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2020年5月24日礼拝 音声

24日礼拝の音声ファイルです。

2020年5月24日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉     イザヤ書 42章9節  
さ ん び    主はわが力
さ ん び    イエスに栄光あれ
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌   344番 神はわが砦
聖 書 朗 読       マタイの福音書17章14-21節  
聖 書 の 話     「信仰の叫び」        廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  348番 信仰こそわが身を
献   金 
報   告
とりなしの祈り          
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年5月24日 マタイ17章14-21節「信仰の叫び」 

(序文)山の上でイエス様はヨハネとペテロとヤコブの3人に,ご自分の真の姿を現して,神の子であることを見せました。また天から父なる神様の御声がして「これはわたしの愛する子,これに聞け」との忠告を弟子たちが受けたのでした。彼らがあまりにもイエス様のメシアであること,その使命の果たし方について考え違いをしてしまっている事を,思い測り,正そうとされたのでした。
 さて彼らが山から下りてくると,そこに大変な騒ぎが持ち上がっていました。その原因はある父親のひとり息子で,小さい時から,てんかんで大変苦しんでいた。彼が泡を吹き,歯ぎしりして,体をこわばらせる状態に,悪霊のためにしばしば落とされるので,主の弟子たちに治してもらいに来たのでした。しかし,弟子たちは治す事が出来なかったのでした。
 
Ⅰ イエス様はそれを聞いて17節「ああ,不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われました。不信仰な曲がった時代とは,どのような状態をさしているのでしょうか。

①  それは悪霊の虜になっている若者の状態です。幼いころから長く,どうすることもできなくなっている状態の中で、父親は望みをなかば失いかかっている。どれほど魂が苦しんでいることでしょうか。息子の悲しみ痛みは量り知ることできません。
②  弟子たちは,失敗しなくてもすむ力を主イエス様から託されていながら,必要の前にそれを用いる事ができなかった。とても無力であった。彼らは,前にイエス様から遣わされて村々を巡ったときに悪霊を追い出して,病の者たちを癒やすことが出来た。今はこの体たらくです。キリストのすぐ近くにいる弟子たちでさえもどうする事も出来なかった。無力感が漂う状態である。
 ③ 平行章句マルコの福音書9:14によれば「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。」弟子たちの失敗は批判的で敵意に満ちた律法学者たちにとり,イエス様を追い落とすための絶好のチャンスを提供した。他人の失敗を最大限に非難して,自分では,この若者を救うために指一本動かそうとしない人々がいる。ゆゆしい事態であります。
 この状態に対して主イエス・キリスト様は「いつまであなたがたに我慢していなければならないのか」と嘆き,彼らの不信仰に悲しみを表明された。私たちはいかがでしょうか。どんなにか,主をこのように嘆かせている事が多くあり,罪深い不信仰な状態のままであることでしょうか。おわびしましょう。

 主イエス・キリスト様にとって弟子たちの状態は実に大問題であった。キリストの大使としてこの世に遣わされている者が,大使としての役割を果たす事が出来なかった。主はこの弟子たちを働きのために整え直す必要を覚えられたでしょう。でもその前に,まずご自分ができる事に取りかかられ,この若者を助けられた。今できることに取りかかり,将来の事に失望しない。これが主の使命の果たされる方法であった。私たちは主と違って,今できることもしないで,できないことを巡って議論し,将来の事を議論して,結局何もしないでいることが多いのです。 

 主は確かに不信仰な世界を救うために来られた。そのためにまず目前のただ一人を救うために,ご自身のすべてを与えることができた。もし座って敵対する者たちに囲まれながら世界の状況について議論し,教会の現状について力を云々しているだけなら,それは多大な失望を生み出すだけであります。世界の片隅で私たちにできる事はないのだろうか。あるならば,今できることをとにかくしましょう。教会のすることに失望して云々するのなら,自分でできる役割に着手しましょう。ただ座って他の人たちの奉仕で失敗した事を云々するよりは,自分ができること,以前に主イエス様から託されて使って見たことのある霊的権威を祈りによって再使用してみましょう。座して人類を愛する福音を説き,感傷的な愛に満たされている事はやさしい。しかしあまり愛しえない罪人である一人を愛すること,その一人を助けるためにどれほど骨が折れるとしても,自分にできる事があるならばそれをしましょう。
 
Ⅱ 平行章句マルコの福音書9:21-24。「イエスは父親にお尋ねになった。『この子にこのようなことが起こるようになってから,どのくらいたちますか。』父親は答えた。『幼い時からです。 霊は,息子を殺そうとして,何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし,おできになるなら,私たちをあわれんで,お助けください。』イエスは言われた。『できるなら,と言うのですか。信じる者には,どんなことでもできるのです。』するとすぐに,その子の父親は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」
 父親は弟子たちの所に息子を連れて来て直してもらえると信じていた。しかし失望した。この先生はどうだろうか。「しかし、おできになるなら」と頼んだ。無理もないことです。主イエス・キリスト様は言われた。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」絶望的な心で物事に当たれば,それを望みなき状態にする。信仰的な心で物事に当たれば,それを可能にする。「しかし,おできになるものなら」という「しかし」は,主イエス・キリスト様の側につけるべきことばではなくて,「しかし,信じるなら」と自分の側につけるべき言葉でありましょう。信仰の大小を問わない。イエス様ができると信じるか否かが問題なのです。そのために目前の困難や試練に釘付けになっている目を主イエス様に転じることです。イエス様の御力を思うのです。その約束に立つことです。既に見せていただいている主イエス・キリスト様の数知れない大能に目を留めて期待しましょう。
 主に期待する祈りは,私たちの行き詰まっている課題に立ち入ってくださるようにと願います。問題解決をゆだねます。主は私たちを失望させられることはありません。
 
Ⅲ イエスが家に入られると,弟子たちがそっとイエスに尋ねた。マタイ17:19「なぜ私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」 弟子たちは霊的戦いにおいて失敗した原因を密かに尋ねました。主イエス様は「信仰が薄いから」と答えられました。「からし種」ほどの信仰があるなら。

主が教えられたのは、信仰が多いとか少ないとか、大きいとか小さいとかの問題ではないと言う事でした。からし種ほどの信仰でよい。本物ならば、信仰が生きてあれば良い。純粋に神を信頼する心であれば、不可能と思われる大奇跡でもなしうる。信仰の質を問われた。
 
 生きた信仰、本物の信仰とは、自分にたのまず、神の能力と恵みによりたのむことです。自分の信仰をさえ頼みとしない。自分の信仰がもう少し大きかったらできるのに、という考えは、自分に頼っている。神様を全く頼るのではない。自分の信仰の大きさと比例して神様が働いてくださると思っている。自分の信仰が小さいので人をそのように赦す事ができないなどと考えている。また逆に、私はたくさん学んでいるから、私は長く祈っているから、私は早くから祈っているから、私はイエス様のようにしているから、と自分を頼みとしている限りは、イエス様はスポイルされています。聖霊がみことばにより導かれるのに、みことばを軽んじて、自分の感覚を最優先しているのです。自分がどう思うかを第一とした、主観的信仰は悪魔が一番乗じやすいのです。

 主イエス様は答えます。そうではないよ。信仰があれば、それによって神は全面的に働かれる。自分は無価値である。神はあなたを通して働かれる。赦すことができるように働かれる。またそのように神に頼っている者を悪魔は乗じる事はできない。
 「信仰を増し加えてください。」と祈るのではなく、「信じ続けさせて下さい」と祈るので良い。からし種ほどでよい。信じる心が生きているかぎり、神はあなたを通して働かれる。赦せる心を賜るのです。
 
私たちの人生でたびたび同じ失敗を繰り返す。主の教会のお働きで失敗する。その時に,主イエス様は調査検討委員会を造りなさいとは言われません。密かに主イエス様に問うのが賢明です。祈りの場に出て自分で問いかけるのです。祈りの場での反省と主イエス様のみことばに照らして聞く態度が解決の道を開きます。

 弟子たちは主イエス様から悪霊を追い出す力をいただいていました。しかしその力を維持するために祈りが必要だったのです。それは父なる神様が供給源だったので,父との結びつきが絶やされないことが重要だったのです。祈りは私たちに託されている霊的権威を保つために不可欠だったのです。ぶどうの幹の枝である私たちは結びついていなければ,その生命力は供給されないのです。枯れ果てて切り捨てられることになります。しかし結びついているなら,日々にその恵みの力は供給されるのです。結びついているには祈りをすることです。

 ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木,あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり,わたしもその人にとどまっているなら,その人は多くの実を結びます。わたしを離れては,あなたがたは何もすることができないのです。」

 結び)終わりに,私たちは祈りましょう。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

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