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2020年11月1日礼拝 音声

11月1日礼拝の音声ファイルです。
2ファイルに分かれています。45分37秒のファイルが最初です。

2020年11月1日 聖晩餐式礼拝 式順

前 奏
神の招きと賛美  

司会者:主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会 衆:主の恵みがありますように。
司会者:さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、
喜び叫ぼう。
会 衆:感謝の歌をもって,御前に進み行き,賛美の歌をもって,主に喜び叫ぼう。   
一同:主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。    

教会福音讃美歌 39番 たたえよ救い主イエスを 
開会の祈り                        

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節          
罪の告白の祈り                            
会 衆:あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

赦しの確証  
司会者:  詩篇32篇1-2節
会 衆:  アーメン 

平和のあいさつ                            
司会者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも
互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・
キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。 

教会福音讃美歌 311番 罪とがをゆるされ神の子とせられ

みことばの宣教 
聖 書 朗 読   マタイの福音書22章1-14節 
聖 書 の 話  「御國には礼服が必要」
   廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 369番 あなたに語り知らせたい

聖晩餐式                        
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐]
[一同で祈る]
 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐に
あずかることができた恵みを心から感謝いたします。
 この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
 私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

献 金           
教会福音讃美歌  272番 みつにまして ひとつの神
祝 祷                       
後 奏      567番 アーメン・アーメン・アーメン

2020.11.1 「御國には礼服が必要」マタイの福音書 22:1-14
序文)主イエス様は、パリサイ人、律法学者、ユダヤ教指導者たちに、先に二つのたとえ話で、彼らの罪と罰を話され、ついで、ご自身が神の国の要石であることを示されました。今朝のところで、別の角度から同じことを教えようとされ、天の御国のたとえを話されました。結婚の披露宴に招かれた者たちの応答をめぐってたとえが話されました。さらに、ここでは、救いが及んだ異邦人教会のあり方まで示しておられます。平行章句のルカの福音書も参照して学びましょう。

Ⅰ 結婚の披露宴を催した王様の招きを断った人々
パレスチナでは宴会が催されるときは、その日付が相当前から知らされていて、招待状が前もって届けられるのです。ところが時刻は知らされておらず、当日になって準備が整うと、しもべたちが招待者のところに出かけて行って、招いておいた人々を集めるわけです。この場合招待を受諾した者が、当日になってことわることは大変非礼にあたるのです。まして「二度目の招待を断るのは、侮辱であり、諸部族間ならば、宣戦布告にひとしい」と言われるほどなのです。
王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わした。『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』(ルカ14:17)と言わせた。彼らは来ようとしなかったのです。
「それで再び」王様は招待した客たちに、「次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』」ところが、彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き(マタイ22:5)、みな同じように断り始めた。「最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』」(ルカ14:18,19) 。
招待された客たちは、「この世の心づかいや、富や、快楽によって塞がれている」(ルカ8:14)。世を愛して神の招きを無視したのです。
 
1 第一の人は「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。」(ルカ14:18)と言ったのです。これは本当ならば、買ったのだから、安心して宴会にいって、飲み食いできるはずなのに、断っているのです。買う途中とか、買う前とかいうのならば、他の人に買われてしまうかもしれませんから、宴会どころではないと断るかもしれません。だから、これは単純に、口実にすぎないのです。この人は何のために畑を買ったのでしょう。この世の事に心を騒がして、神の要求、丁重な招きの宴を断るのです。神の招きを断る、礼拝する時間も、祈るときもないと言ってしまうのは、どのようなものでしょう。
 
2 第二の人は「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。」(ルカ14:19)と言ったのです。この人の口実は、新しい物を手に入れたので、神様の事はちょっと脇に置いておいて、その新しい物をためしてみようというのです。よく「新しい車を買った人が、普段は礼拝に行っているのだから、今日ぐらいは休んで、試運転をしよう。遠出のドライブをしよう。」と言っているようなことです。新しい道具、新しいゲーム、新しい興味が、神のために用いるはずの時間を使って、その招きを断るのです。
このたとえ話は、歴史的には最初の招きを受けた人々がユダヤ人である事をしめしています。ユダヤ人は神のメシアの到来を持ち望んでいたのですが、いよいよ。その日になると、彼らはその招きを拒絶したのです。

3 さらに「残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった」(マタイ22:6)。王である神様と、遣わされた御子への反逆を、最初に招かれたユダヤ人たちはした。「王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った」(22:7)。

Ⅱ マタイ22:8-10 異邦人にまで招きは及んだ
神は今でも世界中のお一人一人を招いておられます。それで、あなたは神の救いへの招きに、どのように答えるか、答え方に気をつけなければなりません。ここに出て来る人々の例は、人間が神の救い、招きを断る口実の普遍性をいみじくも表しています。

「それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。」
主イエス様の招きは、すべての人に向けられています。良い人でも悪い人でも出会った人をみななのです。これは異邦人に及んだ神の招きをさしています。私たちにも招きは及んでいるのです。別の表現では「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。すべての人に向けられた招きです。色々と理屈をつけて招きを断らないようにしましょう。ゴールは天の御国の大宴会なのです。今は、地上の教会でみことばと聖晩餐による礼拝に招かれています。

Ⅲ マタイ22:11-14節 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。
「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
 婚礼の披露宴に招かれている人々に、唯一求められていることは、礼服を着ていることなのです。天の御国に入り宴会に与るには、礼服を着ている必要があります。そうでないと、最後の審判の時に、外の暗闇に放り出されて、泣いて歯ぎしりすることになる。
地獄の暗闇に投げ込まれるということでしょう。裁きの日に放り出される者がいるのです。

鍵を握っているのは「礼服」を着ているかどうかですね。礼服とはなんでしょうか。
招かれた人々は、町の通りにいた者たちです。広場にいた人々です。もともと礼服を用意しているはずはないのです。普通の服をみな着ていたと考えられます。彼らは、披露宴の入り口で王様のしもべから礼服を着せてもらったと考えられます。それで着ていなかった一人は、頑強に着ることを断ったのだと思います。後で問われた時に弁解の余地がなかったので、黙っていたのです。
このような習慣について次のような聖句から推察できます。
イザヤ書61:10「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」
エゼキエル書16:8後半〜12「あなたはわたしのものとなった。わたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。わたしはまた、あや織りの衣服をあなたに着せ、じゅごんの皮の履き物をはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹物でおおった。それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、鼻には鼻輪、両耳には耳輪を着け、頭には輝かしい冠をかぶらせた。」

 いずれであっても、礼服を着ないで披露宴に出席するのは間違っているということを、王様の言葉は教えている。マタイの福音書は、神の御国に入るには「義」や「実」を必要としていると教えている。そうすると、信じる者に与えられる「キリストの義」と考えられる。パウロの言葉に代えていうなら、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラテヤ3:27)。「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)。主イエスを救い主と信じること、贖いに与ること、キリストの義に覆われることなどは、御国の民にとって不可欠なことです。

 神から離れて自由奔放に罪深く生きてきた「ほうとう息子」が、悔い改めて父のもとに帰ってきた時に、父は彼に一番良い着物を着せて、喜びの宴会を盛大にしました。私たちにも同じように天の父は一番良い着物を着せて、御国に迎え入れてくださるのです。
礼服は救い主が用意してくださっており、私たち救われた民に着せていただけたのです。神の子にふさわしい装いを聖霊は与えてくださっているのです。

結び)主がまとめとして言われたおことばは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」世界のすべての人々が、救いの御国に入るようにと招かれています。しかし実際に信仰に入り、神の国への招きに誠実に答え続け、イエス様の福音の喜びと力の中に生き続ける事を、こころから決意し、応答する者は少ないのでしょう。あなたはどのように応答されますか。

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