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2020年3月8日 礼拝音声



2020年3月8日 マタイ16:18−20「この岩の上に、教会を建てます。」
 
序文)主イエス様が建てられた教会について、私たちの教会の信仰告白「ウェストミスター信仰告白25章 教会について」を聞きましょう。
 
一項「公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者、からだ、また満ちみちているものである。」
 
二項「見える教会は、(律法のもとにあった先の日のように、ひとつの民族に限られないで)福音のもとでは、やはり公同または普遍の教会であり、全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と、その子らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国、神の家また家族であり、そのそとには救いの通例の可能性はない。」
 
三項「キリストは、世の終わりまで、この世にある聖徒らを集めまた全うするために、この公同の見える教会に、教役者とみ言葉と諸規定とを与えられ、また約束にしたがって、ご自身の臨在とみたまとによって、それらをその目的のために効果あるものとされる。」
 
四項「公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった。またその肢体である個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある。」
 
五項「世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りをまぬがれえない。そしてある教会は、キリストの教会でなくサタンの会堂になるほどに堕落した。それにもかかわらず、地上には、み旨に従って神を礼拝する教会が、いつでも存在する。」
 
六項「主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもロ−マ教皇は教会のかしらではない。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である。」
 
Ⅰ「教会について」の告白を「教会の本質」の面からまとめておきたいと考えます。
 
聖書にあらわれた教会の名称(主要なもの)

1     
旧約聖書ヘブル語では イ「ヤダー」 assembry・Congurigation 意味「集める」 
ギリシャ語に訳するときは 「スナゴゲー」                      
ロ 「カハール」assembry・Congurigation−意味「召す」、召しだす」 
  ギリシャ語に訳するときは 「エクレシーア」                    
ハ ヘブル語の両方が同時に用いられている箇所−出エジプト12:6、民数記14:5、
エレミヤ26:17 Assembry of Congurigation の意「会衆の集会全体」「民全体」
 
2 新約聖書 では
イ 「スナゴゲー」ユダヤ人の集り、または、会堂を意味したが、ヤコブ2:2「集会」はあきらか
にキリスト者の集り「教会」をさしている。
ロ 「エクレシーア」 使徒13:1「教会」、Ⅰコリント16:19「教会」、Ⅰテモテ3:15「教会」、
エペソ1:22「教会」、
ハ 他の呼び方では、「キリストの体」、「聖霊の宮、または、神の宮」、「あげられたエルサ
レム、新しいエルサレム、天のエルサレム」「真理の柱、土台」
 
3 教会と他の団体の相違
マタイ16:18「あなたはぺテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。」
教会は、神・キリストの意志がその起源です。他の団体は人間の意志が起源です。
教会に入会するには、聖霊の感化を必要とします。
旧約時代の教会は、族長の宗教や、神権政治の中にありました。またイスラエル国家と同一視されていた。それが市民的と宗教的の区別をされはじめたのが、シナゴク(会堂)があらわれてからで、ペンテコステの時にはっきり、教会と国家の分離があきらかになりました。信仰告白を中心にして信仰を人々に勧めることがはじまったのです。
 パウロはアブラハムの子孫としての教会について語っていますが、肉による者は必ずしも子孫ではなく、「信仰によって生きる人々こそがアブラハムの子である」(ガラテヤ3:7)と主張しています。
 
 旧約と新約の二つの時代における教会の継続性は、「約束の契約」という言葉の使用法においても示されています。「あなたがたは・・・そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」(エペソ2:11〜12)。異邦人キリスト者が旧約と一つとされる。約束は肉によるのでなくアブラハムの信仰の者が入るのです。「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分を共に受けているのなら、」(ローマ11:17) 野生のオリーブが良いオリーブに接がれる、これが神様のやり方です。キリストが教会を建てるといわれたのはこのことです。キリストの来られたとき、ユダヤ人の信仰は少ししか残っていなかったのですが、そこに異邦人を信仰者が接ぎ木されて、花をもう一度咲かせられるのです。旧約時代の主の集会(カハール ヤーウエー)が、新約聖書では荒野の集会(エクレシーア クリノー 使徒7:38)といわれている。
 
Ⅱ 教会の異なった側面(カイパー「聖書の教会観」より)
1 「見えない教会」と「見える教会」(ウェストミンスター8章2項、3項)
 見えない教会と見える教会の区別は、キリストの教会が二つあるということではありません。キリストをかしらとした教会は唯一です。キリストは一つの体しかもっておられません。しかし、この一つの教会は異なった色々な側面をもっていて、その中の二つが見えない教会と見える教会というのです。
 
 「見えない教会」公同または普遍の教会はもっぱら聖霊の恵みによって再生した者から成っています。過去・現在・未来を通じて一つに集められる選民からなりたっております。なぜ見えないといわれているかというと、誰が再生したもので、だれが未再生のものか、私たちは確実に告げることができないからです。全知の神だけがおできになるのです。教会のこの面は、それがもっぱら新生した人によってだけ成り立っているので栄光に輝いています。
 その会員は一人一人、暗黒の権力から救い出されて、神の愛する御子の国に移されています(コロサイ1:13)。信徒たちは「生ける石として、霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」(Ⅰペテロ2:5)。「主イエス・キリストの御名と、私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(Ⅰコリント6:11)。信徒たちが完全にたっしていないのはたしかです。しかし現在でも、信徒たちは主イエス・キリストによって、罪とサタンに対する勝利を得ています。主にあって、信徒たちは全き者です。
 
「見える教会」は、教会員として名簿に載っているすべての人から成っています。誰が教会員か、決めるのは難しくありません。正確に計算できます。厳密には、見える教会の教会員は、見えない教会の教会員と符号します。新生した者だけが見える教会に属しているといっても、見える教会の中に新生していない者がありえますし、事実いることを否定できません。「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです(Ⅰヨハネ2:19)。このため「見える教会」は、真のクリスチャンである信者と、口で告白しただけの、名自だけのクリスチャンである不信者とからなる混合といえるでしょう。
 初代教会が生まれるときにいた、イスカリオテのユダや、アナニヤとサッピラの存在が、このことを裏付けています。見える教会の会員であるというだけでは、決して永遠の命を保証してはいないのです。
 
 では、「見える教会」の栄光はどんなものでしょうか。信者と不信者の混合であるとすれば、当然「見えない教会」よりずっと低い栄光のはずです。それは残念ながら事実です。それが、非常に悩ましい事実であったことも歴史が示しています。教界人は、見える教会の汚辱を救うための方策は考えられないものか、もし考えられないとしたら、それに対してどうしたものかと、死闘して来ました。今にいたるまで、その悩みについて一致した意見といったものは何一つありません。異なった三つの見解をあげてみましょう。
 
 第一の見解は、キリスト教会の中に<純粋教会>思想と呼ばれる主張をするグループが、歴史を通じてありました。かれらは教会員を、新生の自覚をもち、改心をはっきり告白できる者だけに限定しました。再生していない者をすべて教会の外へ押し出すことが必要であり、また出来ると考えています。彼らは、新生者とそうでない者との判定に対する為に、人間は無能力だということを見過ごしています。
 
第二の見解は、逆に走った人々がいました。「放任」政策をとり、問題を放置・無視します。彼らは教会戒規(教会訓練規定)を執行しません。彼らは自分たちの立場を支持するために、毒麦のたとえばなしを利用します。そのたとえは、教会はその内にある麦と毒麦とを分けようとしてはならないと教えていると解釈します。いや誤解します。この考えを支持する人々は今も非常に大勢います。そのために、彼らは見える教会の純粋という栄光を失わせてしまいます。神の言葉は繰り返し悪い者を除くように命じており、聖書のどの言葉も、全体としての聖書の光の中で、解釈しなければならないということです。
 
 第三の見解は、神のみことばに基づいたものです。一方で見える教会が完全に純潔でありえないことを認めます。最も信心深く、最も賢明な役員たちでも、麦と毒麦とを区別しようとする場合、到底、誤りを犯さないとはいえません。しかし他方では、教会が最善を尽くして純潔を守り、そのために除名が必要となっても、戒規を行使することは聖なる義務であると主張します。罪を犯した兄弟が教会の懲らしめを無視するならば、「異邦人、取税人と同じ者」と考えられるべきであると主は命じておられるからです。「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:17)。これらのみことばに基づき、日本長老教会は、教会訓練規定を定めており、その消極的部分で戒規を規程しています。 
 
 見える教会は見えない教会に似ているという意味で、栄光に輝いているというのが結論です。可見性(見える)と不可見性(見えない)とは、イエス・キリストの教会の二面です。従って見える教会が、見えない教会を具現しなければならないことは言うまでもありません。相互の類似が完全でないのは確かですが、見える教会が見えない教会の戯画でしかないような場合があります。そのときそれは栄光を失っています。まことに多くの場合、見える教会は見えない教会を映しだすことに無気力そのものです。そのとき、その栄光はかすんでしまいます。とは言え、神の恵みにより見える教会が見えない教会に懸命に近づこうとつとめている地区教会もあります。そのような教会こそ、真に栄光に輝いています。
 見える教会の栄光は、その教会員たちに映しだされ、彼らのイエス・キリストにささげる忠誠のうちに光を放ちます。キリストをかしら・救い主と告白し、自らキリストのからだとして具現する教会こそ、栄光に輝きます。
 
結び)キリストが建てられて今日までも続いている教会の本質的なことについて、次主日も、学びを続けます。組織体としての教会、教役者について一特定の職務、長老職、執事職、小会、中会、大会についてなどなどです。天の御国の一員として、今は地上の見える教会に属しているのですから、その本質を正しく理解し、信じ、告白してまいりましょう。

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