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2020年7月26日礼拝 音声

7月26日礼拝の音声ファイルです。

2020年7月26日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉     ヨハネの福音書3章16節
さ ん び      全地の果てよ
さ ん び      あなたの瞳
開会の祈り   
主 の 祈り
教会福音讃美歌   158番 小羊をばほめたたえよ
聖 書 朗 読      マタイの福音書 19章16-30節
聖 書 の 話    「永遠のいのちを得るために」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌   100番 栄えを捨てて
献   金            
報   告
とりなしの祈り         
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

020年7月26日「永遠のいのちを得るため」マタイの福音書19章16-30節 

序文)先週、天の御国は「このような者たちのものである」と主が言われた意味を学びました。子どものようになることが、自分の力ではいかに難しいことか、同時に聖霊様が働いてくださるといかに容易であるかも学びました。今朝は、天の御国に入るには、「永遠のいのち」がいるのですが、どのような者かによって「得ることができる」のであって、「何かをすることによってではない」と言うことをはっきりと主が教えられたのを学びましょう。

Ⅰ 19:16節 「良い方」
主イエス様が道に出て行かれると、そこへひとりの人が走りよって御前にひざまずいて、尋ねた(マルコ福音書10:17)。熱心な求道心が態度に出ています。ナザレからでた一文無しの預言者、パリサイ人たちが葬りさろうとしていたお方のもとに、この青年貴族がひざまずく光景には驚くべきものがあります。この人はほとばしるような感情に駆られてきたのです。彼は言います。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」(16節・ルカ18:18では「良い先生」「尊い先生」)。イエス様は彼に「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」(17節)と応じられました。
「良い方」という言葉は神様のためにとっておきなさい。「良い」は「善」のことです。「善」と言えば、ウェストミンスター小教理問答4問「神はいかなる方であるか。」「神は、存在と知恵と能力と聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊である。」とある通り、神のみが「善」そのものです。
主イエス様は「良い」ことをめぐって話を進めて「良い方はおひとり」と青年の目を天の神様に向けさせました。意気込んできただろう、出鼻をくじき、彼の熱情に冷や水をかけてさまそうとされたのです。主は冷静さを求められました。単に主イエス様への感情的な熱情だけではクリスチャンになれない。主を遣わされたお方を見なければならない。見るべきは天の神様である。説教し、教えるということは、いつも一人の人の人格を通して真理を伝えることを意味します。そこに、一つの危険があることに注意しなければなりません。求道者が説教者に対する個人的な愛着をもって、神様への愛着と考えてしまう。福音の真理が人格から人格を通して伝えられるので、個人的な愛着を度外視することはできません。しかしそこにとどまっていてはならないのです。教師や説教者は、ただ神への道しるべにすぎないのです。バプテスマのヨハネのように主イエス様を指さしてこの方こそ救い主というのです。このお方は、自分は天の父から遣わされてきた、と祈っておられるのです。

Ⅱ 19:17−22節
 主イエス様は神の国の本質的な真理を教えておられます。「戒めを守りなさい」(17節)。彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(18-19節)。イエスは当時の社会から尊敬される生活の基礎であった十戒を引用されました。この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」(20節)これらの言葉はうぬぼれではなくて、ユダヤ人ならちょっとまじめな人なら誰でも言う言葉です。私たちが警察のやっかいになるようなことはしていないと言うのと同じかな?使徒パウロは律法については落ち度がないと、自分のことを言っています。世間の常識として戒めを守る破るという考え方からは十分合格であると言っているのです。注意すべきはここにあげられている戒めは一つ以外は、全部否定的です。その一つは、「父と母を敬え。」です。しかし十戒の根本は神を愛し、隣人を愛することにあり、否定的なことの反対である積極的なことも同時にすすめられているのです。
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」永遠のいのちを得るためには、社会的な体面を保っているだけでは不十分であるということです。
 主はこの人に「帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」他の人たちに積極的に善をしなさい。慰め、励まし、力づける努めをどれぐらいしてきましたか。この点では彼も私たちも失敗してきました。この人は自分自身と持ち物のすべてを他の人に用いることは考えになかったのです。そこまでして永遠のいのちを得ようとは考えなかったのです。熱情的に良い先生!と呼びかけてひざまずいたのですが、そこまでするつもりはなかったのです。「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」イエス様がこのやり取りをしている状況は、これからエルサレムに向かっていって十字架につくと言う段階なのです。すべてを捨てて従うことは文字通りいのちの危険を意味しました。大変な犠牲を払います。彼は「悲しみながら立ち去った」。
 
Ⅲ 19:23-27
イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

1 弟子たちは大変驚きました。当時のユダヤ人たちは、繁栄は神様の祝福であると信じていました。繁栄は善人のしるしであると考えていたのです。財産は神に祝福されていること、人格的にもすぐれていること、愛されていることの証明でありました。ですから裕福な者が、神の国に入るのがむつかしいといわれたときに「ではだれが救われるのか?」と驚きと疑いが生じました。
 イエスは繁栄と物質的な物事の危険を見ておられました。その危険とは、物質的な所有物は人の心をこの世に固定させます。この世に大きな利害関係をもち、この世に大きな関心を持つのでそれらを越えて考えることが困難になる。
 次にもし人の主要な関心が物質的所有物であるなら、それは彼にすべてのものを価格で考えさせるようになります。価値というものがお金に換算されるという歩みは、ついにはこの世には金銭をはるかに越えた価値があるもの、価格をつけられないものが存在することを忘れさせます。
 さらに物質的所有物でその人が検査されてしまうのです。逆境に耐える人が100人いても繁栄に耐える人は一人であるといわれます。繁栄は非常にたやすく人を傲慢、高慢、自己満足、世俗的にすることができます。また人はその所有物をどのように得たのか、どのように使用したのかが、検査されるのです。多く所有するほど、どのように使用するかの責任が増えるのです。

2 いったい誰が救われるのか?
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
もし永遠のいのちを得ることがその人の努力や、律法を守ることにかかっているなら、誰一人救われないでしょう。しかし救いは神様からの賜物なのです。すべてのことは神には可能なのです。自分自身に依存するものは決して救われることがない。その財産に依存するものは、それによって救われることはない。神様の救う力と、贖いの愛を信頼する者は救いに入ります。人の力で、たとえ永遠のいのちというすばらしい目標がおかれても、地上的な富を手放す決心はつかないが、神にはその決心をつけさせ、執着心と貪欲の心を変えることができる。ピリピ3:8「私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て」(キリストのゆえに、私はすべてのものを失ったが、それらのものをふんどのように思っている。それは私がキリストをえるためである。)このような判断の仕方ができるようになるのは、神の恵みの力のおかげです。
 
Ⅳ 19:27-30
ペテロが自分や仲間と、立ち去った彼とを比べました。マタイ19:27「そのとき、ペテロはイエスに言った。『ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。』」と言いました。その結果、仲間が得られることは何かを知りたいと思いました。
主は答えられました。三つの部分に分かれています。
 答えの第一、「まず、そこでイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます』」(28節)。
 主イエスに従う者は、新しい天と地において、主とともに支配権にあずかると言う約束です。ヨハネの黙示録 20:4「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」。クリスチャンたちは主とともに治める者となる、と言う約束です。

答えの第二は、「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」
イエスのため、福音のために何かを捨てた者で、その百倍を受けない者はいない。初代の教会は文字通りそのような事柄が起こったのです。ある人にとりキリスト教は家庭、友人、愛する人たちを失うことを意味するかもしれなかったのです。しかしイエスに従うことによりずっとすぐれた大きな家族の中に導き入れられたのです。キリストの家族、神の家族に入れられて世界中どこにいてもキリストにある兄弟、姉妹、母、父、子供を得たのです。それは今の時代にも得ることのできる恵みだったのです。「捨てる」ということは否定的な面だけを意味しているのではありません。それは自分のものとしては捨てるが、イエスのために他の人のために用いていただくという、積極的意味での聖別、献納をも指しているのです。ペテロたちのようにキリストとともに旅行することのない一般信者にも、また、激しい迫害の中で田畑や屋敷を奪われることのない平和な時代の信者にもできることです。主イエスの弟子であることの損失は十分報われて余りあると言うことを示しています。永遠のいのちを受け継ぐことは地上の歩みと関連していることもわかります。
 
答えの第三は、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」
これはペテロに対する警告です。このときまでペテロは彼自身の値打ちと、彼自身の報酬とを見積もっており、それらを高く評価していたと思われます。しかし神はこの世の判決、自分自身の判断をくつがえして神の評価によって報われるのです。ペテロが自分は「先」だと思っていると「後に」なりますとの警告。ここにはすべて、誇る者への警告があります。究極的な審判は、人の心情の動機を知られるただ一人のお方、すなわち神に属しているという戒めです。それは天の審判は地上の評判をくつがえすかもしれないという戒めです。地上の価値観は、天の御国価値観とは違うのです。逆転がありうるのです。
 
結び)永遠のいのちは、自己義認や律法を守ることにより得るのではありません。私たちは神様の恵みの力により、永遠のいのちに入れられるのです。この不可能を可能とされた、主の恵みを褒め称えつつ、積極的に主に従ってゆく者でありたいものです。

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