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2020年11月29日礼拝



2020年11月29日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    詩篇103篇1〜3節
さ ん び    死を打ち破り
さ ん び    キリストの光
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌 191番 鹿が渇いて谷川の
聖書朗読     テトスへの手紙 1章1〜4節
聖書の話     「信仰と知識のために使命を受けたパウロ」
                 百瀬ジョザイア教会主事
教会福音讃美歌 303番 かいぬしわが主よ
献   金            
報   告
とりなしの祈り                    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷       廣橋嘉信牧師
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
海外宣教師のための祈り

テトスへの手紙1章1〜4節「信仰と知識のために使命を受けたパウロ」

初めに
 月の第5日曜日にパウロのテトスへの手紙を解き明かして行こうと思っています。テトス書はパウロの書簡の中で比較的に短いものであり、見落とされがちかもしれません。しかし、これは私たちに福音と福音が意味する生き方を短くかつ力強く教えてくれる書簡です。
 本日の箇所の挨拶でパウロは自分の使命と目的、また神様の約束を証します。具体的に、福音に基づく信仰と、聖書の真理によって変えられる人の人生を自分の使命として取り上げ、その土台にある神様の約束と御言葉を教えます。この「レンズ」を通して、彼はこの手紙の目的をも教えます。私達はパウロの目的を知ることにより、神様の福音を信じ、神様を恐れて歩む人生の意味を知ることができます。そしてこれが私たちの使命と目的にも繋がります。
 それでは、箇所とその展開を三つの部分で見ていきたいと思います。第1に「パウロの使命」(1節)、第2に「パウロの使命の土台」(2〜3節)、第3に「パウロの挨拶」(4節)を見ます。
一、「パウロの使命」(1:1)
 第一に1節で、パウロは自分のアイデンティティー、すなわち、自分が誰なのかの意識があります。これには、立場と関係、それから使命と目的が含まれます。私たちは誰でも立場や使命を持っています。
例えば、あなたは誰かの子供であり、所属する家族や組織に置かれています。(この教会と何らかの関係があり、この共同体のメンバーかもしれません。)誰かの先輩後輩、どこかに所属するのでしょう。パウロがこの挨拶文で自己紹介をしている訳ですが、まず自分の立場は神との関係によると書きます。彼はまず「神のしもべ」です。全宇宙を創造され、愛して支配して下さる真の神様に従おうとする使いです。さらに、彼は自分が「イエス・キリストの使徒」であるとも伝えます。「使徒」という言葉は聖書で特殊な用語です。新約時代の教会の初期の設立と拡大のために神様につかわされ、特にイエスが復活されたことを見て証するために選ばれた人のことを指しました。
 では、使徒の使命は何でしょうか?私があなたに「あなたは何をしていますか」と聞いたら、「営業をやっています」や「主婦です」「何々学校の生徒です」「吹奏楽部」などと答えるかもしれませんが、あなたの使命は何ですか。何にやりがいがあり、何を目指しているのですか、と私が聞いたら、どう答えますか。パウロの場合は、この箇所において、使徒としての使命を二つの目的でまとめてくれます。「神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るため」です。これが今日の箇所の中心、そしてこの手紙のテーマです。
 まず、パウロの一つ目の目的は「神に選ばれた人々が信仰に進」むためでした。もうご存知でしょうが確認しますと、信仰とは、広く言うと何かに関する事実・約束を知り、受け入れた上で応答することです。例えて言うなら、椅子を見て認識します。それから「あれは自分の体重を支えられるのだ」と思って、実際にそこに腰を掛けるのが信仰です。もっと具体的に、聖書が教える信仰は悔い改めとのセットです。自己信頼をすてる悔い改めと同時に、神様の約束を受け入れて、イエス・キリストに信頼を移すことを意味します。自分の業績や収入、美や人気度、品格や才能という椅子から、イエス・キリストと言う拠り所、椅子に自分の望みを懸けます。また、別の例えを借りるなら、信仰は空っぽのてのひらです。悔い改めはそこにもともと載っている、自分にとって最も大事なもの(偶像とも言います)を落とすことであり、空っぽのてのひらにイエス様とその祝福をいただいて握るのは信仰です。こうすることによって、イエス様と繋がり、それまで敵として見て無視しようとした神様と親密な愛の関係をいただきます。ここからがクリスチャンの人生の出発であり、パウロはこれを最初の目的として使徒の働きに当たりました。
 それから、パウロの二つ目の目的が信仰を持った私達のそれからの歩みです。これは、「敬虔にふさわしい、真理の知識を得るため」という言葉であらわされます。パウロは「真理の知識」を伝えようとました。神様と自分について真理をただの情報として頭で知っても、心が一新されず行動も言葉も永続的な変更を受けません。しかし、パウロが持っていた人の変化の構造では、真理は人の頭から心にまで降りて、新しい世界観を築き、神様の栄光に動かされる人に造り変えます。この知識は主を恐れ、人を愛する効果を与える真理の知識です。次の節で分かるように、これが「偽ることのない神」からの言葉であるからです。
 残念なことに、私たちは説教を聞いて聖書を読むときに得る知識によって変えられない場合があります。素晴らしい知識がただの飾り、効果の無いものなってしまう危険があります。子供のときからずっと教会に通って、「この話はもう知っている」と思うことがよくあるかもしれません。或いは、真理を自分勝手な方法で捉えてしまい、神様の偉大さがはっきり見えない様になると、心が変えられないかもしれません。神学用語を使うなら、私たちは信じて義と認められ、それからきよめられていく聖化の経験をして、クリスチャンとして生きます。ですから、聖書の教えを本当に理解でき、信じて、従うことができる様に祈るのはとても大切です。
 ところで、この箇所に神様に選ばれた人の話が出ました。まことの神様が完全な知恵そして善意をもって全ての人の人生を計画なさったと聖書は示します。私たちはこれを聞いて、幾つかの誤解に陥るかもしれません。一方で、選ばれていない人は神様に近づくことが拒否されていて、不公平だと思って、この予定を信じない罠があります。また、神様との関係は運命であるから、選ばれた人なら好き勝手に生きていいと思って甘える罠もあります。どちらの誤解も、人間を過剰評価、神様を過小評価するのです。
しかし、神様が選んで下さったということの中心は、神様の恵みです。その恵みは信仰に現れ、一つ目の罠から私たちを守ります。と言うのは、もし救いが少しでも人間によったとすれば、一人も神様を信じ、知ることができません。しかし、神様が人をご自分の民・家族に加える様にと選んで下さり、私達の様な人の心に働きかけて、1章1節の信仰を与えて下さいます。マイナスを当然受けるべき私達が無限のプラスをキリストにあって受けるのは不公平ではなく、ただの恵みです。さらに、神様が真理の知識をも信じる人の一人一人の為に選んで下さったので、選びの教理から好き勝手に生きようという甘えも生じ得ません。ですから二つ目の罠をも避ける動機付けもテトス1章の初めにあります。私達は恵みのみによって神の恵みを受けて信じて、恵みのみによって信仰の生活を歩みます。
二、「パウロの使命の土台」(1:2〜3)
 パウロは次に、2〜3節で自分の使命の二つの目的を支える土台である神の約束、そして自分への召しを書きます。「それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」パウロは「偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった」ことだと教えます。あなたは嘘をつかれたことがありますか。それをわかったときにどう感じましたか。嘘をついたことがありますか。神様は偽ることがありません。彼が「永遠のいのちの望み」を約束し、成就して下さったことにより、信仰と知識の土台を下さっています。
 では、「永遠のいのち」とは何でしょうか。感謝なことに、イエス様御自身が永遠のいのちを定義して下さいました。ヨハネの福音書17章3節で、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と言われました。聖書で使われる「知る」や「知識」という言葉は、1節で見た「知識」の様に、単なる情報や知識を超えて知ることを意味することがよくあります。親密な関係の知識です。私達を根本的に、人格的に影響する知識です。私達の魂は神様の素晴らしさを知って、彼を信じ、従う様になるその体験が永遠のいのちの体験です。いつも心地よいという意味ではありません。生ける神を慕いあえぎ、涙を流し、身体と心が苦しみます。しかし、私たちが神様を本当の意味で知ると、希望が生まれます。信仰と敬虔な生き方において前進することが望めます。
 先ほど読んだ通り、神様が時を超えて、永遠の昔に予定されていましたが、その約束は人間にも予告され約束されていました。創世記の初めに登場する「いのちの木」でも約束されました。そこで神の御言葉の真実を信じる代わりにそれと神との関係を捨てたアダムによって、死と滅び、惨めさが世界に入って来ましたが、神は御計画と愛をやめずに、「定められた時に、みことばを宣教によって明らかにされました」。「宣教」は旧約聖書の預言で始まりましたが、特に新約時代におけるイエス・キリストをはっきりと宣言する言葉で明らかにされました。
 約束され、明らかにされたこの知らせは次にパウロに届けられました。「私はこの宣教を、私達の救い主である神の命令によって委ねられたのです」と3節が終わります。パウロはかつて、イエスを嫌った、熱心な宗教家でした。自分の正しい生き方に信頼を寄せて、敬虔に生きようとはしていました。しかし、その高慢なパウロをもイエスが愛し、自己啓示をして下さり、彼にも永遠のいのちを下さった故、パウロ自身は新しい信仰と新しい知識を得ました。さらに、パウロはテトスそして世界の人に、自分の手紙によってこの宣教を託しました。パウロの使命の土台は、永遠の昔から紀元1世紀、そして21世紀にまで続く永遠のいのちの良き知らせにありました。
三、「恵みの結果、テトスへの挨拶」(1:4)
 最後に、第4節でパウロの挨拶を見ましょう。「同じ信仰による、真のわが子テトスへ。」これは実に神の恩恵による、パウロの使命の結果の挨拶です。テトスは実に大活躍をしたパウロの共同労働者でした。イエス様に関する知らせを忠実に携えて、教会の成長の為に骨折って地中海を駆け巡る人でした。第二コリントの手紙を読むと、彼はパウロの為にコリントの街の教会に行き、献金を集めてそれを管理する重い役目を担いました。第二テモテの手紙によれば、当時はイタリヤの向かい岸のダルマティアへ派遣されていました。そしてテトスへの手紙が書かれた時点(恐らく、紀元60年代前半と考えられます)では、現在のギリシャとトルコの南の地中海に位置する島クレタに居ました。パウロにとって、テトスはとても役に立つ人でした。
しかし、実に、パウロがテトスを「真のわが子」と呼ぶことは奇跡的です。と言うのも、テトスはユダヤ人ではありませんでした。クレタには、ユダヤ教の背景を持つ人は居ましたが、彼らはパウロと違う信仰を持っていました。一方で、パウロとテトスは同じ信仰を共有し、同じ希望を受けていました。パウロは永遠のいのちの良い知らせによって、自分の業績やテトスの背景を見ないで、二人が共有するアイデンティティーに目を付けることができました。
最後の最後に挨拶の本文があります。「父なる神と、私達の救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。」パウロの全ての手紙にこのような挨拶文があります。パウロにとって、これはクリスチャンへの手紙の根底にあります。父なる神から最初に使命を受けて使わされた方、救い主キリスト・イエスにあって、恵みと平安が聖霊様によって、信じる者に与えられます。堕落して神様を無視して、自分の為に生きようとする私達に、キリストが恵みと平安を与えに来られました。
イエスは選ばれた人の代表者として完全な信仰を持って、父なる神を敬い、完全な知識の中で完全な従順を果たされました。そして、究極の敬虔と信仰のわざとして、十字架の上で不敬虔な人々、神を信じないで自分を信じていた高慢な人々が受けるべき刑罰を身代わりとして受けて、永遠のいのちを得て、蘇って下さいました。十字架と復活の結果が恵みと平安です。永遠のいのち、そして恵みを経験する人生が最高の使命を受けたイエス様によって用意されました。
結論
 さて、この手紙の挨拶を通してパウロが経験した恵みと平安の源を知りました。それは、神様がイエス様にあって約束された永遠のいのちにありました。そして、これが信仰と知識のために使命を受けたパウロを支える希望となりました。
 最後にお聞きします。あなたはどういう希望と使命感をもって生活を送られていますか。誰との関係、そして何の約束を持って歩まれていますか。最高の人生は、神の子、神のしもべとして、神様とイエス・キリストを親しく知ることから始まります。どの仕事や勉強をしているか、何歳であるか、社会的な立場と関係無く、私たちはまことの神様を信じて、真理を知って従うことによって「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ことができます。私達は自分の力では、神様が下さるこの使命を果たせません。しかし、聖霊なる神様が御言葉の宣教を私たちに本当の知識として働かせていくと、私たちは変わることができます。
 永遠のいのちの約束を確信して、信仰と敬虔な生き方に合った真理の知識において成長して行ける様に、祈りましょう。具体的にこれがあなたにどう当てはまるか、説教では語れません。お一人お一人にとってこれが違うからです。しかし、イエスへの信仰について、また彼を知ることについて足りないことに聖霊様が気付かせて下されば、ぜひ、他のクリスチャンに分かち合って、励まし合って、祈り合ってみましょう。私たちはパウロとテトスの様に違っても、兄弟姉妹として同じ信仰を持って、神の恵みと平安を受けることができます。

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