2019年12月29日 投稿者: 廣橋 嘉信牧師 カテゴリ:news 2019年12月29日 「積極的な信仰」マタイの福音書14章34-36節 序文)2019年度最後の礼拝となりました。1年間の主の支えと導きを深く感謝しています。今朝の箇所は、主イエスと弟子たちが船で湖を渡ったところの地ゲネサレで行われた大規模な癒しの奇跡の説明が書かれています。汲み取るべきはゲネサレの地域の方々の積極的な信仰です。2020年度への備えとしましょう。 Ⅰ ゲネサレは、ベツサイダとカペナウムの間の一帯で、湖の名がこの地名に由来するか、あるいは逆に、「ゲネサレ湖」(ルカ5:1)という名が、地名に反映したかのどちらかです。 このゲネサレの地の人々の積極性と信仰は、同じ湖を境界とする対岸のゲラサの人たちとは明白な違いを見せています。ゲラサは、弟子たちが遭遇した湖での最初の嵐のとき、嵐がおさまった後、上陸された場所である。ゲネサレは2回目の嵐の後上陸された場所。クリスチャンは結局信仰によって生きるものであることが語られている。イエス様がお褒めになったことは、信仰だけであったことも大きな示唆である。「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(マタイ8:10、百人隊長へ)」 ゲラサの人たちとゲネサレの人たちと比較してみると良く分かる。ルカ8:26-37「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。イエスが、『何という名か。』とお尋ねになると、『レギオンです。』と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けとはお命じになりませんようにと願った。ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなり崖を駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し町や村々でこの事を告げ知らせた。人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。」 Ⅱ マタイ14章35節、「その地(ゲネサレ)の人々は、イエスだと気がついて、付近の地域にくまなく知らせた」とある。何故、イエスだと気がついたのか。それは弟子たちが知らせ、教えたからでしょう。最初の嵐の時と、今回の嵐の時では、弟子たちの成長の度合いが違うのである。「イエスと気がついた」とは、イエス・キリストがメシヤであること、即ち、全知全能で、絶対主権を持たれた神ご自身であること、贖い主として、神の国へと迎えるために来られた方であることを知っているということである(正確にではなくても)。ゲネサレの人たちは、これらを弟子たちに教えられたに違いない。私たちも主イエス様を周りの人に「救い主が来た」と知らせましょう。ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」イエス・キリストを知るとは、福音を知り、信じることと同じである。 Ⅲ 36節 「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」 ゲネサレの人々は、なりふりかまわず、申し出をした。「せめて衣の房にでも」。人々はひたすら主イエスに懇願した。「求めなさい。そうすれば与えられる」のです。キリストの恵みとあわれみは、懇願することで与えられます。もっとも、一方的に主が与えたいと思うものに与えられることは、いつでも起こることでもありますが。必要を覚えている信仰者が懇願することを聞いてくださることも聖書は明言しています。 身を低くして、助けてくださいと願っている。「せめて」という言葉に信仰の姿勢が見られる。主イエスには御力が満ち溢れている。せめて衣の房に触るだけでも、癒やされると信じた。マタイ9:20に出てきた「12年間、長血を患っていた女性が、群衆に紛れ込んで、そっと衣の房に触ったとき、即、癒やされた」という出来事を思い出しましょう。彼女の信仰を主は褒められました。 ゲネサレの地で「さわった人たちはみな癒された。」のでした。キリストの癒やしは完全な癒やしでした。主イエスに期待する者たちがどれほど多くても、信仰を持って求める人々に、主は答えられます。霊的な癒やし、救いのみわざは、初めから完全ではないが、スタートすると完成に至ります。「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1:6)。信じ従い続ける私たち側の歩みが伴うからです。神様が用意された恵みの外的手段を用いることで完成に導かれます。「みことばと礼典と祈り」が内的な働きをされる聖霊様の用いられる、私たちを完成させる外的手段だから、倦まず弛まず、用いなければなりません。 キリストの実物の衣の房が、今あるわけではないけれども、主キリストは生きていて、みことばや祈りや礼典によって、ご自身の存在の全部を、私たちに差し出しておられます。信仰と結びつけて、自分自身に当てはめて歩みましょう。 結び)ゲネサレの人々の様な、積極的信仰こそ推奨されているのです。2020年度、この信仰に見習ってあゆみを進めていきましょう。