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2020年5月31日礼拝 音声

礼拝音声ファイルです。

2020年5月31日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉      エペソ人への手紙 4章1-3節   
さ ん び       喜びの声を上げて
さ ん び      主の臨在の中で
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌    243番 罪から解かれて
聖 書 朗 読      マタイの福音書17章22-23、18章1-6節
聖 書 の 話     「自分を低くする者が」
                       廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌    244番 み栄え告げる歌は
献   金            
報   告
とりなしの祈り    大会共同の祈り(杉並教会のためにとりなし)
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年5月31日 エペソ4:1-3 マタイ17:22-23,18:1-6「自分を低くする者が」

序文)イエス様は終焉の地エルサレムに向かって,弟子たちとともに歩みを進められた。その途中すでに16章21節で「そのときからイエスは,ご自分がエルサレムに行って,長老たち,祭司長たち,律法学者たちから多くの苦しみを受け,殺され,三日目によみがえらなければならないことを,弟子たちに示し始められた。」とありましたように,ご自分が十字架にかけられ,死に葬られ,よみがえることを,弟子たちに教えられていました。彼らがガリラヤに集まっていた時に,また,自分の十字架について,前回と同様のことを教えられました。

Ⅰ 17:22-23 ご自分の十字架の再度の予告
今回,前の教えと違っているのは,「人の子は,人々の手に渡されようとしています」が付け加わっていることです。この小さな群れの中に,一人の裏切り者がおり,イエス様はそのことを知っておられた。イエス様はイスカリオテ・ユダの心の動きをユダ以上によく知っておられた。「人の子は, 人々の手に渡されようとしています」とイエス様が言われた時に,事実を告げ,警告を与えられただけではなく,ユダに対して最後の訴えをなされた。それでも弟子たちは理解出来なかった。彼らは,この時はもう「十字架」という言葉で表現されているイエス様の死に気づいていた。しかし,よみがえることは,復活が起こるまで理解できなかった。そのためにさらに進んで質問することを恐れた。それ以上,主イエス様の身に起こること,予想されることを知ることを恐れた。
 イエス様が単純に,「殺され,三日後によみがえる」と言われたことを理解できなかった。人間の心は,自分が,そうあってほしくないということを拒否する。都合の悪いことは聞こえない耳を持っている。聖書のメッセージを多く聞いて来た。自分でも学んでいる。そしてみことばを受け入れることの幸いを知り,拒否することの結果をも知らされている。
でも,多くの人々が神様への全き忠誠をささげ,できれば,生活を神の民にふさわしいものにすることから,出来る限り遠のいていようとしている。私たちは自分の好ましい,また適応するメッセージの一部分は受け入れるけれども,そのすべてを理解することを拒む。私たちが,如何に罪深く,神に近くないということが,弟子たちの反応によって示されています。

Ⅱ 18:1-6 誰が一番偉いかの議論
イエス様が十字架に向かってエルサレムを目指し,それを弟子たちに教えておられる道順で,驚くべきことに,弟子たちは誰が一番偉いかという議論をしていた。いかに主の苦難についての彼らの理解がほど遠く,祈りが失われ,謙遜が失われていたかが分かります。イエス様は彼らの質問「天の御国では,いったいだれが一番偉いのでしょうか」に答えて,一人の子どもの手を取って,自分のそばにたたせました。
 ご自分のすぐそばに立てられたのはだれか?それは子どもだったのです。ペテロでもなく,ヨハネでもなくヤコブでもありません。一等席に立たせたのは子どもだったのです。その上で「まことにあなたがたに言います。向きを変えて[悔い改めて・字義通り『一転して』]子どもたちのようにならなければ,決して天の御国に入れません。」(3節)と答えられました。「天の御国では,いったいだれが一番偉いのでしょうか」どころの騒ぎではありません。答えは「あなたがたも向きを変えて[悔い改めて・字義通り『一転して』]子どもたちのようにならない限り,決して天の御国には,入れません。」なのです。よくよく注意深く,おことばの意味するところを受け入れなければなりません。
 そもそも,「天の御国で一番偉いのは」と論争すること自体が,御国に入る条件を満たしていない。それほど愚かなことはない。「子どもたちのようにならなければ」というのです。「子どものように」という意味は「自分を低くする者」と理解しておられる。ユダヤの社会では,子どもは価値のない存在でした。目上の者に服従し,責任を負う対象として以外は真剣に考えられていない存在,世話される者であり,尊敬されるべき存在ではない。だから,弟子たちよ。「あなたがたは, 向きを変えて[悔い改めて・字義通り『一転して』]悔い改めて子どもたちのようになれ」。「誰が一番偉いか」のような事績争いではなく,精神的に方向転換して,価値のない者となることを受け入れなさい。ヨハネの福音書3:3では「新しく生まれるのでなければ,天の御国に入れない」と言われているように,性質の根本的変化を求めている。

Ⅲ 「だれでも,このような子どもの一人を,わたしの名のゆえに受け入れる人は,わたしを受け入れるのです。」と話されました。「このような幼子」の特徴は,弱い存在です。無力です。取るに足りない存在です。年がら年中誰かに手をやかせているのです。時には手足まといになります。おまけに自分の立場しか主張しないのです。それも自分がしたい時にすぐにです。夜中だろうと,早朝だろうと,集会中でもおかまいなしです。
 この幼子を受け入れ,イエス様ご自身が親切に取り扱われたように,同じようにする者が一番偉いと言われたのです。
 イエス様の選ばれた12弟子たちが,この幼子を受け入れるには,謙遜でなければ到底できません。親は,自分の子どもなので放っておく事ができないために,渋々でも要求を聞いてあげるのです。しかし,他人の子どもだったらどうでしょうか?どこまで受け入れることができるでしょうか?
この世で軽んじられている者,手足まといの者,無力者と言われている人々を,主イエスの名前のゆえに受け入れることができるでしょうか?相手を見下す冷酷無情な態度をとらないでしょうか。この世で地位があり,名声があり,財産がある者,有力な者らは,冷酷無情な心を抱くようになる可能性があります。その心は時には幼子に代表される小さな者を困らせます。すると,怒りが込み上げてきて相手を侮辱するような考え,あるいはそのような考えがあると伺わせるような態度をとります。これらは人間が自分本位の野心を持っている時に生じてくるのです。罪のなせる仕業です。
 幼子をイエス様のゆえに受け入れる者は,一番偉い。イエス様が受け入れておられる子どもだからというので,受け入れる。イエス様が受け入れておられる罪深い人だからというので,受け入れる。世間の目がどうであってもイエスの名前がかぶらせてあるので,受け入れる。そもそも,私たちのような,わからずやをイエス様が受け入れてくださった事を思うと,謙遜にされて,私たちはお互いに受け入れ合う。
 幼子を受け入れるのは謙遜でなければ到底できない。そしてそのような謙遜な心を持つ人はイエス様を受け入れる。どのようなイエス様を受け入れるのかというと,十字架の上で私たちの身代わりに死んでくださった方です。このイエス様を受け入れる者は,このお方を遣わされた天の父なる神様を受け入れるのです。

 もともと人間は罪を犯す以前は神様の創造による良き存在でしたので,神様に対して謙遜な心を持っていたのです。謙虚だったのです。黙示録に登場する24人の長老は,御座に着いておられる方の御前にひれ伏して,永遠に生きておられる方を拝み,自分の冠を御座の前に投げ出します。「主よ,私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに,それらは存在し,また創造されたのです。」(黙示録4:11) 神様の恵みの前にひれ伏し,金の冠を投げ出します。冠は神が彼らに与えられた権威と栄誉を指します。それらを投げ出して,神にのみ栄光を帰することが,被造物のなすべきことです。信徒のなすべきことです。それこそ真の礼拝です。
実に神に対して被造物のこの全面的な従属関係が,はっきりと理解される時に,被造物にとって謙遜であるという事は,第一義的な義務であります。被造物がこの謙遜を失ったとき,天使は堕落し,悪魔となり,悪霊となりました。アダムが堕落したのもそうでした。ですから,逆に謙遜に御子を受け入れる者は,御父を受け入れるのです。
 誰が一番偉いかの議論は,堕落の原因である謙遜の喪失に始まりがあるのです。人間としての本来の立場を見失い,イエス様が勝ち取って下さろうとした救いを見失っているのです。世俗的な言葉と思いに満ちた日々を送ってしまうのです。
 イエス様が十字架の犠牲を払い,新しい御国の秩序,神のお心にかなう世界を実現しようとしておられるのに,神の民である教会の中で,そのような事に我関せずと,自分のためにだけ一番偉いのは誰と論議していることは,何とはずかしい,つまらないことでしょう。12弟子にとって,12使徒であるということは,その人の名誉であるというよりは,むしろ責任であるのです。主の復活の目撃証人となるべく召されていたのですから。使徒としての責任に目覚めるならば,もっと,主の教えられた事柄を正しく理解し,行動し,仕えただろうにと思います。もっともそれは後の出来事でした。今は無理もないと言えます。
現代の信徒たちはどうでしょうか。教会における奉仕も,牧師はもちろんのこと,長老,執事,教会学校の教師,伝道委員,各種類の奉仕,働き人,リーダーたち,それぞれに名誉というよりもそれは責任ある職務に,主から召されたと考えて,仕えてまいりたいですね。人々にもてはやされるために選ばれるのではありません。そのように考えるとき私たちは自分のおかれた位置,責任をどれほど主に喜ばれるように果たしているだろうかと思い,謙遜ならざるをえません。主の教会のために仕える時,謙遜を持って働きましょう。自分のメンツや威信などは心を占めなくなります。
お互いに天国で一番偉くなるためには,一番謙遜になるようにと競いあう事が実際どれほど豊かな実りを結ぶことでしょうか。はかりしれません。クリスチャンにとって謙遜は,はっきりした弟子のしるしなのです。高慢の高嶺に恵みの雨が降り注ぐことがあっても,それはすぐに流れ下ってしまいます。しかし謙遜の谷には恵みの雨は,あり余るほどに流れ下って溜まります。草木を潤します。他の人々を潤して十分な祝福がとどまるのです。

(結び)神様に近く歩むときに祈りと交わりを通して聖められる道を歩めるように導かれる。それはどれほど平安であろうか。謙遜を失ったために,人々を支配しようとする思いがあったのが,それが変えられて,互いに仕える姿勢になる。もし人々が他の人のために生き始める時,多くの地上の問題は解決してゆく。お互いが主イエス・キリスト様がかしらである教会とその構成員であるクリスチャンの兄弟姉妹たちに仕え合うことを始めるなら,多くの口論や分裂分派は起こることはないでしょう。自分の勢力を広げようとか増やそうとかすることは影を潜めるでしょう。み子を受け入れ,幼子を受け入れ,天の父を受け入れる者として生きていきましょう。

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