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2020年11月8日礼拝 音声

11月8日礼拝の音声ファイルです。

2020年11月8日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉     
 司会者:イザヤ4:3-4 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い落とし、エルサレムの血をその町の中から洗い流す
 会 衆:イザヤ12:1-2 主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。見よ、神は私の救い。 私
は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。
さ ん び     死を打ち破り
さ ん び     土の器
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌   352番 神は私を救い出された
聖書朗読      ヨシュア記 2章1-24節
聖書の話     「信仰の英雄は遊女だ」  マーク ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌   318番 あふれるこの涙で
献   金            
報   告
とりなしの祈り                    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷      
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
海外宣教師のための祈り

ヨシュア記 2:1-24 – 信仰の英雄は遊女だ。

ヘブル11章に出る人物はよく「信仰の英雄たち」と呼ばれています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュアなど、聖書の偉大なヒーローたちの信仰がずらっと並らべられています。そして、その中に、この一節が隠れています。
「31信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏(おだ)やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。」
海を割ってイスラエルを救ったモーセは「信仰の英雄」。そして、偶像礼拝者である遊女ラハブも全く同じように「信仰の英雄」と、聖書にはっきり書いてあります。「信仰の英雄は遊女だ。」と聞くと、すこし戸惑いませんか?何か抵抗とかありますか?

この場面を少し想像してみてください。たとえば、海浜幕張めぐみ教会は「信仰の英雄」たちが集まっている教会で、モーセ先生が牧会をしています。そして、ある日曜日に、1人の外国人が初めて教会に来ます。しかし、この人は通常の新来者と何か違う「臭い」がします。受付の人がこの外国人に話しかけに行きます。そして、2階にいるあなたに、その会話の内容が少し聞こえます。新来者の名前はラハブ。彼女は近くの歌舞伎町のような歓楽街に勤めている遊女らしい。自分の体を最高入札者に売る仕事。礼拝の5分前なので、彼女は人に見られないように、静かに2階へ来て、あなたの隣に座ります。彼女の派手な姿。香水、たばこ、お酒の匂い。彼女が仕事帰りに礼拝に来たのがすぐわかります。そして、彼女の高級ブランド品、金髪に染めた髪の毛、濃い化粧を見て、ラハブが今まで「お金」、「快楽」、「欲望」、「美」、「権力」という偶像を崇拝してきたこともすぐにわかります。そして、礼拝が始まるときに、彼女は平気であなたと共に讃美歌を歌います。皆さんはどう思いますか?すこし戸惑いますか?「この人、汚らわしい」と思いますか?ラハブからすこし遠ざかりたいですか?

すると、廊下から小さな声が聞こえます。「ラハブさん、ラハブさん。」モーセ先生が2階まで来ました。「ラハブさん、なんで2階の一番後ろに座ってるんですか!ダメですよ!私は神様に怒られます。他の信仰の英雄たちと座りなさい!私の後ろに席が空いていますよ。アブラハムさんとサラさんの横と、ダビデ王とイサクの前。見えますか?良かったです。いや~、ラハブさんが来てくださることを本当に楽しみにしていましたし、神様も楽しみにしておられました。あとでまたゆっくり話しましょうね!」とモーセ先生が言います。この話を聞いて、どう思いますか?もっと戸惑いますか?私だったら、心の底から驚きます。「なんでこの人が?!この教会ってどういう教会?!」と思います。

このような話を聞くと、私たちの心の中の自然な反応と神様の反応が正反対であることがすぐわかります。クリスチャンもクリスチャンではない人も、よく「信仰の英雄」のあり方を間違って想像してしまいます。モーセのような人は「信仰の英雄」だと、当然、考えることはできますが、ラハブのような人を思い浮かべる人はあまりいません。なぜでしょうか?それは、私たちが無意識に持っている偏見を神様の基準に付け足す傾向があるからです。そういう訳で、私たちは神様が軽視されていることを重視してしまい、神様が重視されているものを軽視してしまうのです。

ヨシュア記2章は、私たちが無意識に持っている偏見と神様に対する信仰を軽視していることを明らかにしています。二人の正反対の人物の対比を通して、誰が神様の御国に入れるのか、誰が神様の御国に入れないのかを明らかにしています。神の御国に入るためには、私たちの人種、性別、性格、育ち、見た目、教育、履歴、能力、ステータス、モラル、今まで犯した罪などは全く関係ないことがはっきりと教えられています。全く関係ないのです。神様の御国に入れる唯一の条件は、神様の救いの御恵みにより頼む事のみです。この箇所は、私たちがこれを本当に受け入れているのかを試しています。

最初に、「どちらが英雄でしょうか?」と考えながら、この箇所の二人の人物を見ていきたい思います。もしヨシュア記2章を読む前に、「この話に勇敢なイスラエルの戦士と偶像崇拝するカナン人の遊女が出てきます。どちらが信仰の英雄になると思いますか?」という賭けをするなら、どちらに賭けますか?

申命記31章とヨシュア1章で神様は、イスラエルに御言葉を一語一句守るように命令され、イスラエルは心の底から神様に忠誠を誓いました。そして、イスラエルは「約束の地」の異教の都市を占領するために強く雄々しく御言葉通りに戦いに挑みます。ですから、申命記を読んでいるイスラエル人にとっては、ヒーローとは勇敢なイスラエルの戦士であり、偶像崇拝するカナン人の遊女は「罪のあらわれ」と考えるのは当然のことでしたし、彼らが期待していたことでした。しかし、ヨシュア記の最初のエピソードには、その期待をひっくり返すようなことが書かれています。

まず、この話のイスラエルの戦士たちのあり方を見ていきましょう。彼らは本当に信仰のヒーローになるのでしょうか?話のはじめから、イスラエルの戦士たちは非常に怪しい行動をとっているのがわかります。

1節では、将軍であるヨシュアは二人のスパイを「約束の地」に送ります。しかし、すこし違和感を感じませんか?神様がヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところ どこで でも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」と励まされたあとで、ヨシュアが敵の力を図るために、偵察隊を送るのは違和感のある展開ではないでしょうか?そして、この二人の兵士はシティムから来た人です。シティムと言う所をご存知ないかもしれませんが、イスラエル人にとっては、かなり印象深い場所でした。シティムは、イスラエルの男性たちが異教のモアブの女性たちと寝てしまい、その女性たちに偶像礼拝に導かれた場所です。
そして、シティムから来た二人の兵士たちはなぜか異教のカナン人の遊女の家に入って、「泊った」のです。「約束の地とエリコを見に行きなさい」というミッションがなぜか「遊女の家に泊まる」ミッションになっていました。もちろん、二人の兵士たちは「遊女の家」で何をしたかは全くわかりませんが、御言葉を大切にするイスラエル人にとって、どう考えてもこれはびっくりするような展開なのです!聖書では「遊女」は罪のシンボルだったので、この二人の兵士たちが、非常に怪しい行動をとったのは明らかです。

そして、3節ではまたびっくりするような展開があります。エリコ王の兵士たちが、イスラエル人のスパイがいるらしいと聞いて、遊女ラハブの家にやって来たのです。この二人のイスラエル兵はスパイとして大失格ですね。しかし、もっと怪しいのは3節の表現です。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たち」と書いてありますが、ヘブル語では二人のスパイは、単に遊女ラハブの家に行ったという意味もありますが、二人のスパイはラハブに関係を求めに行ったというふうにも捉えることができました。ですから、イスラエル人にとっては、椅子から落ちるほどの驚きの展開だったのです。

しかも、驚きは続きます。エリコの兵士たちが彼らを逮捕しに来た時に、イスラエルの兵士たちは完全に受け身でした。ラハブがエリコの兵士たちをごまかしているときに、彼らはどこにいたでしょうか?その家の屋根からただ見ていただけでした。彼らがエリコの兵士たちから逃れられた時、遊女ラハブは、この状況を利用して彼らからイスラエルによる襲撃からの救いを獲得したのです。忘れてはいけないのは、ヨシュア記は神様の律法が記されている申命記に基づいて書かれた物だと言う事です。そして、申命記7:2-4にはこう書いてあります。
「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれ[カナンの街]を討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである。」

つまり、もしイスラエルの民の1人でもカナン人となんらかの契約を結んだなら、その人自身だけではなく、イスラエルの民全体に対して神様の御怒りが燃え上がるのです。しかし、この二人のスパイは神様の御怒りによって処刑されるよりも、エリコ王に処刑されるのを恐れたのです。ですから、彼らは神様の御言葉を破り、神様がイスラエルを滅ぼすと言うリスクを犯してでも、自分の身を守ろうとしたのです。要するに、神様、自分の民、御言葉などはどうでもよくて、自分の事だけしか考えられなかったのです。そして、最後に、二人がエリコから脱出して、ヨシュアのもとへ戻って偵察の結果を報告したときに、何と報告したでしょうか?24節では、ただ遊女ラハブが彼らに言った言葉を繰り返しただけでした。つまり、この二人のスパイはエリコと約束の地を偵察して来ると言うミッションを受けたのに、彼らはエリコへ行って遊女の家に泊まり、自分達の正体がばらされると、死罪に至る罪を犯し、3日間も近くの山地に隠れていました。そして、将軍に偵察の報告をしたときは、ただ、遊女ラハブの言葉を偵察の結果として報告しただけでした。どう考えてもこの二人のイスラエル人は最低のスパイであり、「信仰のヒーロー」と言う言葉のかけらも全くありませんでした。要するに、彼らは、人を救うイスラエルの「勇敢な戦士」ではなく、むしろ、救いが必要な存在でした。

では、遊女ラハブはどうでしょうか?彼女は、イスラエルの民の想像通りに、神の民を罪に導くような存在でしょうか?いいえ、むしろ、彼女はイスラエル人以上に信仰を持っているヒーローでした。

エリコ王の兵隊たちがラハブの家に集まってイスラエルのスパイを逮捕しようとしたとき、ラハブは勇気と賢い言葉で速やかに兵隊たちを違うところへ誘導し、完璧な脱出計画によってイスラエル人の二人のスパイを助け、結果的に自分と自分の家族の救いも勝ち取ったのです。つまり、遊女ラハブはエリコ軍とイスラエル軍の兵隊たちを自分の手のひらの上で転がすほどの実力者だったのです。これがヨシュア記の第一話です。遊女ラハブがイスラエル兵を救った話です。

しかし、なぜラハブはここまでイスラエルのスパイを助けたのでしょうか?
その答えはヨシュア記2章のクライマックスにあります。それは、2:9-13節に書いてあるラハブの熱い信仰告白です。ラハブは、まずイスラエルと聖書の神ヤハウェイが、エジプト、シホン、オグの王国を倒したと聞き、ヤハウェイを恐れていることを告白します。みなさん、ラハブがイスラエル人を助けたことは、エリコ王への裏切りです。エリコ王からの処刑は確実でした。しかし、ラハブはエリコ王の処刑よりも、十の災いを送り、エジプト軍を海でおぼれさせ、シホンとオグ王国を聖絶したヤハウェイを恐れていました。ラハブは2:11で「私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。」と告げたとき、出エジプト記15章を引用して、モーセの歌の預言が成就されたことを示唆していました。そして、最終的に、申命記4:39を引用しながら、遊女ラハブの口から素晴らしい信仰が告白されたのです。「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。 」イスラエルのスパイと遊女ラハブは正反対でした。イスラエル兵のスパイたちは、エリコの処刑を恐れ、御言葉に聞き従わなかった者たちで、遊女ラハブは、神様の御業と御言葉を聞いて、神様の力を褒めたたえた者でした。遊女ラハブはこの神様の恵みと力により頼んだのです。もちろん、二人のスパイが約束を守る保証は全くありませんでしたし、エリコ王に自分と自分の家族が殺されるというリスクもありましたが、遊女ラハブはすべてをかけて、聖書の神様により頼んだのです。私はいつもこの数節を読むと、遊女ラハブの情熱的な信仰に感動します。

しかし、なぜこのような話がヨシュア記の始まりにあるのでしょうか?それは、神様が私たちの何を見ておられるかを教えるためです。

私たちは、すぐに人の「強さ」または「弱さ」に目が行ってしまいます。私たちは、無意識に偏見を持ち、性別、人種、見た目、育ち、教育、経歴、そして「罪」の傾向を見て、「強い信仰」がありそうな人と、「強い信仰」がなさそうな人を勝手に決めつけます。

たとえば、「イスラエルの兵士たちはいい人だ。彼らのラハブとの関係は怪しくないし、彼らはラハブに憐れみを与えたんだ」と勝手に決めつけるかもしれません。しかし、神様の言葉をよく照らし合わせてみると、イスラエルの兵士たちはラハブ以上に重罪を犯したのです。彼らがラハブと契約を結んだせいで、彼らだけではなく、イスラエルの民全体が罰せられる必要があった事がわかります。そして、遊女ラハブを見ると、「彼女は汚らわしい、罪深い存在。汚い、ずる賢い手で救いを得たけど、しょうがないよね。遊女だから」と勝手に決めるかもしれません。しかし、それは御言葉による見方でしょうか、または、私たちの偏見からくる見方でしょうか?

皆さんは、教会の兄弟姉妹を見るときや、伝道するとき、無意識にこの世の基準で人を図る事はありませんか?しかし、神様は御自分の基準のみによって、人を図られます。他の要素は全く関係ないのです。

神様の律法だけによれば、ラハブだけではなく、イスラエルのスパイも聖絶される必要があるのです。しかし、神様は律法ではなく、「信仰のみ」によって人を救い、御自分の民にしてくださるのです。ラハブはイスラエル人と比べて罪深い人生を送っていたかもしれませんし、二人のイスラエル人は、ラハブよりも重い罪を犯したかもしれません。しかし、忘れてはいけないのは、神様はどちらも生かされ、どちらも神の民として認め、どちらにも「約束の地」を与えられたのです。本当にびっくりするような展開だと思います。それはなぜでしょうか?神様は彼らの罪を見ておられませんでした。神様は彼らの悔い改めの度合いや、信仰の強さを見ておられませんでした。神様は彼らに信仰があるかどうかだけを見ておられたのです。彼らが最終的に、神様の恵みにより頼むかどうかだけを見ておられるのです。からし種のような小さな信仰だとしても、あなたは神に救われ、神の民に加えられるのです。これこそが「恵み」による、無条件の救いなのです。

しかし、ラハブの信仰が二人のスパイの信仰より強かったのは明らかです。ラハブはどう見ても「信仰の英雄」だと思います。違いは何だったのでしょうか?それは、ラハブが自分が「聖絶」される存在だと強く自覚していたのに対して、二人のスパイはその事を全く意識していなかったと言う事です。「もし本当に神様がいるなら、このままでは私の家族がエジプトのように裁かれる!」とラハブは考えてすぐに行動したのです。つまり、ラハブは神様のさばきを真剣に受け止めていた人で、二人のスパイは神様のさばきを軽んじていた人でした。

実は、福音書ではラハブのような人が現れます。ルカ7章では、律法を常に守る、宗教的な人たちがイエス様を招いて一緒に食事をしていました。その町には、一人の罪深い遊女がいて、イエス様が宗教的な人たちの家で食卓に着いておられることを知って、自分の商売で儲かった香油の入った壺を持って入って来たのです。 そして、その遊女はイエス様の足もとに近寄り、イエス様の下で激しく泣き始めました。そして、イエス様の足を涙でぬらし、商売のために大事にしていた自分の髪の毛でぬぐい、商売で使う口を使ってその足に口づけして香油を塗ったのです。それを見ていた宗教的な人たちがどんな事を考えていたかは、当然想像できます。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。汚らわしい。気持ち悪い。」そう、彼らは心の中で考えていたと思います。しかし、イエス様がそこでおっしゃったのはこうです。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。」

そして、イエス様はラハブを同じように赦すと思います。「ラハブ、私をこのように迎えてくれたことを感謝する。あなたの罪は赦されている。」つまり、深い信仰を持っている者はそもそもヒーローではないです。深い信仰を持っている人は自分の罪深さを理解して、自分を赦してくださる救い主、イエス様により頼む人です。

そして、新約聖書では、「宗教的」な人たちまたは「清潔」な信仰者達にパウロはこのように注意します。
ローマ2:1 「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。」

つまり、信仰の薄い人は神様のさばきを畏れていない人です。もし、遊女ラハブのような人と共に賛美したくないと言うなら、それは本当に残念な事です。なぜなら、実は遊女ラハブはボアズの母であり、ダビデの祖母でもあり、イエス様の祖先でもあり、イエス様の家族だからです。罪深い人と接したくないのなら、教会には来ない方がいいと思います。教会は罪深い家族の集まりだからです。

そして、ヘブル11章の「信仰の英雄たち」とは「勇敢な戦士たち」の意味ではありません。遊女のような罪人の集まりなのです。ヘブル11章のヒーローたちの人生をよく見てください。ノアはアル中でした。アブラハムは詐欺師で臆病者でした。息子のイサクは詐欺師で臆病者Jrでした。サラは神様を馬鹿にした者。ヤコブは病的に嘘ついてしまう泥棒。モーセは怒り狂った殺人者。ダビデは最低な浮気男。そして、信仰の英雄たちの中で、ラハブは遊女でした。しかし、唯一のヒーローはこのような罪人を迎え、救い、愛し続けるイエス様です。そのような救い主がいなければ、私たちには希望がありません。私たちはイエス様に多くの罪を赦されたので、どれほど恥ずかしい罪を犯したとしても、ラハブのように全てをかけて、また、イエス様の足を洗った無名の遊女のように全てを捧げて、大胆にイエス様の御名を褒めたたえます。しかし、もし、あなたがそれほどの罪を犯していないと思うなら、あなたには教会は必要ありません。来る必要もありませんし、あなたにとって息苦しいところになると思います。しかし、もしあなたがどうしようもない罪人であるなら、大歓迎です!なぜなら、多くの罪を赦されている人は、イエス様を多く愛せる人だからです。自分たちが神様のさばきに値する者であることを忘れないで、他人を裁いたり、人の罪をみるのではなく、自分の罪深さを深く悔い改め、イエス様だけを仰ぎ見て賛美しながら歩みましょう!お祈りします。

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