2018年11月18日(日)ピリピ人2:9-11 マタイ8:28-34節「霊の自由を賜る主」
序文)先週の段落で学んだことは、主イエス・キリスト様がガリラヤの湖で、弟子たちと共に乗っておられた船が嵐で沈みそうになった時に、風と波をしかりつけられて凪になった事を通して自然界の支配者であることを示されたということでした。今朝は、この主が霊の世界にも主権者であられることが証明されています。主は私たちの霊性にも神聖な力ある方なのです。
Ⅰ ガダラ人の地は、ガリラヤ湖の南東10km、ヨルダン川の東にある10の都市(デカポリス)の同盟地域で、異邦人が大勢住んでいました。そこの異邦人は、ユダヤ人には汚れた動物として律法で禁じられていたブタを多く飼っていました。彼らと一緒に住んでいるユダヤ人たちも実はブタを飼っていたのです。神様の命令に背いて生活し堕落していると考えられていました。このような地に主イエス・キリスト様の一行が上陸しました。
陸に上がられてすぐに主イエス様が出会われたのは、墓場を住居とし、汚れた霊に憑かれている二人の人物でした。墓場に寝起きする事は、番人でない限り、それは正常な人間のすることではありませんでした。それも彼らが時々発揮する超人的な力のために危険を感じた人々によって鎖と足かせで繋がれて(マルコ5章1-17)監視されていたのです。人々は彼らの事を有害な存在と考え、彼らも理性を失って錯乱した振る舞いに及んでいました。昼夜たえまなく墓場や山で叫び続けて、石で体を傷つけるという行為に及んでいました。彼らの人生は既に崩壊していました。その原因は聖書に書かれています。汚れた霊に憑かれていた。精神病ではない。悪霊が原因の異常事態であったのです。悪霊は彼の精神と肉体をむしばみ、錯乱と異常な体力に駆り立てて人格を崩壊させていました。心身の調和を乱しました。これは通常の病気ではなく、医者では治せない事柄だったのです。
主イエス・キリスト様と悪霊の対決を中心にマタイはこの事件を描いています。彼らは「神の子よ。私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」とイエス様に問いかけました。「神の子」という表現は、一般的に、イエス様に対する信仰を告白した者だけが用いていました。悪霊に憑かれていた彼らも、同じ表現を使っている。彼らはイエスの権威を受け入れたくなかったが、その権威は認めていた。その結果彼らが受ける苦しみは終わりの日に取っておかれていると考えていたが、それが今とは!?いま既にイエス様が来ておられるとは!マタイはマルコ福音書の記事に出てくる対話を省いている。それは対決に焦点を合わせているからである。離れたところにいた豚の群れに眼を向けさせている。豚が後に取った行動が、悪霊の敗北を如実に示しているのです。悪霊たちはイエス様に懇願した。「私たちを追い出そうとされるなら、豚の群れの中に送って下さい。」イエス様は「行け」と権威あることばを短く言われた。「それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を降って湖になだれ込み、水に溺れて死んだ。」二人の人は悪霊から解放された。イエス様の霊的な力は、天地のすべての存在に及ぶことが証明されています。
Ⅱ 多くの現代人は目に見える物質世界しか実在はないと思っています。しかし、人間は昔から物質以外にも被造物が実在する事を本能的に知っていました。物質界に植物、動物、鉱物があるように、霊の世界に人間の霊以外にも霊的存在があるのです。神の被造物である天使がそうです。聖書は「御使いたちは、すべて仕える霊であって、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため遣わされたものではないか。」(ヘブル1:14)と告げています。この御使いは本来、人間の救いに奉仕する存在でした。しかし御使いたちの中で、神に反逆して自分が神にまでなろうと思い上がった堕落天使たちは、悪魔、悪霊となりました。あるものは天上で、あるものは地上で、神に逆らい続けています。神の国を破壊する攻撃を続けています。人間の救いを妨げるために最大の努力をしているのです。救い主の支配に、罪に堕ちている人間を手渡すまいと働きます。主イエス・キリスト様が十字架の上で身代わりとして成し遂げてくださった贖いに敵対して、福音に反する事を教え、異端を持ち込み、偶像崇拝に走らせ、まことの神に向かないようにとあらゆる努力をします。聖書は、偶像崇拝は悪霊崇拝であるとはっきりと言っています。だから人間の救いということは霊の世界では、神と御子と良い天使たちによる悪魔からの奪還の戦いでもあるのです。
エペソ2:1-2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」6:11-12「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
都会人が悪霊の存在を否定したとしても、その悪霊が思想家を惑わしてもたらす無神論、偶像崇拝、異端が蔓延っていることを思うときに、賢いと自負している都会人こそ、その実、悪の霊に最も深く、その心を惑わされているのです。それは創造主である神の目から見ると、本来の人間としてあるべき状態を崩壊された人生でありましょう。
Ⅲ 彼らは、主イエス・キリスト様の救いを得て、生き返った人生を歩み始めました。悪霊は主イエス・キリスト様の一言で追放されました。悪霊は主イエス・キリスト様が神の子であって、自分たちに命じる権威があることを知っていました。滅亡を恐怖していました。悪霊はイエスの命令にかたくなに反発しました。しかし主はこの人々の生命に危険が及ばないようにひとこと「行け」と言って追い出されました。
人々は多くの豚を失いました。「飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊に憑かれた人たちのことなどを残らず知らせた。」(33節)。大事なことは報告が「悪霊に憑かれた人たちのことが中心であったことです。関心事は、豚と言うよりも、解放された彼らにあった。
マルコの福音書5:17によると、町の人々は「イエスにこの地方から出て行ってほしいと懇願した」とあります。もっと多くの豚を失うと恐れました。また、主が悪霊を追い出され、レギオンに憑かれた人が正気であることに恐怖を感じたのです。世間の人は、イエスを拒否して、豚の方を大切に思ったのです。この一人の人が命が助かり、悪霊から解放され霊の自由をえたという喜び、幸せよりも、豚の群れを失った経済的損失が、一人の人間の価値よりも上であると見ているのです。このような見方は現代社会の病根となっている。人間の存在がその本質によってではなく価値によってだけ量られる社会、唯物主義的人間観というこの恐るべき反神論思想に、私たちも知らぬ内におちこんでいないでしょうか。人間の霊が自由を得るためにキリストが、私たちを悪霊の奴隷から解放し、罪の奴隷から解放してくださった。それもご自身を十字架上に身代わりとして贖うことによってです。
それなのに人間はこのことに恐怖を感じています。私も自由にしてくださいと申し出るどころか、ここから立ち去ってくれと言いました。マルコの福音書では、悪霊を追い出してもらった人は、イエスのお供をしたいと願い出ました。イエスは自宅に帰って神がなさった大きな事を語るようにと言われました。
結び) 自分のたましいの不自由さを知り、解放された者は、その喜びを知っています。恐怖ではなくて、感謝を抱いて、主に仕えます。立ち去ってくださいと言わないで、主に従ってゆきます。自由にされた我が身を証拠として力強く家族にも町に人々にもイエス・キリストをのべ伝えることができます。主を信じた者は、この解放の事実を深く心に受けて更に主に従いましょう。私たちの主は、絶対的権威を天においても地においても行使される力ある主イエス・キリストです