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2019年12月1日 礼拝音声



2019年12月1日 マタイ14:22−33「恐れることはない」 
 
序文)キリストの弟子として、その生涯において様々な危険に遭遇する。この危険は、教会の外から来るが、内からも来る。自然的危険、身体的危険、精神的危険などは不注意や、妥協からばかりでなく、最も完全に防備していても、一番熟練している場所でもやってくる。危険に遭遇するとき正しく対処する訓練を積む必要がある。そのために主イエス・キリスト様が、12弟子たちにされた実地訓練を調べて見よう。主は陸地におられて彼らだけが逆風にもまれているところなのです。
 
Ⅰ 14:22-24  逆風の時に受ける恵み
1 イエス様は、弟子たちを「強いて舟に乗り込ませた」(旧版)。パンの奇跡を受けた人々が解散しようとしなかった。弟子たちは乗るのを嫌がったので、主は強いて乗せられた。彼らはキリストが一緒でなければ嫌だと思っていた。第一、舟もなしに、主を一人置き去りには出来ないと考えたからでもある。強いられて従った。主は群衆を解散させて、一人寂しいところで祈りの時間を持たれた。夜中の3時ごろまで、寂しいところにおられた。暴風雨が吹き荒れてきたにも関わらず、祈りに励まれた。心を注ぎ出すことは良いことです。
 
2 弟子たちだけで、向こう岸に向かった。暴風雨で向かい風にあい、湖の真ん中で漕ぎあぐねて立ち往生していた。時は夜中の3時ごろ。彼らは約半日間も漕ぎあぐねていた。
 向かい風に夕方から夜明けまであっていた。彼らはキリストに送り出されたのに、この嵐にあった。今はわからないけれども、のちになってわかるようになる嵐の中の恵みがある。
   色々の信仰の試練は、最初は初心者向けに短い。8章の時は、主が一緒に船に乗っておられた。嵐にあったが、眠っておられた主は、すぐに目を覚まして、嵐を鎮められた。しかし、今回の試練は、長くかかり、主は共におられなかった。寝ずの番、ずぶ濡れ、徒労、疲れ、恐怖と絶望、少しも前に進まない、しかし彼らは風に向き合っていた。後ろに退くことはなかった。それにともなう、訓練の結果はすばらしい実りとなる。合格すると訓練は終わる。この恵みを受けよう。多くの試練はそのところで味わう恵みがある。それはキリストが知っておられる恵みである。主イエス様が知らない試練はこの世にはない。弟子たちが今あっている試練を知っておられた。最も暗い闇の中に置き去りにされたように思われるかもしれない。本当は全てを知っておられる主がおられる。
 
3 主は共におられなかった
 今回は、共におられなかった。信仰の訓練の中では、イエス様の不在感がしばしばある。漕ぎなやんでいる。恵みも、励ましも無いように思える。主が何故共におられなかったかといえば、おひとりで山の上で祈っておられたから。これ以上は本当に危険、一刻の猶予もできないというところで、湖の上を歩いてでも救いに駆けつけてくださった。イエス様は彼らを助けに行かれた。神の力が十分示されている。紅海を渡るイスラエルのために、「海の水を壁にされた」主である。詩人が歌っている通りです。「あなたの道は、海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」詩篇77:19 。主は彼の弟子たちを救うためにどのような方法も選ぶことがおできになるのです。
  しかし、いきなり近づくと、彼らが受け入れがたいと思われ、通り過ぎようとされた。異常事態の認識の順番。案の状、彼らは、幽霊と勘違いした。おびえて恐怖の叫びを上げた。「あれは幽霊だ」幽霊の存在が、ユダヤ人たちサイドカイ派の人々をのぞく全ての人々に一般に信じられていたらしい。弟子たちは「あれは主だ」と言うべきだった。
 
Ⅱ 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 1 船に乗り込まれると風はやんだ。彼らは非常に驚いた。心が堅く閉じていた。心に恐怖が満ちている時、その恐怖が間違っていることを教えて、すぐに取り除かれた。「しっかりしなさい。わたしだ。」神の御子としての救い主を、正当に理解することができなかった。悟ることがなかった。5つのパンと2匹の魚で、5000人以上を養われ、12かごに余ったという出来事の後で、彼らはイエスについて幽霊と驚くことはなかった。パンのことも、水の上を歩いて助けに来て下さったことも、風がやんだことも、本当は悟るべきことであった。
「しっかりしなさい。わたしだ。」と言われた。幽霊でなく「わたしだ。」この原語は「エゴー エイミー」です。
 
2 この「わたしだ」は、旧約聖書で出エジプト3章13-14,「モーセは神に言った。今私がイスラエルの子のところに行き、あなた方の父祖の神が、あなた方のもとに私を遣わされたと言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えれば良いのでしょうか。神はモーセに仰せられた。『わたしは“わたしはある”という者である』また仰せられた『あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』と言う方が私をあなた方のところに遣わされた、と。』」 
ここに出てくる神様の自己啓示を示すことば、「わたしはある」そのものなのです。
ヨハネの福音書では、主イエス様が繰り返して主張しています。例えば「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(ヨハネ8:24)。「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から“わたしはある”なのです。』」(58節)。
私たちは、「永遠から永遠まで、わたしはある」と言われる方が、主の主でありますから、どの様な時にも、しっかりしましょう。恐怖ではなく、平静と安心を持って、人生のあらゆることに信仰を持って対処してまいりましょう。
 
Ⅲ   ペテロの勇気  イエスの好意
1 ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。ペテロは大胆なことに、あえて「水の上を歩いて」キリストのところに行こうとしました。「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」とかけられた恵みの言葉は、ペテロの勇気を引き起こしました。幽霊だと思ったのが、そうではなくて主だとわかった途端に、愛が溢れ出て、すぐそばに行きたいと願った。一晩中、向かい風にこぎあぐねていた時、前回の時の様に主が同船しておられたらと幾たびも思っただろうに、今回はおられなかった。それが今、目の前に!「私に、命じてください。あなたのところに行かせてください。」あなたの意志ならば、水の上でも歩いて行けます。冒険的に無遠慮に身を投げ出すつもりはない。主のご意志ならば、なんでもできないことはない。そうでないなら水の上を歩くことはできない。主のみわざを行う弟子たち、クリスチャンたちは、「わたしに命じてください」とことごとく問いかけて、奉仕を続けるべきでしょう。なんでも無思慮に勇気だけを振るって、冒険的に無遠慮に事柄をおこなうべきではない。主イエス様は十字架を前に祈られた時、「みこころならば」と十字架の盃を取り除いてくださいと、三度も祈られた。御父の意志を問われた。取り除くことがご意志でないとわかり、受け取ること決められて勇気を振るって十字架にかかられました。
 ペテロの場合は、イエスに「来なさい」と言われたので、水の上を歩いて行った。死の危険に身を投じた。主は水の上を歩くペテロを支えられた。
 
2 途中でペテロは信仰の弱さのゆえに怯え、沈みそうになった。主はその彼をさらに支えて守られた。私たちは、「主よ、信じます。」というと同時に、「主よ、不信仰な私をお助けください。」ともいうべき状態なのです。その様な私たちを支え導かれるのは、救い主イエス様です。危急の時の祈りは、有効です。ペテロの祈りは激しく切迫していた。「主よ、たすけてください。」イエス様はすぐに右の手を差し伸べて彼を救われた。
結び)「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」「まことに、あなたは神の子です。」と告白して礼拝することは、薄い信仰の者を、礼拝者に変えます。主イエス・キリストを信じる信仰を強固なものに変えていくのです。ますます神の子イエスとともに歩みを深めましょう。

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