2020年4月12日イースター ルカ24章1−12節「生きた方を死人の中に?」
(序文)復活の日、朝早くガリラヤから出てきた婦人たちは、イエスが葬られた墓へ急いでいた。その手には準備してきた高価な香料と香油が携えられていた。彼女たちを墓に急がせたのは、イエスへの愛と服従であった。真に純粋で正しい動機であり、その時、人が示しえた最高の愛の行為であった。墓に納められたイエスの遺体に対して、他に何が出来るだろうか。
1 彼女たちの行為は役に立たなかった。墓に着いたところ、中は空っぽで遺体がなかった。携えた香料は塗られる主を失って無用となった。女たちは途方に暮れた。ご遺体はいったいどうなったのだろう。
ルカが、天使が与えた答えを記している。「イエスはよみがえられた」である。墓が空であることの説明は、「死体を盗んだ人がいる」ためでなく、「どこか他の場所に移した」ためでもない。「死人の中から身体ごとよみがえられた」からである。
神の使いたちは彼女たちにそのことを気づかせるために「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」と問いかけました。彼女たちの墓に向かった動機がどれほど純粋でも、そのために最高の価値ある香料を用意していても、それで良いのではない。むしろ「何を求めているか」が問われている。見当はずれのものを求めてはいないかが問われている。「遺体に香油を注ぐ」ことを彼女たちは求めていた。神は警告された。生きた方を死人の中に求めたと。
私たちの判断はどうか。彼女たちを同じ立場であれば、きっと同じことをしたに違いない。イエスへのどのような直接的な愛をもっても、それが自分の評価に基づく限り、いわゆる常識の域を脱することはできない。イエスは復活なさった方であり、いわゆる常識の域を越えたお方であるからです。
生ける方は、生けるものの中に求めなければならない。
主日の礼拝の中で、また日常生活の中で、私たちが自分の側で、まったき供え物をもって、愛のささげものを用意して、神の前に出たとしても、そこに「死んだイエス」を求めているなら、もはや、キリストは見いだされることはない。
たとえば、最も偉大な人物で、もっとも高く美しい生涯を生きて死んだ人として、あこがれる心、イエスの教えや生涯を評価分析する対象として見て行く姿勢、聖書の上だけの人物として考える思い、などはイエスを表面上だけでしか考えていない。死人の中に求めるのと同じ。
そうではなく、今も、生きておられる方、私たちの集まりのただ中におられる方、「2-3人わたしの名前によって集まるところに、わたしもともにいます」といわれた方に会うために集う。生きておられる主とともに歩む日々だと気づき経験する、それなくして、まことの礼拝は存在しない。
主イエスを神様との関係で見上げる。自分のレベルではなくて。この心構えが、死人の中にイエスを求めるという見当はずれから私たちを解放するのです。
さて、人間は生ける主と出会うまでは決して、まことの復活の主を信じることは出来ない。使徒たちはこのニュースを聞いたが「たわごと」と思った。女たちを信用しなかった。
ではどのように生きた方を求めればよいのでしょうか。私たちは聖書を離れて神秘的な世界に入って行くべきでしょうか。いいえ。多くの人々がみことばを離れて生ける主を求めて、ついにまことの信仰からそれて自分が教祖となって異端の道に入り込みました。
2 6-7節 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
私たちは福音においてイエスを求めなければなりません。彼女たちがイエスの福音において、イエスを求めていたら「三日目によみがえると」言われたことをおぼえて「空の墓」に急ぐことはなかった。
今朝、私たちは神様の示しに基づいて、イエスは生きておられると、確信します。
ルカ24:1-53は書きとめられた歴史です。その内容は「よみがえられたイエス」今も生きておられることを保証し、あかししているのです。だから、イエスは今も生きておられるのです。
信仰によって、イエス様が生きておられることを認めるときに、私たちは確かに生きておられる主と生活の場で出会うのです。
よみがえられた主は、トマスに現れて「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。私たちは見ずに信じ、しかも生ける主と会わなければなりません。見ずに生ける主と交わることが出来るでしょうか。会うことが出来るでしょうか。
一つの例を考えてみましょう。生まれつき目の見えない方は、どのようにして親や兄弟や社会と関わり、人と会っているかを。彼らは見えなくても他の人たちとの交わりを成立させているのです。相手が生きているお方であれば、必ず会い、交わりが成立します。生きておられる主に私たちは祈りを通して交わります。礼拝においてご臨在の主に賛美をささげています。
3 エペソ3:14-21「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」
キリストが心の内に住んでくださる。復活の主があなたの内に住む。このことは真理です。パウロが祈り求めたことでしょう。主が、私の内に住んでおられると信じるとき、何がおこるでしょう。私たちが極度に疲れ果て病に落ちたとき、生ける主が私たちの内に住みたもうことを思いだし祈るのです。何が起こるでしょうか。
私たちが自分の扱いにくい心を持て余すとき、私たちの内にいます主にその状態を祈りましょう。キリストは私たちの知恵です。神様の働きを開始するときに、まず主に知恵を求めて開始しましょう。驚くほどの導きと知恵を賜ることでしょう。優柔不断な人は、主よ、私の意志となり決断となってくださいと祈りましょう。何が起こるでしょうか。あなたの中に働き志しを立てさせ、わざを行わせるのは神です。主はどのような方法でしっかりと意志を持てばよいかをお教えくださることでしょう。
結び)生ける主を見ずに、しかし、豊かに交わることは可能なのです。信仰を働かせましょう。
私たちは主が再びおいでになるとき、顔と顔をあわせてお会いするのです。その日が初めての人に会うような驚きでなく、日々にお会いしていたお方を見る、そのような日であれば幸いです。