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2020年10月18日礼拝 音声有

10月18日礼拝の音声ファイルです。

2020年10月18日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉   詩篇 118篇 21-24 節
さ ん び   詩篇100
さ ん び   主の臨在の中で
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌 452番 キリストの前に            
聖 書 朗 読   マタイの福音書21章28—46節
聖 書 の 話   「捨てた石、それが要の石」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 229番 キリスト 教会の主よ
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                           
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020.10.18「捨てた石、それが要の石」(イエスの論争・続き)マタイ21:28-46
序文)先回、イエス様が天からの権威を持って地上に来られたことを学びました。それにつづいて、今朝の「兄と弟、ぶどう園の主人と悪い農夫」のたとえ話が語られています。イエス様は、このたとえを通して、ご自分が誰の権威で来たのかと言うことを直接答えておられます。同時に「弟・悪い農夫たち」すなわち、サンヒドリンが、これから犯そうとしている罪をも預言されました。

Ⅰ 兄と弟の父への態度 マタイ 21:28-32
始めに、このたとえは原文写本において、混乱があり、翻訳上の課題がついて回りました。「兄」と訳されているのは「第一の者」、「弟」と訳されているのは「後の者」が原語表現なのです。他に「兄」は誰かということですが、主イエス様の文脈では「取税人たちや遊女たち」を指している、「弟」は「あなたがた」すなわち、パリサイ人、律法学者、ユダヤ教の指導者たちを指しているからです。新改訳2017は、この解釈に立って、今のように翻訳をしています。

 さて、主イエス様の意味するところは、取税人たちや遊女たちは神に従わないように見えて、悔い改めて従いました。しかしパリサイ人、律法学者、ユダヤ教の指導者たちは、従うように見えていますが、結局は悔い改めず、従わなかったというところにあります。結局は兄は、父の言いつけに従ったのです。弟は、従わなかったのです。天の父が遣わしたお方に従ったか、背いたかがたとえで問われているのです。「取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした」(31-32節)。

Ⅱ 農園の主人と農夫たちのたとえ マタイ 21:33−41
このたとえの意味ははっきりしています。ぶどう園の主人は天の神様です。ぶどう園そのものはイスラエルの人々です(イザヤ5:1-7)。ぶどう園はすべてのものが整っていました。境界を示し、泥棒を防ぎ、垣根をめぐらし、酒ぶねがありました。やぐらがあり、農夫たちの宿舎があり、収穫期には、ここで盗人の見張りをしました。農夫はイスラエルの支配者たちを表しました。
主人が派遣したしもべたちとは、バプテスマのヨハネを頂点とする数世紀にわたる旧約の預言者たちのことです。そして、ぶどう園の主人の愛する息子は、イエスご自身でした。たとえ話を聞いている人々は、このたとえをすぐに理解できました。ことに律法学者、祭司長たちはよくわかりました。彼らが農夫としていま、現実におこなっていることを、イエスに図星されたとわかりました。
1 このたとえ話しが私達に教えている神についての事柄
① 神の恵み豊かさ。ぶどう園は農夫たちが働きやすく、利益も上げることができるように、すべての施設が整えられていました。良い実りが結べるように十分な備えが与えられていました。エデンを準備してアダムとエバをそこに住まわせた主は、人々に与えられた人生において恵み豊かな方です。
② 神の信頼について。主人は旅に出かけました。ぶどう園は農夫たちにその経営を任せられました。神は、私たちを十分に信頼し、その選ぶままに人生を送る自由を与えられました。
③ 神の忍耐について。 一度や二度ではなく、幾度も、主人は農夫たちに彼らが負っている負債を支払う機会を与えられました。主人は次々と派遣したしもべたちが、帰ってこないのは、しもべたちが敬われなかっただけではなく、辱められたのだとわかっていました。それなのに、なおも主人は自分の子を遣わそうとしています。
④ 神の究極的正義の勝利について語っています。人々は神の忍耐を利用することができるでしょう。神の忍耐を利用して、さからい続ける人々がいます。そして神は何もなさらないとたかをくくっています。小作人たちはうまくやろうと考えていました。しかし神は正義の権利を放棄されたのではありません。人間はどれほどうまくやったと思っても、決算の日は必ずやってくるのです。最後には審判と当然の報いがやってきます。神は不従順と反抗に対して、長い間、耐えられますが、最後には行動を起こされます。

2 このたとえ話しが私達に教えているイエスについての事柄
① イエス様は、ご自分をしもべとしてではなく、み子とみなしておられます。イエスはみ子である。天の神の愛する息子である。神として、人間に最後のことばを語られる方です。預言者たちとは違うのです。イエスがメシヤであるという間違いのない主張が、含まれています。これがサンヒドリンに対するイエスの回答であり、挑戦だったのです。
② イエスは、ご自分が死ぬのだということを知っておられました。十字架はイエスにとって、不測の出来事ではありませんでした。イエスはご自身、他のかたちでの終わりがありえないことを知っておられました。知りながら、そこから逃げることをしないで、進んでゆかれたのです。
③ イエスは、その究極的な勝利を確信しておられました。不当に取り扱われ、殺される。しかしそれが最後ではない。その後に栄光がくる。

3 このたとえ話しが人間について教えている事柄
① 農夫たちが犯そうとしている罪について。 主人の取り分を納めない。契約違反です。主人のしもべたちが幾度も来て催促しても、悔い改めないのです。強情の罪です。彼らは、息子を跡取りと知って殺しました。人間は、もし本当にイエスが神の子だとわかっていたら、イエスを殺せないと言うほどに善良ではありません。人間はイエスが神の子だとわかっていればこそ、かえって殺すのです。
② 罪に対する刑罰 41節。 選民としての特権を奪われ全滅します。彼らはたとえイエスを殺しても、ぶどう園の所有権を入手することはできません。農夫たちは大きな計算違いをしていました。跡取り息子は殺しても「父」は健在なのです。この主人はただ、憐れみにより忍耐していました。この主人は遠く離れているので、すぐには行動に出ないだろう。あるいは、これほどのことをしても、何も起こらないのは、主人は死んでいるのかもしれない。天の神様は、本当はいないのではないか。現代、神はいないと言っている人々が大多数です。人は、神に向かって背き続けられると思っているのです。しかし、神は生きておられて、ついには裁きの日がくるのです。
③ 次に選民の特権が他の民たちに移されます。異邦人たちに神の国は移るのです。ぶどう園はほかの人たちに与えられるのです。マタイ21:43では「神の国はあなた方から取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられる」とあります。キリスト教会が、現実に世界に存在していることは、ここでイエスが言われたことが成就しているのです。不信仰のユダヤ人は裁かれたのです。しかし、同時に次のような警告を異邦人である私達は忘れてはいけません。ローマ11:22「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。」

Ⅲ 主イエスは「要の石」 21:42-48
1「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」(42節)
このことばは詩篇118篇22-23節の引用です。捨てられた石が、すべての石の中で一番大切な建物を結びあわせる石になり、建物の基礎になる石になった。ここでイエス様は農夫たちに殺されても、のちに復活することをしめされました。神の家のかしら石として、復活の主は新しい国を組織されます(エペソ2:20-22)。この石に打ってかかる者は、だれでも自分が粉々に砕かれるのです。イエスをあざけって、捨て、滅ぼそうとする者は、自分で破滅するのです。

2 信徒一人一人がキリストに結びついている生ける石
使徒ペテロは、このことばを用いて、ユダヤ人に殺されたイエスが復活し、昇天して、教会のかしらとして君臨しておられることを論証しました(使徒4:10-11、第一ペテロ2:4-8)。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが要の石となった。」見捨てられたけれどもイエスは要の石となったのです。神の国を建てるためにこの世の権力が捨てたイエス・キリストが要の石となられたのです。何よりも尊い方となられたのです。そして、この「石」は第一ペテロ2章6節では、イザヤ28:16の引用を通して、神とその民クリスチャンとの確固とした尊い石、ゆるがない信頼関係を見ています。イエス・キリストが、神の動かない要の石で、信頼に足る方であります。
ところが信頼しない者にとっては、「つまずきの石」「妨げの石」です。イエスを拒む者には恐怖、破滅となります。イエスは裁きます。罪を断じます。ペテロは以上の事柄をイエスのかつての教えを思い起こして解きおこしました。
キリストを要の石として築かれる教会は、信仰者一人一人が生ける石となります。生ける石キリストに結びついているゆえに、信徒は生ける石なのです。霊の家・教会・共同体です。一人一人が建物の一部分になるのです。神の臨在される場、溢れる場は、霊の家です。神の聖霊の住んでおられるところですから、教会は霊の家です。「霊の」は「聖霊に影響もしくは支配された、聖霊のご性質にあずかる」の意味です。そこは、家ですから共同体です。よく私は自由な立場のキリスト者ですから、教会に縛られませんと言っている人がいますが、そのようなクリスチャンは矛盾しています。教会の交わりの中で共同体として、キリストを信じる者は存在しているのです。

結び)イエス様こそ、要の石です。主の主権を認め、打ちかかろうとするのを止めて、自分の人生を、真理である主の上に立てましょう。主こそ巌(いわお)です。なぜなら主イエスは、人より出られたのではなく、天よりのお方だからです。神のいつくしみのうちに、地上人生を全うさせていただくべく従い続けましょう。

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海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church