2019年9月29日 投稿者: 廣橋 嘉信牧師 カテゴリ:news 2019年 9月29日 マタイの福音書13章10-23節 「実を結ぶ」 序文)今朝の聖句はイエス様が種まきのたとえの説明をしてくださっているところです。10-17節で、まず、なぜ説明が必要なのかを話されました。弟子たちがたとえ話をよく理解できるようにと主は助けてくださっているのです。 Ⅰ なぜ説明が必要なのか 1 さて主イエス様が、なぜ、たとえで話されるのかというか弟子たちの質問に答えられた内容に、この段落が、挿入されている目的がわかります。1-9節でたとえを話されたのだから、すぐに18節からの解き明かしをされても良いのにと、話しを聞いている群衆のためにも、今、読んでいる私たちのためにも考えてしまいます。そうされなかった理由があるのです。理由は、群衆にではなく、近寄ってきた、弟子たちに向けて話されているのです。 第一の理由は、弟子たちには「天の御国の奥義」を知ることが許されているが、一般の人はそうではないから。奥義は真理を知ることです。奥義という言葉は、四福音書でここだけに使われている言葉で、使徒パウロにとってこの奥義と言う言葉はとても重要な役割を担っていました。パウロはこれを福音の真理・神の真理ととらえています。奥義は神から啓示として来るのであって、知らされた人々が真理を理解して受け取ることができると主は言われました。イエスがメシア・キリスト・救い主であるという事実のことです。神からの一人一人への聖霊による解き明かし無くして理解し得ないというのです。「知ることが許されている」は、「知ることが、与えられている。」完了形で、現在も賜物としてこの真理を所有している、と弟子たち、私たちに言われたのです。 2 理由の第二は、13節—17節 人々がイエスをメシアだと理解しないからだ。群衆は、これまでもイエスが天から来たことによって、御国が到来して、メシアとしてのメッセージと奇跡の数々を目撃してきた。必要な情報はすでに充分与えられてきた。しかし彼らはメシアとしてイエスを受け入れようとしなかった。これ以上になすべきすべがない。それで、イエスさまはこれ以降、彼らに「たとえ」で話される。例外なく群衆にはたとえの数々を話されます。それは、彼らが聞くけれども理解しないため、心で悟ことがないためです。なぜ彼らは理解しなかったのか、受け入れなかったのか、それは、彼ら自身のメシア概念があって、それに合わなかったので、いくら聞いても受け入れられなかった。 「たとえ」は「傍らに置く」と言う意味があります。真理の傍らに、真理を指し示すために置かれたのです。真理そのものではありません。真理は目の前におられる主イエス様だからです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と言われている通りです。 イザヤの時代の預言が成就したと主は言われました。この言葉が私たちに当てはまらないことを祈ります。みことばを聞いて理解して、行動に移すことを願いましょう。その力は助け主聖霊から与えられるのですから。 Ⅱ 解き明かし 1 蒔かれた種は、神のみことば、ここでは、「御国のことば」です。福音のことばは御国のことばであること、即ちこの世の言葉ではないということをしっかり心得る必要があります。福音は、御国から来て、御国へと至らせるのです。このことばは、蒔かれた種であって、死んで干からびたように見えても、生まれ出るものは、すべてその中にあります。それは、「朽ちない種」(1ペテロ1:23)魂の中で、「実を結ぶ」福音です。 「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて、本当に理解したとき以来、世界中で起っているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています」(コロサイ1:5-6)。 2 種を蒔かれる方は、主イエス・キリストご自身と彼が遣わす教職者である。群集に説教することが、穀物の種を蒔くことに擬せられている。人の心が、土地、田畑に例えられていて、蒔かれた種が育って実を結ぶかどうかは、土地の状況による。即ち、受け入れる人のこころ次第だと語られている。土地の種類によって、非常な苦労をして、大変良い種を蒔いても、全く実を結ぶことのない土地もある。(いくら熱心に福音を伝えても導くことが出来ない人があるということ、このことを知っていることも重要。エゼキエル3:18-20参考) 3 ここに4種類の土地が書かれている。しかし、育って、実を結ぶのは、一つだけです。「私たちの聞いたことを、誰が信じたか」(イザヤ53:1)とありますが、キリストご自身から福音の説教を聞いても、これはひどいことばだ。そんなこと誰が聞いておられようか。」(ヨハネ6:60)と言って離れ去って行った人の方が多いのです。共通のお召しに出会って呼び出される者の数は多いのですが、呼び出されても永遠へと選び出される者の数は、極めて少ないと言われていることを厳粛に受け止めなければならない。(マタイ22:14)。 「道ばたに蒔かれた種は、鳥が来て食べる」とは、道は硬いから、種は土の中へ入っていない。丸見えで、鳥が食べるのであるが、みことばを聞いても、(真意を)理解しない人のことである。彼らはみことばに注意しないし、捉えようとしない。道は種を蒔くところではないから、実を育て良い実を得ようと始めから思っていないのです。本当の意味で聞こうと思っていない。彼らは、サタンの虜となっているが、それに満足しているから、簡単にサタンの妨害に屈するのです。 岩地に例えられる者。ここは道端より少しは土があるので、多少は芽を出す。みことばを聞いて、何か言い印象を持つのです。道ばた組より少しましなのです。この人たちは、普通の人たちより少し先を行く人なのだが、天国に達するには至らない。では、どの位先に行っているのか。彼らは「みことばを聞く」。それに背を向けたり、耳を押さえたりしない。しかし、どんなに頻繁にどんなに真面目にみことばを聞いても、ただそれだけのことであるなら、決して天国へは行けない。彼らは、聞くのが早い、すぐに受け入れる、すぐに芽を出した。むしろ、良い地に蒔かれたよりもすぐに芽を出したのです。 良い説教を聞いて喜ぶ人はたくさんいるが、それによって学ぶところまで行かない。みことばが気に入っても、それによって自分が変ったり支配されたりしない。心はみことばによって感動しても、融けてしまって、新しい鋳型に収まるようにみことばに融かされることはない。多くは「神のすばらしいみことばを味わい」(ヘブル6:5)そこに楽しさを見出すとは言うが、棄て難い情欲が舌の下でうずうずして、みことばとは反りが合わず、また吐き出してしまう。激しい反応もその力の印象が残っているときだけである。 根がないとは、彼らの判断を行なった根拠が、しっかりした決意にも明確な原理にも基いていない。みことばの伝える福音を知的に理解した知識という岩盤がないので、その信仰告白には、意思の堅固な決心があるわけでもなく、感情的にも根を下ろした確固たる習慣が形成されてもいない。 信仰告白という緑の葉はあっても、恵みの根はない。かたくなさが心の中いっぱいに広がっている。やわらかい土は表面だけ、内側の心は岩のように動かされることはない。私たちの根である、キリストに信仰で結ばれていない。信仰告白はあっても信念がないところに、忍耐を期待することはできない。 迫害が来ると簡単に逃げてしまう。キリストの十字架も、ある者には「いのちから出ていのちに至らせるかおり」であり、ある者には、「死から出て死に至らせるかおり」である。ある者を背教へと追い立てるのと同じ患難が、他の者には、「測り知れない、重い栄光をもたらす」(2コリント4:17)。 ある者をゆるがす試練が、また他の者を堅固にする(ピリピ1:12)。考慮せずに取り上げた信仰は、普通何の考慮もされずに棄てられる。「簡単に得たものは、簡単に失う」のです。 いばらの土の麦。蒔かれたときは、いばらは伸びてなかったからある程度成長した。先の二つのケースより進んだところまで到達しているのです。この場合、根はあったわけで、信仰告白を必ずしも棄て去ったという状態ではない。しかし、まだ救いの恩典を十分に受けるところに達していない人です。みことばによって得られる善は、この世の些事に少しずつ打ち負かされ、抑圧される。繁栄は、迫害と同じように、心にあるみことばを滅ぼすのです。これは静かに行なわれるだけにさらに危険である。岩は根をだめにするが、いばらは実をだめにするのです。 いばらとは何か。来るべき世に対する心づかいは、この種の芽生えを速めるが、この世に対する心づかいは、それをふさぐのです。この世の心づかいは、神のみことばによって得られるものを得られなくし、宗教に通じるのを大きく妨げる。「いろいろなことに心配して、気をつかう」者は「どうしても必要な一つのこと」を放って置くのが普通である。(ルカ10:41,42)。 富を得るとこの世の心づかいから開放されるようだが、満足しきると傲慢になって、恵みを忘れる。いつの間にか富が主人となっている。富そのものにではなく、富の惑わしに陥る。我々の側で富に信を置かず、期待しなければ、欺かれることはないのですが、良い種を枯らすのは、じつは、ほかならぬ富である。金銭を愛することは、あらゆる悪の根と書かれている。(1テモテ6:10) Ⅲ 実を結ぶ 良い地とされる聞き手とは、知的な賢い聞き手である。「みことばを聞いて、それを悟る人(正しく理解する人、この世のことばではないという観点で)」である。みことばの真意を正しく認識するだけでなく、そこに自らの関心を見出す人です。そして、一言で言えば「実を結ぶ人」です。神は、みことばを通して、理性を持って、人を人として扱われ、理解を深めさせ、私たちの意志と感情を御手の内に置かれるのです。みことばを正しく、深く理解し、それを励行する時、実を結ぶことができる。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」 私達が、霊的に成長するのは、聖霊さまの導きなのであって、我々が勉強することによってではないと言う人があるが、聖霊さまの導きに違いないが、私たちが、神、イエスさま、福音を正しく知ることによって成長するのである。勉強しないで正しく知ることができるでしょうか。 但し、実を結ぶ人でも、すべての人が同じように実を結ぶのではない。100倍、60倍、30倍と異なると書かれています。私たちは皆もっと高い程度を目指して、「いつも主のわざに励み」(1コリント15:58)、イサクの地のように「100倍の実を結ぶ」ようにすべきである。創世記26:12「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」ヨハネ15:8「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」 しかし、もし土地が良く、実が正しく、心が誠実で、生活が真摯であるならば、30倍しか実を結ばなくとも、神の恵み深い祝福を受けるのです。それらの者の実は、溢れるばかりに実り、その者の勘定に入れられるでしょう。私たちは、「律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」からである。 結び) 種まきの話の最後は、「耳のある者は聞きなさい」(9節)と厳粛な言葉で閉じられている。 主イエス様は、この定型句で締められました。表面的な理解以上のことを要求しておられるのです。語られたことの意味を探り出すように、という招きです。生き方に対する招きになっています。