コメントはまだありません

2020年5月10日 母の日礼拝 音声あり

5月10日 母の日礼拝の音声ファイルです。

2020年5月10日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    ガラテヤ人への手紙 4章28〜31節  
さ ん び   主はわが力
さ ん び   夢見人~ドリーマー
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  433番 主に告げよ
聖 書 朗 読     創世記 18章9〜15節 
聖 書 の 話    「母サラの信仰」    廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  173番 御霊は天より
献   金               
報   告
とりなしの祈り          
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏     567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年5月10日「母の日」礼拝 
創世記 18章9〜15 ガラテヤ4:28〜31「母サラの信仰」

序文)母の日を記念して,イサクの母となったサラの信仰と,子育てに際して示したサラの態度を通して,使徒パウロが教えている信仰のあり方を学びます。

Ⅰ 新たないのちの約束を信じる!
創世記17:15-17,18:9-15によるとアブラハム100才,サラ90才の時に神様は,約束の男子誕生をはっきりと言われた。妻サライの名前をサラに変えるようにとまで神は言われた。しかしその時アブラハムは信じかねて笑った。
 次いでまた神様が3人の使いを遣わして,約束を再確認された時に,それを聞いていたサラは,普通の女にあることがすでに止まっていたし,おいぼれてしまっている自分と年寄りの主人のことを思って笑ったのです。二人とも信じがたい状況であったので笑ったのです。不信仰の笑いであったが,誰も咎めることは出来ない。私たちから見ても,ごく自然な反応です。前代未聞の約束で,懐疑的になり,不合理な言葉に素直に応じられない。すべての人間の経験に反することであったのです。しかし神様はサラに「なぜ・・笑うのか」と咎められた。
14節「主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ,定めた時に,あなたのところに戻って来る。そのとき,サラには男の子が生まれている。」
おっしゃったのは神様です。世界を創造された方です。今も摂理を持ってすべてを支配している方です。人間の仕方ではなくて,神様の仕方があるのです。
サラは悔い改めてアブラハムとともに神様を信じた。神様の約束が成就するための妨げであった不信仰は取り退けられた。信仰に従って,いや信じる以上に遥かに越えて神は答えられる。聖霊がサラに母親となるとの信仰を与えて,彼女を育てられた。
 アブラハムもサラも「主にとって不可能なことがあるだろうか」とのこの約束の言葉をくださった神様を信じた。二人は約束の男の子が生まれることを信じて交わった。そして事実お言葉通りに彼らにイサクが生まれた。聖霊はサラの胎内でイサクが育つのを助けられた。サラは不信の笑いに代えて,喜びの笑いを与えられた。その子をイサク(笑い)と名付けた。不信仰の笑いと信仰の笑いの間に全能の神様がおられる。聖霊が彼女の信仰と胎内の子どもを育てられた。私たちにとって不可能とか,あり得ないと思う事柄でも,創造者を信じる者たちは,その判断基準を自分にではなくて,神様に置く時に,不可能な事はないと信じる。それは,人の心を変えて信仰をもたらす方は,神様だからです。

Ⅱ 信仰による新たないのち
1 さて,信仰によって,私たちはクリスチャンとして新たないのちを得る約束をいただいている。罪に死んでいた私たちです。永遠に生きるなど不可能な状況にあったのです。それが,今や,イエス様の復活のいのちを信じる者は永遠にいのちが与えられているのです。神にとって不可能なことはありません。恵みによって信仰によって救われたのです。
 それだけではなく,身近にいる子どもたちや,隣人のために,遠くにいる人々のために,その人の中にキリストが形造られるための生みの苦しみが出来るということが書かれてあります。
ガラテヤ4:19「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで,私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
神様は死んだような私たちを用いて他の人々にいのちを与えるために用い,キリストに似る者になるように仕え働くことができると言われている。あなたはこれを信じますか。主イエス様を体内に宿す者としてクリスチャンの生涯が導かれている。そればかりか,他の人の内にキリストが宿ってくださるための働きに仕えることができるというのです。元気はつらつ,いかにも,という人によってではなくても,主は,その人を用いようとされる時は,いつであっても用いられるのです。100才だから老齢で弱いのでだめ,ではなく,信じる者を用いられる主はお働きをなし続けられるのです。
  
2 創世記 21:8-12 サラの子育ての態度と,神様の命令
サラは契約の子イサクを育てる経過の中で,どのような信仰の生みの苦しみがあったのでしょうか。それは女奴隷のハガルがアブラハムのために先に産んだイシュマエルとの軋轢でした。それをだんだんと感じ始めました。
8節「その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。」
アブラハムのように,契約の子どもの育った記念日には盛大に祝って,主イエス・キリスト様に感謝し,さらに恵みと守りを期待して祈り合いましょう。
 その時サラは,エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が,自分の子イサクをからかっているのを見た。母親の心は穏やかでなかった。ハガルがイシュマエルを産んでからサラを馬鹿にしてとても悔しがらせた。イシュマエルも自分はアブラハムの世継ぎであると思いこんでいた。周りの人々もそのように取り扱っていた。イサクが生まれるとわからない時に,サラはハガルとイシュマエルに対して嫉妬心を持っていた。それが信仰により聖霊の助けでイサクが誕生して,静まっていたのだった。その嫉妬心は消えていたわけではなかった。ついにこの事件で再び表に現れました。族長の妻と世継ぎである子どもに向けられた,無礼な振る舞いにがまんが出来なかった。
10節「それで,アブラハムに言った。『この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は,私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。』」
子育ての時に自分の子どもがからかわれたりいじめられたりしたら,どの母親でも我慢がならない。別に嫉妬心からでなくても,守ろうとします。守ろうとしない方がおかしい。彼は永遠の世継ぎであるイサクなのですから。アブラハムは非常に悩んだが,神様が介入して,サラの言う通りにしなさいと命じられた。
 
Ⅲ 使徒パウロの教え ガラテヤ4:19-31
1 この事件を例証した,使徒パウロの教え
 自由人のサラが産んだ子どもが,奴隷のハガルが産んだ子どもに迫害されている,と使徒パウロは捉えています。そのような事はあってはならない。さらにこの事柄が教えている事がある。キリストにより罪から解放されて自由人であるクリスチャンを,メシヤ・キリストを信じることがないままの罪の奴隷の子どもたちである人々が,迫害するままにしておくことはなさらない。神様は最終的に介入される。クリスチャンの子どもたちを,未信者のイシュマエルたちや不信仰の大人たちが,信仰をからかったり,馬鹿にしたり,あざ笑ったりすることはあり得ます。さらにもっと陰湿にいじめたりすることもあり得ます。しかし,「恵みを施して千代にいたる」と約束された神様が,一人一人を守られる方であります。
 
2 子育てに際して契約の子どもたちを,罪から解放された自由人として,母親も,父親も育てなければならない。それは罪の律法に縛り付けた育て方ではなくて,福音の恵みによる自由の中に育てなければならない。律法主義的にではなく恵みの福音をベースにして育てる。なぜなら自分たちは罪から自由にされた聖徒だからである。信仰と愛と希望を込めて育てよう。いつも十字架と復活の主イエス・キリスト様を見上げる子どもとして育てよう。そのためには母親自身がそのように歩まなければならない。信仰の人アブラハムの天幕には,律法主義の子どもと福音の自由による子どもが同居できない。子育ての眼目は,信仰の恵みによる,神の子どもたちとしての自由で幸福な歩み方を身につけてあげるように導くことでしょう。
 主イエス・キリスト様にあって子育てする恵みと特権を覚えましょう。まだまだ信仰に導かれる前の考え方や生き方が抜けきれないで,ついつい古い律法主義的な要求と厳しい比較判断をしてしまうでしょう。しかし,契約の子どもたちは,イエス・キリスト様がわたしの所に来させなさいと言われた恵みと信仰による子どもたちです。あなたの上に聖霊の助け,励ましは加わります。聖化の恵みは溢れて福音による自由人としての発想を与えてくださることを信じましょう。子育ての労苦の上にますます聖霊の助けが豊かに注がれるように祈りましょう。
 パウロは,私たちを召された神様の真実が,私たちの信仰を完成してくださると言っている。「あなたがたを召された方は真実ですから,そのようにしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:24)

3 神が,私たちを神の真実によりすがり,信じて堅く立つことができるように聖霊によって支えてくださるようにと祈りましょう。主イエスは私たちの内に宿り,御かたちがなるようにと,内に生き,働き,喜び,祈られる。そのような魂を通して子どもたちや,人々がいのちに導かれるのです。
 神の真実は,全能者としての真実です。子育てのわざは,神が私たちにくださった愛の挑戦です。神は,私たちの心にある最も深い,最も高い,最も価値ある願いを思いめぐらすように要求されます。
 
 結び)長く成就しないので,私たちはもはやそれを失われた願いとして片付け,神様の前に持ち出さなくなってしまったことかもしれない。成就したかもしれないが,今はとてもだめだと思って希望を捨てたのかもしれない。しかし,もし,そのことがアブラハムとサラに対する子どもの約束のように明々白々たる神のみむねであると知っているものならば,たとえ,誰かがその成就を願うことが不可能で不合理だと笑うほどであっても,神は,私たちのために,それを成し遂げようと願っておられる。不信仰を続けることによって,神の計画を妨げてはならないのです。神に出来ないことのあるただ一つのことは,神の愛と力に対して故意に継続して信じないばかりか,私たちに対する神の計画を最後に拒絶する時です。「神を信頼する人たちのために,神が出来ないことはひとつもない。」

コメントを投稿