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2019年1月6日 礼拝音声

 

2019年1月6日 マタイの福音書9:9-13「マタイの召命」

序文)今年最初の主日説教箇所は、昨年末の中風の方の癒しの続きです。取税人マタイの召命記事が中心です。またイエス・キリストがこの世に来られた目的は、罪人を招くために来たのだと明確にして、当時の宗教界の指導者らが、公然と敵対して批判やつぶやきをもらしたことに圧倒的に答えられた姿に目を留めましょう。

Ⅰ 主イエスさまは、弟子として先にガリラヤ湖畔の漁師たちシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを召されました。今回は、取税人マタイを加えようとしておられます。彼の本名はルカの福音書によれば、レビでアルパヨの子といわれていました。マタイ「主の賜物」とあだ名を後になってイエス様からもらい励まされた人です。彼は新約聖書の冒頭「マタイの福音書」を書くことと成りました。本名レビが示すように、彼はレビ族出身で、本来はイスラエルの中で神殿に奉仕する名誉ある種族でありました。その彼がガリラヤの国守ヘロデ・アンテパスに仕える役人として取税所に働き、支配者であるローマ皇帝のために,自国民から税金を取り立てる仕事をしていたのです。

当時のイスラエルの人々は、自国の民族と血統に強い誇りをもっていたのです。このような働きに対して売国奴として、排斥し、罪人と同列にならべて非難される仕事と見ていたのです。税の取り立てはガリラヤ湖畔の港町カペナウムの税関で行い、ガリラヤの漁師の収穫、水運を利用する旅行者とその貨物に対して行われました。東部地方から船で渡ってくる商人や、北方ダマスコやエジプト、地中海の港から来て、この町を通過する貿易商人の物品に対しても行われました。彼らはローマの税法に従って計算を行い、その上に請負人の利益を見込み、また上役人である取税人のかしらの役得的搾取も加えて、割当以上の税を取り立てました。取税人としての給料よりもこのような不正な方法の横領金の方が多いと言うのが実情だったのです。その職務を行う上で、彼らはアラム語、ギリシャ語に通じており、教養ある人物でもあったのです。後に福音書を書く能力を、レビも備えていたのです。

レビが、このような自分の仕事に勤勉になることは、多くの人々を苦しめる事につながりました。財産は多く得る事ができても、そのような働きが彼のこころに幸福をもたらさなかったのは考えられる事です。浮かぬ顔のレビを、主イエスは取税所を通りかかりながら、

見抜きました。その心の不満足をです。そして彼に向かって「わたしについてきなさい。」と一方的に圧倒的に言われました。彼は立ちあがって、イエスに従いました。

社会から嫌われ、のけ者にされ、国粋主義的なパリサイ人からは排斥された、取税人をその弟子に召されました。主イエス様の心の広さは、計り知れない度量ですね。ここに主イエスの恵みと、レビの心の内に本当は秘められている「主の賜物」を見抜いてくださっている知恵を見る事ができます。主イエス様の、私たち一人一人に対する同じ恵みと知恵を知るべきです。

招きは「わたしについてきなさい」です。レビは,主の召しにすぐに応えました。レビは、実はかねてから、このガリラヤ地方でのイエスの教えについて、また、数々のみわざについて、税関を通る人々の口コミにより聞いていたのです。カペナウムの事柄なら、地元ですから仕事上、その生活状態まで詳しく把握していたと考えられます。心に悩みを持つ彼が、ひそかにイエスの教えを人々のうしろからこっそりと聞いていたかもしれません。レビは、「マタイの福音書」から分かるように、旧約聖書に精通していました。65回も旧約聖書の引用をしているのです。このことは、幼い時からの教育を暗示します。イエスの教えを理解し、信仰の成長のために非常な助けとなった事でした。

彼は、マタイとあだ名がついてからも、聖書の中には二回しかその姿が描かれていません。主の召命に応えたことと、自分の家に招いたことです。そしてどちらも自分からはイエス様に語りかけてはいないのです。無口で控えめな人でした。このような彼でしたから、イエスの召しに応えて信仰を表す時は、見事な決断をくだして従ったのでした。決意は、すばらしいものでした。マタイはいっさいを捨てて従いました。職業を離れました。しかし、マタイはイエスとの交わりの中に永遠の友を得ました。永遠の命を受けました。捨てたものよりも得たもののほうがはるかに勝っていました。

当時、多くいた取税人の中で、私たちが知っているのは、他にザアカイです。マタイは、召しに応えてから,後戻りしませんでした。手を鋤につけてから,後戻りしなかったのです。全部の時間を主イエスの働きに召されている弟子たちの多くは、レビのように職業を変えることが多いのです。私の知っている献身者で、元銀行員、元教師、元保険会社の人、元官僚、元彫金職人など、現在牧師をしている方々の中におられます。しかしこのことはクリスチャンになったら職業を変えなければならないと言う事ではありません。「各自は主から賜った分に応じて、又、神に召されたままの状態に従って歩むべきです。」(第一コリント7:17)

召された状態が、主婦であれば主婦として、勤労者は勤労者として、学生は学生として歩む。けれども、召されたときの職場が、聖書のクリスチャンとしての信仰の理念にとり、あまりにもかけ離れて罪深い職場であるなら、それは変更を祈り求めることも大切でしょう。「各自は召されたままの状態にとどまっているべきである。召された時奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。」(第一コリント7:20〜23)要するに、信仰に召された時からの生活が「主イエスにあって」なされているという筋金で一本通らなければなりません。

Ⅱ 召命に応えたマタイが次に行った事 10節

イエスと弟子たちを自分の家に招き、自分の友人たち取税人仲間や、他の人々を集めて盛大な宴会を開いた。信仰の披露宴をした。彼は新しい主人イエス様を、人々に紹介した。信じてすぐに、このような信仰披露宴をした人の例を他にまだ知らない。素晴らしいあかしの時となり、本人の信仰の決断もさらに堅くなることでしょう。教会でするあかしなどはこの変形です。セルでするあかしも同様です。家族に表明する信仰決断も同じでしょう。病める者、なやむ者、罪人のために救い主イエス様を紹介し、示す事の素晴らしさがあります。神様を大いに喜ばせる仕業です。無口なマタイは、この方法であかしをしたのです。主イエスさまはこの招きに快く応じて、宗教的、社会的に汚れた者、罪人たちなどと、非難されていた人々の群れに入って食事を共にされました。

 

Ⅲ パリサイ人たちのつぶやき、イエスの答え 11-13節

宗教的指導者たちは、イエス様のこのような振る舞いを堪え難いことと見ました。それは、神の前に汚れることを意味し、彼らの律法を破ることでした。そのため,イエスの弟子たちのところにやってきてつぶやきました。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」(11節)。激しい非難と軽蔑の情が含まれたつぶやきです。神にとってすべての人々が、その被造物であります。選びの民が選ばれたのはやがては異邦人にも救いが及ぶためでした。神は罪人の一人でも滅びる事を望んでおられないお方であります。この点で、パリサイ人が間違いを犯し、差別意識をもちこんだのです。自分の置かれている地上的枠組みの中でだけ、お互いを見ることにより、多くの差別意識、問題を引き起こし、悲惨を招いてしまっているのです。イエス様は、神の遣わされた救い主としての目をもって、人を見ました。医者という者は病人のためにある。病人に接し、ときには、同じ屋根のもとに寝起きを共にしてでも、病人を治すために取り組みます。そのように、救い主を必要とする人々を招き、救うために自分は来たのです。皆が、神の前に義人であれば、世に来る必要はなかったのです。主イエス様が地上に来たのは、救いを必要としている者がいるからです。実はパリサイ人も、本当は救いを必要としているのです。しかし、彼らは、自分は健全とうぬぼれているので、イエス様と結びつかないのです。自ら救われる必要に気づいているものは、イエス様にあって慰められ、救われるのです。

罪人こそ、イエス様の福音を受け入れ、恵みに浴する事ができるのです。イエス様のこのお答えは、マタイ自身が深い感謝と感激をもって聞いたことでしょう。私たちにとっても本当に喜びをもたらすおことばですね。

 

結び)マタイは自分の名前を使徒名簿に「取税人マタイ」(マタイ10:3)と載せました。彼は以前、恥ずべき職業についていた事を恥としませんでした。自分が救われる前は、世間からつまはじきにされる者であったことを率直に認めます。しかし、その自分が今は、「マタイ」(主の賜物)といわれていることも感謝の内に告白しています。

主の恵みにより、今の私がある。私たちも、今まで、この世で何の誇るところもない罪人であったけれども、むしろ、今は、罪人を招くために来られた救い主イエス様にあって、招かれ、召された身である事を、感謝をもって積極的に告白し、立ち上がって従い行く者にならせていただきましょう。

必要とあらば、自分の家を開き、自分の職業を変えてでも、人生の主の主に従ってまいりましょう。主は一人一人をマタイ(神の賜物)に変えることができるのですから。

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