2019年1月27日「あなたがたの信仰のとおりになれ」マタイ9:27-34
序文)マタイの福音書には、目の見えない人の癒(いや)しの記事が二つ出てきます。ここと20:29-34です。20章の記事は、名前がバルテマイで目の見えない彼の癒(いや)しの出来事で、マルコの福音書にも書かれています。しかし、今朝の箇所はマタイ独自の出来事として書かれています。いのちの主の癒(いや)す力の発揮を、私たちはどのように信仰により受け止めれば良いのでしょうか。
Ⅰ 27節―31節 目の見えない二人 開眼
1 目の見えない二人は、イエスを「ダビデの子」と呼んでついてきました。ダビデの子孫からメシヤが出るという約束は、一般によく知られていたので、彼らは、イエスさまをメシヤだと判断したのである。彼らは、カペナウムの街中で、メシヤ出現のことを知り、イエス様が通って行かれるのを察知して、告白したのです。「信仰は聞くことから始まる」とある通り、うわさを聞き及んだ目の見えない彼らは、神の摂理によって肉眼の光を奪われ、自分たちの目で確かめることはできなかったのに、神の恩恵によって、「心の目がはっきりと見えるように」(エペソ1:18)なって、神が「賢い者や知恵のある者に隠して」おかれた大事なことがらが分かるようになったのです。目の見えない彼らは、「私たちを」と複数で呼んで願っている。自分だけでなく、同じ苦しみを担う者同士、声を合わせて願っている。
二人は、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついてきて、イエスさまが家に入られても家の中までついてきたのです。家の中でもまだ叫び続けていたと想像できます。イエスさまは、何故か、気がつかれないかのように、すぐに対応されませんでした。恐らく彼らの信仰を見ておられたのでしょう。主が、道を通っておられた時、あわれんでくださいと叫びながらついて行っている彼らの姿を思い浮かべよう。無視されたまま、ついに家の中に入られても、彼らは、尚あきらめず、あとを追っていって、叫び続けたのです。
2 ルカの福音書18:1の、たとえ話を思いあわせてみましょう。「いつでも祈るべきであり、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」ひとりのやもめが、人を人とも思わない裁判官に、しつこく頼み、この悪い裁判官が、ついにこの女はうるさ過ぎるから聞いてやろうと言った話しです。まさに、このやもめのやり方が、この目の見えない二人のやり方であって、それは即ち、私たちが主へお願いする時の祈り方でしょう。たとえ、祈りへの答えが直ちに表れなくても、待ち続け、摂理に従わなければならない。さらに祈りは無視され、それに反する情況が現れてもです。イエスさまは、目の見えない彼らに「わたしにそれができると信じるのか。」と念を押して聞かれた。
本当に、信仰こそは、キリストの愛を受ける場合の条件です。キリストのあわれみを受けようとするならば、キリストにはそれがおできになるということの確信が、私たちの側になくてはならない。ヘブル11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自身を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
確かに、二人は、キリストに叫びながらついていった。しかし、究極の問題は、「信じるのか」という問をめぐる一点でした。生まれつきの本性も、熱心さを生むのである。信仰のない熱心があり得るということです。しかし、信仰を生むことができるのは、ただ恩恵のみです。霊的祝福は、信仰によってのみ得られるのである。クリスチャンは、既に恩恵を与えられている者です。従って、信仰によって,それらが与えられていることを確信していなければならない。
目の見えない二人とも、ダビデの子としてのキリストの役割と、彼のあわれみに対しては信仰の告白をしていました。しかし今キリストは、二人がキリストの力に対して信仰を告白するように求められたのです。「わたしにそんなことができると信じるのか」と。たしかに、キリストから恵みを得ようとする人々すべてが彼に期待する力を、確かに栄光の中に備えておられる。しかしなお、中風の病人のいやしや死者のよみがえりの場合と同様に、キリストの愛が与えられること、つまり目の見えない方たちに視力が回復されるというわざが、キリストに「できると信じるのか」と、彼らに問われたのです。
「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ8:28)。神の全知全能、摂理を信じるのは良い。すべてのことに対する神のみ力と善意に頼り、すべてのことに対する神の約束を信じるのであれば、具体的なことに関しても、神のみ力の働きを信じてもいいのではないか。主イエスは問われます。「このことに関して、わたしが、一預言者として、神を説得することができると信ずるばかりか、私自身の力でそれができると信ずるのか」と。煎じ詰めると、わたしは、ダビデの子であるばかりか、神の子であると、あなたは信ずるのかと、目の見えない二人は、問われていることになります。
私たちについても、「キリストが、私たちに、そんなことができると信じるのか」と問われているのです。天におけるキリストのみわざと執り成しの力により、さらにはこの世におけるキリストの摂理と支配力によって、私たちは問われているのです。キリストの力を信ずるということは、私たちがそれに対する確信を持つことで終わるのではなく、私たち自身がキリストのみ力に身を任せ、み力の中で私たち自身が励まされることを意味するのです。観念的、原則論的な信仰ではなく、どんなささいなことに至るまで、一切のことが、キリストの支配下にあり、どんな超自然的なことも、みこころによれば、成就可能であることを現実に信じているか。そのような信仰に基いて、私たちは日々現実に行動しているかということ。
目の見えない彼らは、この質問に対して、ただちに「はい。主よ。」と即答した。イエスは「彼らの目にさわって、あなたがたの信仰のとおりになれ!」と言われた。
すると、彼らの目が開いた。
3 二人の信仰に偽りのないことをイエスさまは見抜いておられて、その心を受け入れ、認められたことを物語っている。本当に、真の聖徒にとっては、キリストが自分たちの信仰を知ってくださり、それを喜んでくださるということは、何ものにもかえられない慰めである。信仰そのものは弱くても、他人の目にそれとわからないほどのものであっても、また自分たちにさえ、これでよいものかどうか疑いを禁じえないようなものであっても、その信仰はキリストには理解されるのである。正しいけれど弱い信仰と、強いけれど間違った、偽りの信仰の区別が大切。イエスさまは、どういうお方であり、何をされたのか、何の目的で来られたのか、私たちをどうしようとしておられるかの根本が、概略でも正しく理解されているかどうか。
キリストの側で、二人の信仰は条件を満たしていました。「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言ってくださるのです。まことに、イエス・キリストにお任せすれば、「信仰のとおりに」なる。‘空想’のとおりになるとか、‘告白’とか単なる‘願望’のとおりになるというのではない。彼らの‘信仰’のとおりになるというのです。もちろん、イエス・キリストにあっての信仰です。不信の者は、神のみ恵みにあずかることは期待できないのであって、真の信徒のみが福音書で示されるあらゆる恵みに、間違いなくあずかることができるのである。
Ⅱ 30-31節 沈黙命令と違反
1 「誰にも知られないように気をつけなさい」(30節)イエスさまがこの命令を下したのは、私たちが、イエスさまにならって謙虚となるようにとの意図からでした。まことに私たちに善いことが起こっても、私たち自身を讃えることがあってはならないし、ただ神の栄光をたたえなくてはならない。私たちの注意と努力がよく用いられるよう願うべきであって、それが人の目に触れられることを願うべきではない。こうして、キリストは、ご自身で前に決めた規則「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」を実践されたのである。キリストがこの癒(いや)しを隠しておこうとされたのは、カペナウムの人々が、イエスさまの奇跡の数々を見てきたにもかかわらず、それでもイエスさまを信じようとはしなかった。当然、イエスさまのみわざを言い広めていいはずの人々が、それについて沈黙を守るということは、その土地と人々に対する神の裁きのあらわれとみることができる。主の光を受けても目を閉ざす人々に対して、キリストは、そのような人々の目を幕で覆ってしまわれるのです。
また、聖書学者によると、キリストがしばしば奇跡のみわざを隠そうとされたのは、群集が、イエスさまを王に担いで、救世主のみ国を打ちたてようとして、対ローマ軍に、暴動を起こすことを避けようとされたのであると言います。その恐れがなくなった後は、十字架と復活の後は、奇跡はオープンに語られたのです。
2 「その人たちは出て行くと、イエスのことを地方全体に言いふらした。」(31節)これは冷静さを欠いた熱狂的行動です。キリストの栄誉を思ってのいちずの行動であろうが、具体的に下された命令に違反しているのです。私たちが、神の栄光のためと思って、行動に出る場合、それが真に神の意思に添うように、厳に注意しなければならない。
Ⅲ 32節―34節 「悪霊につかれて口のきけない人」のいやし
1 「悪霊につかれて口のきけない人」のいやし。悪霊が人の霊を占拠すると、人の霊は、聖なる善に対して沈黙するようになる。悪霊が、大敵とみなす祈りや賛美は、人の口から出なくなる。未信者はみなそうである。
二人の目の見えない彼らが癒されてすぐに、今度は口のきけない男が連れてこられた。屋根を破って4人の男に持ち込まれた中風の男のいやしの時と同様に、主のみもとに連れてきた人の信仰によって、受け入れられたのです。
群集は、即刻の癒(いや)しを見て驚いた。信ずる者は少ないが、驚く者は多いのである。出来事に驚いて感心しているのと、受け入れ、信ずるのとは全く違います。
2 パリサイ人たちは、これを見て否定しようもない事実なので、イエスさまの奇跡は悪魔との馴れ合いの仕業だと恐ろしいことを言った。後々のところで同じようなことがあり、主イエス様の反論があります。マタイ12章24節以下でより詳しい説明があり、「人はどんな罪も冒涜(ぼうとく)も許していただけますが、聖霊に対する冒涜は赦されません」と語られた。今朝の箇所の段階では、「悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます」(Ⅱテモテ3:13)とあります。これは、彼らの罪であると同時に彼らの罰でもある、ということに心を留めておきましょう。こういう冒涜の言葉を吐かざるを得ないこと、そのものが、もう罰の中に自らをおいているのです。
パリサイ人たちは、キリストが「あなたの罪は赦された」と言ったからといって、キリストを責める。「取税人や罪人達と食事をした」と言っては責める。キリストの弟子たちが「断食をしない」と言っては責める。彼らの心の中にあるのは、まさに悪意、虚偽、地獄の憎悪そのものに他ならなかった。この奇跡に出会ったときの群衆の驚きは大きく、そのためにかえって彼らの口から信仰告白が聞けなかった。「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」という言葉が広がるだけであった。
結び)あなたは主イエス様を、どのような信仰の目で見ていますか。パリサイ的な不信仰な目ですか?驚いているだけですか?信じる心ですか?答えましょう!