパリサイ人らは、おろかな考えに終始し、先祖の言い伝えにとらわれ、多くの過ちに陥ってゆく。彼らは務めを果たしながらも、教えを受けることもなく、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを知ることもなく、霊的ご性質も知らない。だから、彼らは「弱り果てて倒れている」仲間なのである。「いのちのパン」の代わりに「いなご豆」や「灰」などで腹を満たしている人々に、霊の健康、いのち、活力などあるはずがない。貴重な霊の持ち主が、「弱り果てて倒れる」のは、真理の言葉に養われないままで、務めを果たそうとする時、誘惑を撃退しようとする時、苦難に耐えようとする時です。
2 「羊飼いのない羊のように倒れている」は、Ⅰ列王記22:17の引用である。「彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」これは、妻イゼベルのそそのかしによって、最悪の王であったアハブのとき、アラムとの戦いの時の預言者ミカヤの言葉です。神のことを思いつつ信仰深い導きをしてくれる先導者のいない状態を表現しています。迷うとなると、まず羊です。いったん迷い込んでしまうと、どうにもならず、無策で、野ざらしになるのです。家路はますますわからなくなります。罪深い人々は、「迷える羊」とかわらない。彼らは家へ連れ戻してくれる羊飼いの手を待っているのです。ユダヤ人の教師たちは、自分たちが「羊飼い」であると思っていた。だが、キリストは、人々には「羊飼い」がいないと言われる。羊飼いは、居さえすれば良いというわけのものではない。怠惰な羊飼い達は、羊たちを連れ帰るどころか、かえって迷わしてしまい、餌を与えるどころか、毛を切り取ってしまう。
そのような羊飼いのことをエレミヤ23:1やエゼキエル34:2などが非難している。「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主の御告げ。――」「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。」まことに、教職者のいない人々、教職者はいるにはいるが、いない方がましだという有様の人々は、あわれです。「キリストのこと」や人々の霊魂のことを思わず、(ピリピ2:21)「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」自分のことしか考えない牧者など、いない方がましであります。
Ⅲ 働き人専任と派遣の祈り 38節
1 イエスは弟子たちに、この人々のために祈れ、と勧められる。主は、あわれみの心から、この人々のためになることを考えておられる。ルカ6:12−13によると、イエスは弟子達を派遣する前に、ご自身では長時間祈りに費やされた。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。」
私たちも、私たちが憐れむ者のために祈りを積まなければならない。「収穫は多いが、働き手は少ない」(37節)。即ち、人々は、みことばからの、良い説教を聞きたがるが、良い説教者はいないと言っていい。仕事は山ほどあり、山ほどの施しの行為が求められているが、それに手を付けてくれる働き人はいない。このことばは、第一に「収穫は多い」という励ましです。教えを必要とする群集がいると言うのは、よくある状況ですが、問題は、彼らが必ずしも教えを求めず、願わず、進んでそれを受けようとしない矛盾が起こることでもあります。イエスさまを追い掛け回した群集がそのことをあらわしています。必死に追いかけ、感心して、驚いて聞いていたのだが、結局教えを嫌ったのです。しかし、十字架の後、ペンテコステの後、聖霊の御働きを得て、使徒たちがするみことばの説教を通して、多くの人たちが信仰へと導かれました。
2 働き手が少なければ、穀物は地に落ちて腐れるに任せる以外に打つ手はない。教会にはなすべき良い仕事があっても、良い働き手がいないためにそれが進捗せず、或いは進捗してもその進み方はのろい。真の働き手が出現したとすれば、仕事はことのほか忙しいこととなります。
弟子たる者の務めとして、「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるよう祈りなさい。」と言われている。我々は、現在の教会の危機的状況の改善のために祈らなければならない。時代の趨勢(すうせい)を見通して、イスラエルとして何をすべきかということばかりではなく、何を祈るべきかということを考えなければならない。
3 キリストを愛し、人々を愛する者はすべて神への祈りを心から捧げ、とくに「収穫が多い」 時には、祈りを繁くして、神がいつもより優れ、忠実で賢く、勤勉な「働き手を収穫のために」 送ってくださることを求めなければならない。罪人の回心や聖徒たちの向上の仕事のために役立つ人々を、神が立たせてくださるように、またこの人々に仕事を遂行できるだけの霊が与えられ、仕事に立ち向かい、仕事を達成させていけるように、祈らなければならない。働き手に人々の魂を得るだけの知恵が授かるように祈らなければならない。働き手といえども、時には自分自身の弱さや他の人々の悪意や反対に出会えば、嫌気が差すこともあろうが、そのような時にこそ、この人々を励まし、「収穫」の仕事に立ち向かわせなくてはならない。そう祈らなければならない。特に神が、我々の内側からの矛盾、外界からの矛盾を征服して下さるように祈らなければならない。
キリストは「収穫のために」使徒たちを遣わす前に、使徒たちの友人たちにこのように祈りをするように求めたのである。まことに、神は「恵みの座」 に連なろうとする人々を励まして、それが達成できるようにと祈る時、神は特別の恩恵を人々に与えて下さろうとする。
働き手たる者は、第一に、自分たちを送り出してくださるのが、他ならぬ神でありたもうように、祈らなければならない。祈りに応じて賜る委託の指名は、大体において成功するものです。
そして、働き手たる者たちは、神が他の働き手をも遣わして下さるように祈らなければならない。まことに、一般の人々だけでなく、教職者自身が、教職者の数を増すことを願い、祈らなければならない。
バプテスマのヨハネの言葉「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)自分自身は、衰えなければならないと、どれだけの教職者は思っているだろうか。キリストの栄光のためには、自分は犠牲になってもいい、逆に自分の栄光は、泥まみれになって良いと思うものは、後の日に、神が高くされる。イエス・キリストがそうであったのである。使徒たちも、皆そうであった。偉大な神学者たちのうちで、石持て追われるように追放され、寂しく死んだものも少なくない。まことに私たちの永遠の住まいは、この地上ではないのである。
結び)今の21世紀に、「収穫は多いが、働き手は少ない」という宣教の主のみ声に、応じて、私を遣わしてくださいと祈り、応じる者が、この会衆の中から、出て派遣されますように祈ります。