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2020年10月25日礼拝 音声

10月25日礼拝の音声ファイルです。

2020年10月25日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉     イザヤ書 37章 33-38節
さ ん び     主はわが力
さ ん び     恐れることはない
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌   344番 神はわが砦            
聖 書 朗 読     ヨシュア記 1章 10-18節
聖 書 の 話    「安息の地『カナン』の戦い:神対サタンの聖戦」 
             マーク ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌   390番 主よわれは君のもの
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                           
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア記1:10-18 – 安息の地「カナン」の戦い:神対サタンの聖戦

今日は非常に難しいトピックです。これは神様の聖戦、または聖絶についてです。聖書の全体的なメッセージと神様の御計画を理解するために、非常に重要な箇所ですが、しかし、よく陥る誤解が二つあります。

一つ目の誤解は聖戦の目的を誤解し、強調しすぎることです。宗教を批判する人たちはよく「宗教は戦争を起こすものだ!」と訴えます。そして、キリスト教に関しても、十字軍という例がよく挙げられます。残念なことにキリスト教も含め宗教は凶悪で、残酷なひどい戦争を引き起こしました。キリスト教はそれに対して深く悔い改める必要があります。(脱線になるかもしれませんが、キリスト教は悔い改める必要はありますが、無宗教者に対しても同じ質問を問う必要もあります。無宗教の人たちが凶悪で残酷な戦争を引き起こしたことはないですか?21世紀だけを見ても、無宗教者であったヒトラー、スターリン、毛沢東などが引き起こした戦争で殺された人数は、歴史上の宗教戦争で殺された人数の合計よりも多いのです。しかし、どのような人が一番人を殺したかを問うのは、価値のない事だと思いますし、根本的な問題は人間が残酷な戦争を引き起こすということです。)

しかし、なぜ十字軍はエルサレムにいたイスラム教徒に宣戦布告をして、何千人も残酷に殺したのでしょうか?残念ながら、十字軍のクリスチャンたちはヨシュア記に書かれている「聖絶」を理由にして、虐殺を正当化してしまいました。ですから、このような誤解は、聖絶の目的を根本的に誤解し、「聖戦」ということを強調しすぎて、間違った解釈を今の教会に適応してしまうことです。

そして、もう一つの誤解は、聖戦の目的を誤解し、聖戦の目的を無視し、否定することです。十字軍の訴えを受けて、クリスチャンがよく言う答えはこれだと思います。「いや、イエス様は神様は「愛」であると教えられ、「聖戦」のような残酷なことを許されておられませんし、私たちとは全く関係ない事です。問題は旧約聖書です。旧約聖書の神様は「さばき」を強調されます。しかし、新約聖書の神様は「愛」を強調されるのです。」
皆さんにはっきり言いますが、この解釈は全く間違っています。まず、イエス様は旧約聖書をもって、「神様が『愛』であること」を証明されたのです。そして、イエス様は「愛」でもありますが、私たちを救ってくださる黙示録のイエス様を読んだことがありますか?黙示録19章のイエス様は、血に染まった衣をまとい、鋭い剣で敵を斬り、鉄の杖で敵を殺し、敵の死体を踏みつぶし、中天を飛んでいるすべての鳥たちに叫んで言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」「愛」の新約聖書でもイエス様は残酷で怖しい戦士として描かれています。そして、私たちはこの箇所も否定してはいけません。

子供たちにもわかるように例えでお話します。教会がお城に閉じ込められたお姫様だと想像してみて下さい。その城は邪悪な竜と凶悪な軍に見張られています。ある時、王子様がお姫様の部屋に入り、彼女を救い出します。彼はやさしく、恵みと愛に満ちた方で、お姫様がどんなに悪いことをしても無条件に愛して下さいました。お姫様は、その「愛」の王子様に惹かれています。そして、王子様がお姫様を担いでお城から出ると、邪悪な竜と凶悪な軍隊が彼らを囲み、殺そうとしました。その時、王子様は残酷で怖しい戦士になり、邪悪な竜と凶悪な軍隊を残酷な方法で殺し、全滅させ、お姫様を守るために自分の城に連れて帰りました。ところが王子の城に着いたときに、お姫様は、「私にさわらないで!王子様は残酷でこわい!あなたは優しい方なのに、どうしてそんなひどいことをするの?「残酷な戦士」じゃなくて「愛の王子様」がいいの!」と言います。

あなたが王子様だったら、どう思いますか?まず、言える事は、王子様はすごく悲しくなったと思います。そして、王子様はこう言うと思います。「姫。あなたがあのお城から脱出してここで安心して休むことができるのは、私が敵を全滅させたからだよ。『愛の王子』と『残酷な戦士』は同じ人だと言う事がわからないのかい?私を半分に斬って、私の片方だけと結婚したいのか?私の『愛』を理解しているのなら、私があなたを守るために命がけで戦ったと言う事がわからないのか?そして、私の激しい戦い方を見て、私があなたをどれほど大切にしているのかがわからないのか?」と言うと思います。つまり、イエス様の「愛の王子」の部分と「残酷な戦士」の部分を同時に受け入れないなら、イエス様のことを自分が思うような偶像にして、その偶像を愛することになってしまうのです。ですから、私たちは、イエス様の「すべて」を受け入れる必要があるのです。そして、イエス様の「すべて」を受け入れることができれば、イエス様の愛をより深く理解できると思います。今日の箇所を見て、イエス様の「すべて」とは何かがわかります。イエス様は花嫁である私たちのために永遠の安息の王国を建てるために、戦士として戦ってくださいました。

しかし、この内容に入る前に、皆さんが持っている質問にまず答えたいと思います。「なぜ残酷な方法でカナンを獲得する必要があったのか?」という質問です。ヨシュア1:11を読むと、神様はイスラエル人にこのような命令をされました。「あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。」これは、ある意味、宣戦布告です。

そして、申命記20章を読むと、神様の律法には二つの戦い方がありました。「約束の地」以外の場所で戦った時は、非常に「憐れみ」のある戦い方でした。まずイスラエルが「平和条約」を提案し、もし敵がそれを受け入れたら、誰も殺さずにイスラエルの配下におきました。しかし、もし受け入れなかったら、イスラエルはその国の男性だけを殺し、女性と子供と動物たちを生かしました。しかし、「約束の地」の中にいる国々と戦う時には、全く逆のアプローチをとりました。「平和条約」もしませんでした。申命記20:16を読むと、「息のある者を一人も生かしておいてはならない」と書いてあります。つまり、男性だけではなく、女性も子供も動物たちも殺さなければならなかったのです。非常に残酷な戦い方でした。これが聖書に書いてある「聖絶」なのです。

なぜ神様はイスラエル人にカナン人を「聖絶せよ!」を命じられたのでしょうか?「人種差別の虐殺」のためではありません。実は、神様は人種を問わずをご自分の民として認められたケースがたくさんあるのです。聖絶は「悪人を罰する」ためでもありません。カナン人だけではなく、イスラエル人も神の前には悪人だったので、それも言えません。聖絶は「お金」のためでもありません。カナン人の所有物は彼らが聖絶された後、すべて破壊されたのです。では、何のためにカナン人は聖絶されたのでしょうか?申命記20:18にはこう書いてあります。「 それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。」

それはどういう意味でしょうか?神様がこのように命令されたのは、御自分の「王国」をカナンに建て、御自分の民をその王国に住まわせ、彼らに「安息」を与えるためでした。そして、その目的を果たすために、①王国から「敵」を追い出す必要がありました。そして、②御自分の民の安息を守る必要がありました。

一番わかりやすい例はシナイ山です。出エジプト19章では、神様の存在がシナイ山に宿られるとき、シナイ山は神様のご支配の下に置かれました。そして、息のある者すべて―男、女、こども、動物達―はシナイ山に昇ることはできませんでした。神様の「シナイ山」に招かれていない者はすぐに死ぬのです。ですから、もし神様が御自分の王国をカナンに置かれたならば、その王国には、神様が招かれた者しか入ることができないのです。神様を否定する者、神様に忠誠を誓わない者、または偶像を礼拝する者は神様の敵です。ですから、敵が「神様の王国」に侵入した場合、神様はその敵の処刑を命令されます。これが「聖絶」の目的なのです。

神様は、ご自分の「エゴ」のために敵を処刑されるのでしょうか?いいえ、そうではありません。それは御自分の民の安息を守るためです。どういうことでしょうか?神様が約束されている「安息」とは、リゾート地で経験するような「安息」ではありません。神様は周りの敵を支配して「平和」を保つだけではなく、ご自身の存在と関係から生まれる「安息」を民に与えたかったのです。神様の「敵」とは、究極的にはサタンのことなのです。なぜなら、エデンの園から黙示録までを見ると、サタンの第一目的が神の民から神様が与えようとされる「安息」をいろんな方法で奪うことだからです。神様は御自分の民が弱いことをご存知なので、神様にある「安息」が奪われないように、王国内でサタンが利用できる誘惑をすべて破壊することを命令されたのです。つまり、神の民が神様以外のものを礼拝することを誘惑されないように、偶像、偶像礼拝者、神様の礼拝を妨げるもの、つまり、「罪に至るもの」を全て破壊したのです。神様は王国を建てるため、そして、御自分の民に「安息」を与えるために、神様はサタンと激しく戦われたのです。

ところで、神様は私たちの時代に「約束の地」と同じように、「神の王国」を建てられているのでしょうか?いえ、全く違います。「カナン」が「神の王国」になった理由は、「カナン」という地が特別なパワースポットだったというわけではなく、神様の神殿によって「神の存在」が「カナン」の地に置かれたからです。神様の神殿が存在しない限り、「神の王国」を建てることはできませんし、人を「聖絶」する命令もありえないのです。

しかし、これは私たちと全く無関係な話でしょうか?それも間違いだと思います。私たちはイエス様に「救い」、「永遠のいのち」、「永遠の安息と喜び」を祈り求めるときに、自分が何を求めているのかを理解しているでしょうか?私たちがそのように祈るとき、私たちはこの世の根本的な問題を破壊することを求めていることになるのです。つまり、「永遠の安息」を得るために、「悪」、「罪」、「サタン」、そして、「罪を犯す者」をすべて破壊する必要があります。一つだけ生かしても、罪は爆発的に広がるだけです。アダムの小さな罪によって、この世は何千年も罪、悪、サタンに支配されています。ですから、私たちが残酷なイエス様に引いてしまう理由は、私たちが「神の敵」の凶悪さ、残酷さ、強大な力を本当にわかっていないからかもしれません。「神の敵」がどれほど私たちからイエス様にある「愛」、「喜び」、「安息」を奪いたいと狙っているのかを理解していないのかもしれません。偶像を礼拝することがどれほど私たちに害を与えるのか、偶像礼拝者が私たちにどれほど影響を与えることができるのか、そして、私たちがどれほど誘惑に弱いのかを甘く考えているかもしれません。そう思ってないかもしれませんが、次の質問によって私たちが神様の聖絶を真剣に受け止めているのかどうかが試されます。

二つ目の質問、もし神様がご自身のために戦われるのであれば、私たちが戦う必要はあるのか?もちろん、神様は民のために戦われますが、民も戦う必要があります!

11節を読むと、イスラエルのつかさたちは、イスラエルの宿営を巡りながら、イスラエルのみんなに―男、女、子供、奴隷、寄留者―「戦争の準備をしなさい」と命じました。つまり、神様の聖戦に関わっていない神の民はいないと言えます。そして、14節では、神様と共に戦う私たちの責任が強く強調されています。

しかし、神様の「聖戦」に参加することは、十字軍のように異宗教の人たちを虐殺することでしょうか?いいえ、それは神様が命じられる「聖戦」ではなく、ただの虐殺です。では、現在は神様とサタンの「聖戦」は休戦中でしょうか?それとも今も神様は残酷な聖戦を続けておられるのでしょうか?実は、現代においては「聖戦」の戦場と対象である「敵」の形が変わっただけなのです。

この新約時代に、神様は御自分の存在をどこに置かれているのでしょうか?カナンの地でしょうか?いいえ。神殿はもうイスラエルにないので、カナンという地は「神の王国」とは言えません。しかし、1コリント6:19には聖霊様によって神様の存在は、クリスチャンの体に「神殿」として宿っておられると書いてあります。そして、神様は、私たちの心の中にある罪、偶像、汚れを聖絶することを命じておられます。聖書(1 Peter 2:11)には、私たちの心の中にある「肉の欲」は心の内におられる聖霊様に常に戦いに挑んで来ると書いてあります。つまり、クリスチャンの心の中が「聖戦の戦場」なのです。ですから、パウロはこう言います。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。 」(コロサイ3:5)
つまり、神様は「心の中のどんな欲でも、どれほど小さな欲でも、それは偶像であり、神の敵だから徹底的に容赦なく完全に殺せ。手加減してはならない。」と命じておられるのです。神様は私たちの心の中の「聖絶」を求めておられますが、私達にその覚悟はあるでしょうか?

皆さん、私たちは神様の命令を真剣に受け止めているでしょうか?「いやぁ~、すこしやりすぎじゃないですか、神様。そんな残酷に、暴力的にこの偶像を破壊する必要はないですよ。かわいそうですよ。しかも、小さな偶像だから、そんな大した誘惑でもないし、偶像を殺さなくてもいいじゃないですか?ちょっとした罪を犯しても誰の迷惑にもならないし。」こんなふうに考える事はありませんか?
当然、私もそういう時もあります。しかし、忘れてはいけないのは、神様の視点から見ると、どんなに小さな偶像であっても、その偶像は私たちから「神様にある安息」を奪うものなのです。このような「偶像」を聖絶しなければ、私達は神様にある「安息」を味わうことができないのです!

そして、私たちの罪との戦いは、自分たちの「安息」を得るだけのためではありません。私たちの兄弟姉妹の「安息」のためにも戦っているのです。12節にはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族はすでに約束の地を手に入れたのですが、他のイスラエルの部族のために命をかけて、神様の「聖戦」に参加したと書いてあります。つまり、「神の民」は真に「一つの家族」であることが証明されています。自分たちの「安息」のためだけではなく、兄弟姉妹の「安息」のためにも戦うのです。新約時代の教会でも、同じ事が言えます。私たちは自分の罪との戦いにだけ集中するのではなく、キリストにある兄弟姉妹がキリストにある「安息」をますます味わうためにも、彼らの罪との戦いを助ける責任があります。お互い助け合って、心の中の偶像を破壊し、神様にある「安息」を共に楽しむことが教会の目的でもあります。

私たちはどうでしょうか?私たちは手加減も容赦もなく、残酷に自分の心の中にある偶像と罪を徹底的に聖絶しているでしょうか?それとも、神様の「聖絶」を真剣に受けとらないで、中途半端に罪と戦って、いろんな偶像を心の中に住まわせているでしょうか?

しかし、私たちは自分の力と信仰で心の中の全ての偶像を殺すことができるでしょうか?もちろん、できません。しかし、神様の命令通りにサタンの偶像を全て破壊しない場合、何が起こるかわかりますか?

イスラエルが何百年も偶像礼拝をし続けて安息の「約束の地」を失ったのです。要するに、イスラエルは最後の最後まで偶像を破壊しなかったのです。そして、私たちもそうです。私たちが心の中にある偶像または欲望を抱える限り―どれほど小さな欲望であっても―私たちは神様から来る「永遠の安息」を頂くことができないのです。私たちはどのように永遠の「安息」を勝ち取れるのでしょうか?

私たちの希望は最後の質問にあります。それは、私たちは誰のために戦っているのかと言う質問です。

神様が「聖戦」のために準備しなさい」と命令されたとき、神の民はその命令にしたがって、彼らの将軍であるヨシュアに自分たちの忠誠を誓いました。彼らはヨシュアに従うことを2回約束しましたが、その約束の後に付け加えたことは非常に興味深いものでした。
17私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
つまり、彼らはこう考えていました。「私たちは全てにおいてモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従いますが、この聖戦の勝ち目は、私たちの従順ではなく、神様があなたともにおられるか否かにかかっています。ですから、あなたが常に従順で、神様がヨシュアと共におられることを祈っています!」と言いました。
そして、18節に同じようなコメントがあります。
18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。
つまり、彼らはヨシュアにこう言っています。「もちろん、私たちは命がけであなたに従います。しかし、この聖戦の勝ち目は、どれほど私たちがあなたのために雄々しく強く従うかではなく、あなたがどれほど神様に雄々しく強く従い、敵を聖絶するかによるのです。あなたのために祈ります。」と言いました。
イスラエルが「約束の地」を引き継ぐことができた理由は、ヨシュアが神様の御言葉通りに、聖戦に挑み、神様の敵を聖絶させたからです。そして、ヨシュアの残酷な戦い方によって、イスラエルは安息の「約束の地」を獲得することができたのです。

私たちとイエス様の関係も全く同じです。私たちは真のヨシュア王であるイエス様に忠誠を誓います。そして、命がけで、全てを尽くして、この世にある偶像と罪と誘惑に全力で戦いますが、私たちは自分たちの弱さ、罪深さ、そして、根性のなさをよく知っています。ですから、私たちは真のヨシュア王に忠誠を誓いますが、すぐにこう付け加えます。「イエス様。私たちはあなたと共に命がけで戦いますが、あなた様の強く雄々しい従順と戦いにより頼みます。あなたの戦いによって、私たちは「永遠の安息」、「永遠のいのち」を頂くことができるのです。」

ですから、イエス様は御自分の姫である教会の「安息」のために、全てを尽くして「悪」と戦い、「悪」を滅ぼされたのです。この世に来られた時、イエス様は「人間」として来られました。そして、私たちが向き合っている「悪」、私たちが経験する「誘惑」、私たちが心の中で戦っている「偶像」と「欲望」、それらすべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。しかし、イエス様は罪を犯さずすべての心の中の「悪」を容赦なく、手加減しないで滅ぼされました。
それだけではなく、この世におられたときは、人の目を恐れず、容赦なく、手加減なしで「悪」と戦われました。御言葉を悪用していた祭司たち、民を圧制していた権力者、弱者を支配していた悪霊たち、そして、人間から「永遠のいのち」を奪おうとするサタン、イエス様は御自分の言葉ですべてを斬り殺しました。イエス様は残酷で凶悪な方法で十字架で死なれましたが、忘れてはならないのは、イエス様は十字架と言う残酷な方法で御自分の身で「死」と「罪」を処刑されたということです。

そして、最終的に、ヨシュア記の聖戦は、最後の日の聖戦を予告し、その姿を描いているのです。つまり、将来の「最後の裁き」を描いているのです。イエス様がまた来られるときに、イエス様は御自分の鉄の杖で「悪」を全滅させ、この世に「平和」を最終的に勝ち取るのです。そして、民はどんなものからも誘惑されずに、イエス様との親密な関係によって永遠に満たされる「安息」を経験するのです。イエス様が彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない王国に住むことができるのです。これがイエス様がサタンの王国を全滅させた結果なのです。

しかし、なぜイエス様はここまで戦う必要があるのでしょうか?なぜこんな残酷な方法が必要なのでしょうか?それは、私たちが心が固く、弱くて愛のない、どうしようもない姫だからです。「他の神様を愛してはいけない」または「あなたの王子様しか愛してはいけない」という簡単な命令さえ聞き従えない姫なのです。ですから、もう奪われることのない「永遠の安息」を御自分のどうしようもない姫に与えるために、愛をもって、力強く戦われるのです。ですから、私達はその愛に応えて、私たちの王子様であるイエス様に愛を誓い、罪と戦い続けながら、イエス様が来られるまでイエス様により頼みましょう。

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