12月20日礼拝の音声ファイルです。
ルカ2:25-30 – 安らかに死ぬことができたシメオン
クリスマスは皆さんにとってどのような季節でしょうか?クリスマスツリー。ツリーの下にあるプレゼント。家族みんなで、笑いに包まれた食卓でおいしいごはんを食べる。綺麗な雪が舞い落ちるのをながめながら、あったかいココアを飲んで、クリスマスの讃美歌を歌う。クリスマスケーキを買って、ろうそくに火をつけて、イエス様のお誕生日を祝う。この季節はあったかくて、ノスタルジックな、愛にあふれた時だと考えがちです。しかし、私の想像では、シメオンと同じようなクリスマスを過ごす人はあまりいないと思います。
本日の箇所を見ると、シメオンは赤ん坊のイエス様を見て、「ハレルヤ!感謝します!イエス様に、お目にかかることができたから、今、私はもう安らかに死ぬことができる!」と叫んだのです。毎年、クリスマスが来て、イエス様の誕生を思いめぐらすとき、あなたは「うん、そうだね。これで、私は安らかに死ぬことができる。」と思いますか?それより、他のことを思い浮かべるかもしれませんね。「うん、そうだね。キャリアの頂点にたどり着いたし、結婚もできたし、自分がやりたいことや社会に貢献したいことは全部やり尽くしたし、子供たちもみんな就職できて、彼らも結婚できたし、家族に必要なお金はもう貯金できたから、これで、私はもう安らかに死ぬことができる」と考えるかもしれません。しかし、イエス様の誕生を理由にして、安らかに死ぬ人はあまりいないと思います。
イエス様の誕生を見て、シメオンはなぜそこまで言えたのでしょうか?シメオンは「イスラエルの慰め」(25節)である「主のキリスト」(26節)を待ち望んでいたので、イエス様の誕生を見た瞬間、安らかに死ぬことができると思ったのです。それに基づいて、二つの質問を答えていきたいと思っています。①イスラエルはなぜ慰めが必要だったのでしょうか?②「主のキリスト」はどのように慰めを与えたのでしょうか?
「クリスマス」は、この二つの質問の答えでもあり、長いドラマの結末でもあります。クリスマスの話だけを切り取って話すことは、長いドラマの最終話だけを見るようなものです。毎週、ドラマを見てきた人にとって、最終話は驚きと涙に溢れた感動のお話です。しかし、見てない人にとっては、その人の驚きや涙を理解できません。最終話しか見ていないと、「このドラマつまんなそう。これを見ているあの人、泣きすぎだよね。」と結論付けてしまうかもしれません。今日、私は、私たちが聖書の世界観を心と肌で感じれられるように、クリスマスのドラマの全体像を分かち合いたいと思います。
多くの聖書学者は、「ルカの福音書はイザヤ預言書の成就がイエス様にあることを主張している」と指摘しています。つまり、ルカの福音書はイザヤ書というドラマの最終話なのです。「イスラエルの慰め」に対するシメオンのリアクションを理解するために、イザヤ書という「連続ドラマ」をまず知っておく必要があるのです。しかし、すごくよく出来ている連続ドラマや物語のように、イザヤは非常に複雑なプロット(=話し)なのです。ナルニア国物語、ロード・オブ・ザ・リング(『指輪物語』)、ハリーポッターのように、イザヤ書の中にもいくつもの「巻」があり、いろんな話が含まれているのですが、全ては繋がっているのです。そして、最後の結末ですべての話がつながり、感動の「最終話」になるのです。「インセプション」という映画を見た方もいらっしゃるかと思いますが、その映画ののように「イスラエルの慰め」であるクリスマスは「物語の中にある物語の中の、物語」なのです。クリスマスの「感動」を理解するためには、全ての物語を理解する必要があります。この説教はすこし複雑になるかもしれませんが、聖書の連続ドラマを皆さんに体験していただきたいと思いながら、メッセージを準備しました。
では、最初の質問を見ていきたいと思います。シメオンは「イスラエルの慰め」を待ち望んでいましたが、そもそも、イスラエルはなぜ「慰め」が必要だったのでしょうか?
実は、イザヤ書の後半の40-66章は、「イスラエルの慰め」を指しているのです。学者は、イザヤ書の後半を「慰めの書」と呼ぶこともあります。しかし、「慰めの書」は「イザヤ物語」の第2巻です。ある聖書学者は、もし後半が「慰めの書」であるなら、前半は「災いの書」とも言えると指摘しています。「災いの書」には、イスラエルが向き合っている「災い」が描かれていて、「慰めの書」には絶望的な立場にいるイスラエルが、神様からどのように「慰め」を頂くのかが書かれています。
「災いの書」はイスラエルの王様の話で始まり、もう一人のイスラエルの王様の話で終わります。この二人の王様の話を通して、イスラエルの王様たちは聖書の神様を裏切ると言う致命的な判断によって、目に見える、霊的な災いを引き起こしたのです。「災いの書」は古代の王様が引き起こした災いについて書かれただけではなく、現代の私たちの判断によっても、自分たちに物理的な、霊的な災いをもたらすということを私たちに忠告しているのです。
「災いの書」はアハズ王の話から始まります。今までダビデ王国は他国からの攻撃をあまり受けず、平和に過ごしていました。しかし、ダビデ王国の良き王ウジヤ王が死に、アハズ王がダビデ王国の王になった時、神様はイザヤを預言者として召されました。アハズ王はダビデ王国の歴史の中で、かなり悪い王様でした。アハズ王のダビデ王国は自分の神様を裏切り、他国の神々のために鋳物(いもの)の像を造り、青々(あおあお)と茂るあらゆる木の下で他の神様に犠牲を供え、聖書の神様が忌(い)み嫌うべき慣(なら)わしをまねて(↓↑↑)、自分の子どもたちに火の中を通らせ、生贄としてささげたのです。
ですから、預言者イザヤはアハズ王にこう語ったのです。「神様は災いを送られる。他国の戦車と軍隊はダビデ王国の首都、エルサレムを絶滅する準備をしている。ダビデ王国の城壁は崩され、ブドウ畑は焼き尽くされ、家畜はすべて殺され、イスラエルの女たちと子供たちは飢え死にする。あなたとダビデ王国は絶体絶命だ。神様は王であるあなたの従順さを試される。もしあなたが創造主の神様のみにより頼むならば、創造主の神様はあなたの先祖、ダビデ王に約束されたように、エルサレムを必ず守られる」。しかし、アハズ王はあっさりと「結構です」と答え、神様の御力を拒み、アッシリア超大国と同盟を組み、アッシリアの経済力、軍事力、そして、政治力により頼んだのです。
そして、アハズ王の致命的な判断の後で、神様は預言者イザヤを通して、恐ろしい預言と同時に、想像を絶するほどの素晴らしい預言をイスラエルに語られました。まず、神様はアハズ王の致命的な判断を聞かれ、ダビデ王国に他国の侵入とアッシリアによって裁きを下すことを預言されたのです。最終的には他国の攻撃によって、イスラエル人が何万人も殺され、奴隷にされました。ダビデ王国はアッシリア超大国に助けを求めましたが、結局、アッシリアはダビデ王国を裏切り、略奪し、滅ぼしてしまいました。つまり、イスラエルは、災いに直面したのです。
しかし、神様の預言はそれで終わりません。神様を堅く信じない人も、アハズ王のように堅く立つことは出来ないと言うこと(cf. Isa 7:9)を見せるために、神様はダビデ王国に想像を絶する預言をされました。神様は何章もかけて、世界の悪、腐敗している政府、弱者を圧制する社会を滅ぼすために、世界を制覇されることを宣言されます。つまり、神様は世界征服のために世界戦争を引き起こされるのです。それは最も恐ろしい、想像を絶する、究極の災いです。
Is. 24:1 見よ。主は地を荒れ果てさせ、その面(おもて)をくつがえして、住民を散らされる。Is. 24:2 民は祭司と等しくなり、 男奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、 買い手は売り手と、貸し手は借り手と、債権者は債務者と等しくなる。Is. 24:3 地はすっかり荒れ果て、すべてかすめ奪われる。 主がこのことばを語られたからである。
つまり、ノアの大洪水のように、神様は全世界の悪を滅ぼされるのです。もちろん、アハズ王のように、神様により頼まない者もその「悪」に含まれています。そして、神様は―当時だったらアッシリア、エジプト、バビロン、現代だったらアメリカ、中国、ヨーロッパ―超大国の権力者たちを御自分の奴隷とされるのです。
Is. 24:21 その日、主は天では天の大軍を、 地では地の王たちを罰せられる。Is. 24:22 彼らは、囚人が地下牢(ちかろう)に集められるように 集められ、 牢獄に閉じ込められ、 何年かたった後に罰せられる。Is. 24:23 月は辱めを受け、太陽も恥を見る。 万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、 栄光がその長老たちの前にあるからである。
そして、神であられるヤハウェ王はエルサレムの王として、不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君として、全世界を支配し、平和を保たれます。(cf. Isa 9:1-7) そして、興味深いことに、エルサレムの都は「強い者」のためではなく、「イスラエル」という部族のためでもなく、ただただこの王様により頼む者、この王様に従う者しか入れないのです。つまり、性別、人種、社会的地位、教育、経歴を問わず、もし聖書の神様のみにより頼むなら、あなたもエルサレムの民になるのです。ですから、この預言をとおして、神様はダビデ王国の住民、そして、世界の人々に忠告されます。
Is. 26:20 さあ、私の民よ。 あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、 ほんのしばらく身を隠せ。Is. 26:21 それは、主がまさにご自分のところから出て、 地に住む者の咎を罰せられるからだ。 地は、その上に流された血をあらわにし、 そこで殺された者たちを再びおおうことはない。
要するに、門が開いている間に、人々がエルサレムという都で身を隠すなら、神様の御怒り、神様の大洪水のような裁き、究極の災いから守られます。しかし、ノアの箱舟のように、もしエルサレムの門が閉じてしまったら、そして、もし人々がエルサレムの門の「外」にいるなら、手遅れになってしまうのです。
そして、このような預言が長々と続く中で、「災いの書」の最終話は、ダビデ王国の王様、へゼキヤ王の話で終わります。この想像を絶する預言の後に、神様は「アハズ王のような判断をするな!」とダビデ王国に忠告されるのです。「アッシリア、エジプト、バビロンのような超大国の都を選ぶな。神の都、シオンを選びなさい。その都の礎は世界を創造した神だ。これは試みを経た石、 堅く据えられた礎の、尊い要石。 これに信頼する者は慌(あわ)てふためくことがない。(Cf. Isa 26:16-18)」と神様は語られました。
しかし、38章もかけて神様の偉大さ、揺るがないシオンの礎の強さを強調されたあと、ダビデ王国はどう判断するのでしょう。ダビデ王国のへゼキヤ王はどの都を選んだでしょうか?「災いの書」なので、もちろん、災いで終わります。
へゼキヤ王は、こんなにも素晴らしい約束と預言を頂いたのに、アハズ王と全く同じことをしました。へゼキヤ王はアッシリア超大国の軍事力に囲まれ、パニックに陥り、エルサレムの礎である神様のみにより頼まず、もう一つの超大国に助けを求め、バビロンという都を選んでしまいました。そして、アハズ王の結末と全く同じように、バビロンがダビデ王国を裏切り、奴隷にし、神様がイスラエルを裁くと言うことをイザヤは預言しました。しかし、最悪なことに、それを聞いたへゼキヤ王がなんと言ったと思いますか?これが「災いの書」の最後の一節です。
Is. 39:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである。
これが神の民であるイスラエルの災いでした。彼らの王はいつも聖書の神様により頼まず、自己中心的に王国を治め、ダビデ王国を神様の裁きと超大国の圧政の道に導いてしまったのです。へゼキヤ王の判断によって、イスラエルは絶体絶命的な状況に置かれました。結局、エルサレムはバビロンに侵入され、全てを略奪され、約束の地から取り去られ、イスラエル人が選んだ都、バビロンに捕虜として連れていかれたのです。彼らには何もありませんでした。何の希望もなかったし、何の慰めもなかったのです。ただ神様の裁きという暗闇に包まれたのです。これが「災いの書」の結末です。
しかし、感謝なことに、イザヤ書はそこで終わりません。40:1で「「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。 ──あなたがたの神は仰せられる──」と「慰めの書」が始まり、輝かしい慰めの希望が、暗闇をすべて消し去ります。そして、イザヤ40章から66章は私たちの2番目の質問に答えます。「主のキリスト」はどのように慰めを与えられたのでしょうか?
ルカ2章の話に戻りますが、シメオンが「主のキリスト」を待ち望んでいたことは非常に興味深いことです。「キリスト」はイエス様の苗字ではありません。「キリスト」という意味は「油注がれた者」という意味なのです。神様が選ばられたしもべであり、御自分の油のような「霊」を注がれたイスラエルの王という意味でもあります。イザヤ40-66章では、謎の「主のしもべ」が現れますが、この「しもべ」がイスラエルに神様の慰めを与える人物なのです。つまり、シメオンは抽象的な「慰め」を待ち望んではいませんでした。シメオンは「慰め」を与える「主のキリスト」を待っていたのです。
「慰めの書」の趣旨は「主のしもべ」の三つの働きを描くことなのです。一つ目の働きは、世界平和をもたらす王様の働きです。この主のしもべは、アハズ王とへゼキヤ王と違い、神様のみにより頼み、神様のみに従うダビデ王国の王様なのです。世界を制覇し、全ての国々を一つの王国に統一し、謙虚に正義と平和を保つ王国を建てられる王様が、この「主のキリスト」です。
Is. 42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、 わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、 彼は国々にさばきを行う。Is. 42:2 彼は叫ばず、言い争わず、 通(とお)りでその声を聞かせない。Is. 42:3 傷んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯(とうしん)を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。Is. 42:4 衰(おとろ)えず、くじけることなく、 ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」
そして、この王様はアハズ王やへゼキヤ王と違って、どんな試練であっても、どんなに迫害されても、どんなに弱々しく見えても、どんなに敵が強くても、神様だけに従う王様です。
Is. 50:5 神である主は私の耳を開いてくださった。 私は逆らわず、うしろに退(しりぞ)きもせず、Is. 50:6 打つ者に背中を任せ、 ひげを抜く者に頬を任せ、 侮辱(ぶじょく)されても、唾をかけられても、 顔を隠さなかった。Is. 50:7 しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱(↓↑↑)されることがない。それゆえ、私は顔を火打石(ひうちいし)のようにして 自分が恥を見ないことを知っている。Is. 50:8 私を義とする方(かた)が近くにいてくださる。 だれが私と争うのか。 さあ、ともに立とう。 だれが私をさばく者となるのか。 私のところに出て来るがよい。見よ。神である主が私を助けてくださる。 だれが私を不義に定めるのか。 見よ。彼らはみな衣のように古(ふる)び、 シミが彼らを食い尽くす。
この「主のキリスト」は、私たちを義をもって導いてくださる王様だけではありません。二つ目の「主のキリストとしての働き」は、民の罪を「きよめる」働きです。この「主のキリスト」は私たちの罪の汚れをきよめ、私たちの罰である神様の御怒りを背負ってくださいます。私たちが神の都に入るには、神様に値する「義」が必要ですし、私達は罪の汚れをもって入ることはできません。しかし、「主のキリスト」はその問題を解決してくださいます。
Is. 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を「主のキリスト」に負わせた。Is. 53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。Is. 53:8 虐(しいた)げとさばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことか。 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
つまり、「主のキリスト」の犠牲によって、彼により頼む者はみな神の都に入ることができるのです。飢え渇いている者、弱い者、お金のない者、疲れている者、汚れている者、みな、神の都であるエルサレムに入ることができるのです。それは彼らが何かいいことしたからではなく、「主のキリスト」が、神様が愛しておられる、従順なダビデの子孫であるからなのです。(Cf. Isa. 55:1-3)
そして、最後の「主のキリスト」としての働きはイスラエルの嘆きを喜びに変える慰め主の働きなのです。この「主のキリスト」が来られるときに、「主のキリスト」はこう語られます。
Is. 61:1 神である主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放(しゃくほう)を告げ、Is. 61:2 主の恵みの年、 われらの神の復讐の日を告げ、 すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。Is. 61:3シオンの嘆き悲しむ者たちに、 灰の代わりに頭の飾りを、 嘆きの代わりに喜びの油を、憂(うれ)いの心の代わりに賛美の外套(がいとう)を着けさせるために。彼らは、義の樫(かし)の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。
出エジプトと同じように、この「主のキリスト」は神の民を圧制するものを倒し、今まで苦しんできた御自分の民をエルサレムに引き寄せ、全てを新しく創造されます。そして、「主のキリスト」はイザヤ書の最後にこのようにを宣言されます。
Is. 65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 先のことは思い出されず、心に上ることもない。Is. 65:18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。Is. 65:19 わたしはエルサレムを喜び、 わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
捕虜としてバビロンへ向かっていた時、ダビデ王国がバビロンによって壊滅されたときに、この想像を絶する希望の預言がイスラエル人に与えられたのです。「これは素晴らしい預言だ!主のキリストを待ち望もう!」と信じた人たちもいました。しかし、年月が経つと、この絶望的な状況が続きました。イスラエル人はバビロンからイスラエルに戻ることもできましたし、神殿を再建する事はできましたが、ダビデ王国の再建、そして、世界制覇し平和と正義をもたらすはずの「主のキリスト」が現れるきざしもありませんでした。イスラエルはいつも超大国の配下に置かれていました。民の罪をきよめてくださる「主のキリスト」もいませんでしたし、民の嘆きを喜びに変えてくださる「主のキリスト」もいませんでした。神の民は600年も待ち続けました。もしイエス様が2020年に生まれてたら、室町時代から待ち続けたということです。バビロン王国の後に、イスラエルはペルシア王国の配下になり、そのあとは、ギリシャ帝国になり、そして、そのあとはローマ帝国の配下になりました。苦しみ、暗闇、涙の日々が何年も過ぎる中で、イスラエルの民はこのように疑問を持っていたのでしょう。
「『主のキリスト』は本当に来るのだろうか?そんなおとぎ話なんて待っていられない。私達が抱えている苦しみにはもう耐えられない。神様の慰めなんか待っていられない。他の慰めのほうがいい。」と考え始めたんじゃないかと思います。
そして、イエス様が誕生された時に、「イスラエルの慰め」である「主のキリスト」を待ち望んでいた人たちはたった二人でした。シメオンとアンナだけでした。そして、シメオンは「イスラエルの慰め」を待ち望みながら、いつも通り神殿へ礼拝しに行きました。行き交う(いきかう)イスラエル人達はささやきます。「あのシメオンは、本当に可哀そうだよな。毎日、自分の苦しみが慰められるように「主のキリスト」が来るのを祈ってるけど見てられない。本当にあわれだよ。」シメオンはそんな陰口を聞いても、毎日、同じようにためらう事なく神殿へ向かいます。
しかし、ある日、シメオンが神殿に入ると、いきなり聖霊様がシメオンにささやきます。「あの方が来られたよ。」シメオンの鳥肌が立ちます。慌ただしい群衆の中で、立ち止まっているのは、シメオンだけです。何年も我慢し続けた痛みが、シメオンの胸の中に沸き上がります。なぜか涙が止まりません。そして、聖霊様がまた小声でささやきます。「あの赤ちゃんだよ。」シメオンは若い女性が抱いていた赤ちゃんの所に走り寄り幼子を腕に抱き、神様をほめたたえて言いました。
Luke 2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。Luke 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。」
シメオンの中にどういう悩み、どういう苦しみ、どういう心配、どういう痛みが潜んでいたかは、私達には全くわかりません。しかし、確実に言えることは、その瞬間からシメオンは安らかに死ぬことができたと言うことです。なぜなら、イスラエルが何百年も待ち続けた「慰め主である主のキリスト」が来られたからです。シメオンは、人間の判断が引き起こした神の災いのただ中にいたとしても、「主のキリスト」が自分を救ってくださることを信じていたのです。この時点で、どのように救いが与えられたのかはわかりませんが、シメオンにとって、確実に言えることが三つありました。このイエス様が、悪を完全に滅ぼし、この世界に平安を与えること。このイエス様が自分の罪をきよめ、神の都であるエルサレムに導いてくれること。そして、シメオンの嘆きを喜びの歌声に変えてくれること。それは、自分の目の前に、待ち望んでいた赤ちゃんがいると言うことによって、必ず果たされることがわかったのです。絶対に正しい裁きは来る。絶対に赦しがある。そして、絶対に慰めが与えられる。
私達もシメオンと同じようにクリスマスを過ごしているでしょうか?毎年、どんなに暗いところに置かれても、イエス様のお誕生を見て、「主のキリスト」がなさることを思い出し、ワクワクしながらイエス様の再臨を待ち望んでいるでしょうか?私たちが置かれている暗くて、絶望的な状況から目を離し、私たちの慰め主、イエス・キリストを仰ぎ見ましょう。お祈りします。