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2020年6月14日礼拝 音声

6月14日礼拝の音声です。

2020年6月14日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    マタイの福音書 16章 26節
さ ん び     あなたがすべて
さ ん び     主イエス神の愛
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌   52番 主われを愛す
聖 書 朗 読     マタイの福音書18章6-10節
聖 書 の 話    「つまずきを与える危険」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  135番 うつりゆく世にも 
献   金            
報   告
とりなしの祈り         
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年6月14日 マタイ18:6-10 「つまずきを与える危険」
序文)「天の御国で一番偉いのは誰か」という質問への答えは2週前に学びました。今朝は、その続きにイエス様が教えられた「信じる小さな者につまずきをあたえること」の危険について学びましょう。それが自分の体が自分をつまずかせるなら、どうしたら良いか!イエス様の真意はどこにあるのでしょう。

Ⅰ つまずきが起こるのは避けられない。6節−7節
1 イエス様は、イエス様に従って歩むクリスチャンたちの現実をよくご存知です。イエス様は夢見るものではなく、身のまわりに起こっている現実を踏まえて、さまざまな教えを与えておられます。信仰生活を続けて行く道中で、「つまずきが起こることは避けられないが」(7節)と言われました。何時の時代にも起こる課題です。
 では「つまずき」と何でしょうか。これは原語ではスキャンダルという英語の語源になったことばでスキャンダロンです。動物を捕るため、罠につけてある引き金となる板や棒やほそい紐などで、それが足にかかるとパターンと罠が落ちて獲物が捕獲される仕掛けです。救いの道を歩いて行く小さな者の前に罠を伏せておくと、その足がこのつまずかせる物に引っかかり、倒れて、救いの目標に向かって進む事を妨げるのです。「ここは教会だから四海波静かで、いさかいや、つまずき等は絶対に起こらない。いや、起こったら教会ではない、」等という論議ではないのです。動物を捕まえる罠は、まず隠されているので分からないのです。私たちは分からないうちに罠にかかってしますのです。次に、罠にかかるようにえさを置いておびき寄せるのです。それがサタンの手口です。
 
2 神の子とされた私たちの魂をくつがえそうとしている敵であるサタンは、まず私たちに分からないように罠をもうけます。そしてえさでおびきよせます。
 当然ですが、私はサタンですと言って、私たちの前に出て来たりはしないのです。最高の環境に置かれていたアダムは、蛇を用いたサタンの罠につかまりました。えさは、禁じられた木の実で、あなたを神のようにする、善悪を知るようになるとの誘惑でした。エバがそれで木の実を見ると「食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」(創世記3:6)。サタンは光の天使に偽装するとも言われています。神のみことばによって善と悪を見分けるように訓練が必要です。それも悪魔は蛇を用いて神のことばに疑いを持ちかけて、「必ず死ぬ」と言われたことばを「決して死にません」と最後に正反対の事を言ってくつがえしました。
 つまずきは、この世に教会がある限りは、私たちでも必ず起こるのです。この課題に勝利をするには、まず罠のままとまっているなら問題はありません。しかし、私たちがえさに食い付いて拾い上げるなら致命的になります。しかも、つまずきを使い続けて心の中でふくらませ、養い続けるなら、仲間のクリスチャンたちをつまずかせることとなります。
 つまずいた人は、傷つき、いかり、憤り、嫉妬し、復讐心をもち、争い、苦々しさをもち、憎しみ、ねたみをおぼえます。御霊の実の正反対を結びます。それがサタンの願っていることです。そのために、攻撃と痛みと、分派と分裂と人間関係を破壊します。裏切りが起こり、信仰の大幅なバックスライド(後退)が起こります。罠にかかっている事に気づかない人たちは、自分が人によってもたらされた悪のために、否定的な気分になり、神経がつまずきに集中している状態であると気づかないで、ますます自分自身にだけ焦点を合わせてしまいますので、いわばイエス様から目を完全に離しているのです。これこそサタンの思うつぼなのです。どうやってそこからぬけだすことができるでしょうか。キリストがくださった「自由」(ガラテヤ5:1)を失わないですませる事ができるでしょうか。
 
3 つまずきが起こるのはサタンが罠をもうけるからですが、同時に私たちが罠にかかるのは、なぜでしょうか。それは、私たち弟子たちがとても信仰的に未熟だからです。聖徒たちが全員熟練の成熟した段階を歩んでいるわけではないから、救われる前からもっている古い罪の傾向がまだ、聖められていないために出て来てしまうのです。それが互いの未熟さ同士のぶつかり合いとなってしまうからです。
 未熟さの一番は「自己中心」という罪の残存です。誰もが自分の事で一生懸命なのです。自分の周りの傷ついた人にまで目が届かないのです。終わりの日には「自分を愛する者」(第二テモテ3:2)になるのです。
 つまずきに対して、どのようにあなたが反応できるでしょうか。「悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません」(第二テモテ2:26)。つまずいたと言って仲違いしている人たちは、罠におちいり、悪魔の思いを達成する虜になってしまっているのです。どのように警告をうけても気づかないのです。自分は正しいと思い込んでいて、そう言い続けます。
 人につまずいてしまった人たちは二種類の反応をします。実際に不当な取り扱いを受けた人と、人から不当な取り扱いを受けたと誤解している人です。つまずかせられたと信じている人は、不正確な情報を基礎にして思っている事が多いのです。正確であっても、判断する段階で、歪曲されている場合があります。どちらにしても、傷ついている人たちは、理解力にかげりがあり、自分の推測と外見と間違った考え方で、いろいろのことを判断してしまうのです。

4 自己中心で、一番ひどい罪を生み出すのはプライドです。人に傷つけられたと言って、自分のかわいそうさを包み隠すために、プライドの衣は、自分を包み隠します。私たちの本当の姿を見えなくしてしまいます。「わたしは傷ついてなんかいません」と言う事で自分のプライドが傷つかないように本当の心を隠してしまいます。あなたを心から自由にする変化は悔い改めによって、聖霊がもたらします。しかしプライドはそれを妨げるのです。プライドは自分が犠牲者であるといいきかせます。自分が実は人をつまずかせている等とはさらさらおもいません。自分の行動を正当化します。このように自分が他の人たちに、特に自分を傷つけた者たちにするのは当然であるというのです。神の前にこの心はかくすことができません。自分は不当な扱いと受けたのだから、赦さないのは当然である。十字架上のキリストの赦しの祈りを受けたあなたは、赦さないという気持ちを持ち続ける権利はありません。誤りに対して誤りでお返ししても、何も変化はおこらないどころか新しいつまずきを生み出します。主イエス様の十字架の贖いの犠牲は、あなたのためにも相手のためにも、注ぎだされたのです。
 このために主イエスの福音は互いの罪を言い表して、互いにゆるしあうこと、また神の赦しを得る事(ヨハネ第一の手紙1:7-10)です。キリストの血により清めていただける事が約束されています。日々に悔い改めて、聖霊のきよめをいただく事で、だんだん成長して行けるようにしてくださっているのです。課題はその手順を踏まないで、どうせ私はこのようなのですと、開き直っているのが乗り越えなければならない壁なのです。
 
5 さらに、つまずきは、みことばの教えの全体像を把握していないために、偏った主張に簡単に巻き込まれてしまうことからおこります。日々に聖書に親しむ事の重要性がここにあります。ウェストミンスター信仰基準を学ぶ事の重大性がここにあります。
 悪魔は、いろいろの異端者を起こし、間違った教えを栄えさせ、新しい予言ができるといって、教会を神が啓示され完結しているみことばから引き離し、私に従えと言い、俗化させ、また迫害を持って熱心な信徒をつまずかせようとしているのです。その用いている手段は、インターネットを通じて福音放送と名乗っているものや、実際に正しい福音放送がありますが、そうでない目的をもって流しているものなど、文書や、テレビ、映画等による映像や、様々な大規模なイベントなどです。内容の終わりは、ほとんど、主イエス様に深く結びつくよりも、その主唱者、主催者が高められているのです。それはカルトが用いる手法なのです。反神の権力者たちもフルに用いています。イエスに逆らう悪魔の勢力はこの世では強いからです。見抜くには、その者たちが実際に結んでいる実によって見分けるのです。生き様が語っているのです。惑わす者たちは、羊たちが聞く必要のある事を語らないで、彼らが聞きたいと思っている事を語ります。健全な教えを聞きたいと思っていないのです。自分の耳をくすぐるような事を聞きたいのです。テモテに対するパウロの警告は今でも有効です。「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」(テモテ第二4:3-4)。

Ⅱ この現実を覚えた上で「つまずきをもたらす者はわざわいです。」(7節)とその責任を警告されました。今日では、人を用います。つまずかせる人を立てるのです。その者は、わざわい、忌まわしいのです。「そのような者は、大きい石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」(6節)。

1 どのように「沈められるほうがよい」のかというと、その人が生き延びて、次々とつまずきを信徒や未信者の前にまき散らして、その罪のために、彼が受ける刑罰の重さを考えると、海の深みでおぼれ死んだ方が、さばきは少ないから、というのです。それほど、人をつまずかせる罪はおそろしいのです。つまずいた人はその罠のために信仰のいのちを失うからです。
 
2 そのために基本的に兄弟姉妹がお互いを「小さな者」として、軽んじたり、見下げたりする思いから解き放たれなければなりません。パリサイ人たちはイエスを信じる弟子たちを、あざけり、見下げ、冷笑し、へ理屈の議論を吹きかけ、誘惑し、憎み、苦しめ、迫害することによってつまずかせました。神は、小さい者、単純に主イエスを信じしたがう者、まだ弱い信仰にしか達していない者に、期待の目を注いでおられます。主は彼のためにも死んでくださったのです。これほどの値打ちを覚えてお互いを重んじるところに、悪魔は乗じることはできない。自分は霊的に成熟しているとのうぬぼれは悪魔の乗じる隙をつくります。人をつまずかせる事は大いなる罪です。

3 8節-9節「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。」
この聖句はすでに5:29-30に出てきたのと類似しています。つまずきの原因となるものを軽視しないように。それは自分自身の体の一部分であれば尚更です。
ここで主イエス様はつまずかせる罪の恐ろしい性質と私たちを陥れようとしている危険と罪自体を処理し捨てることの重要さを教えようとしています。目と手、それは人間にとって大切なものです。しかしその大切なものが罪を犯させるならば切り捨てよと、イエス様は言われました。すなわち罪はそれほど恐ろしいものであるということなんです。人生においてそれほど重大なことだということです。なぜならばその結末はゲヘナに投げ込まれると書かれているからです。永遠の刑罰、終わりのない苦しみと伴う火につつまれる地獄のことを指している。罪のもたらす結末の重大さ、恐ろしさは、十字架のイエス様によってはっきりと人間に示されているのです。私の罪が神の御子に血を滴らせ、体を裂き、死をもたらした。どの罪を犯していないから云々は、問題としては小さすぎるのです。罪そのものが問題であるということを気づかせようとしています。私たちの魂は神の前に聖められているか。五体の一部分をこの世で失っても、神様の前に聖く立つことの方が益である。自分の永遠の行き先に無頓着であってはならない。主はこうおっしゃいました。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せば良いでしょうか」(マタイ16:26)。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはなりません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。
次に「切って捨てなさい」と言われました。罪を犯させるものがあれば、それを切り離しなさい。神とあなたを結ぶものを断つような罪の誘惑は避けるように。あらゆる種類の誘惑から遠ざかるように。自分にとって最も危険とわかっているものは、はっきりと排斥をするようにと言われています。

結び)みことばの全体像をよく学び、理解し、信じ、成熟してまいりましょう。人をつまずかせない心遣いも、戒め赦す知恵と愛も、すべては主イエス様から愛されて恵みを受け取る事からできるようになるのです。役に立たないしもべです、という自覚は、その信仰をとおして、神が、あなたを有益なしもべ、神の大使としてお用いになるための基本姿勢であるからです。

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