11月15日礼拝の音声ファイルです。
2020年11月15日 礼拝式順
前 奏
招きの言葉 ペテロの手紙第一 2章13-14節
さ ん び ほむべきかな主の御名
さ ん び 主は栄光
開会の祈り
主 の 祈り
教会主事就職式
教会福音讃美歌 6番 父なる神様
聖 書 朗 読 マタイの福音書 22章15-22節
聖 書 の 話 「神のものは神に」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 351番 主のことばの光のうち
献 金
報 告
とりなしの祈り
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2020.11.15 「神のものは神に」マタイの福音書 22:15-22
序文)主イエス様が地上におられたときに、公の伝道ご生涯において、常に敵対したグループがいました。パリサイ人、サドカイ人、律法学者、祭司長たち、といわれています。先に、主イエス様が、彼らに対して、ぶどう園の主人のたとえ話をして挑戦されたことを学びました。天の父が遣わした息子イエス・キリストを殺すという預言的な挑戦でした。これで彼らは、ますます何とかしてイエス・キリストを捕らえてローマの官憲の手に引き渡し、有罪さらには十字架刑をもくろもうとして捕らえる機会を狙っていました。
そのため、彼らは、ついに義人をよそおった間者(スパイ)を送り出し、イエス様に「税金をめぐる」問答を仕掛け、イエスの反ローマ帝国発言を得て、言葉尻を捉えようとしました。「カエサルに税金をおさめることは、律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか」という問いかけです。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちを代理人として監督している総督と、ユダヤ人当局者、その間にイエス様を立たせて、陥れようとする作戦でした。この論争の主眼点は、あくまでも「税金」にあったのではなく、イエス様の言葉尻を捉えることに目的がありました。「税金云々」は「罠」だったのです。
Ⅰ なぜ、この質問が「罠」なのでしょうか。背景がわかると理解できます。
ローマ帝国は領土を治めるのに二種類の方法をもちいました。まず、直轄地として地方長官をおき、軍隊を駐留させて治めるのです。反乱の危険がある支配国ですね。第二は、軍隊を必要としないものは、支配下にある国の議会によって治め、行政長官によって支配するのです。ユダヤは第一の種類で、直轄地だったのです。その税金は直接皇帝に納めさせました。賦課税は三種類あって、地租、所得税、人頭税でした。ここで論じられているのは、人頭税のことでした。14才から65才の男子と、12才から65才の女子はすべて一人一デナリ(一日の労賃)を納めなければなりませんでした。一デナリの銀貨には皇帝の肖像があり、貨幣の周囲に、これは「アウグストの子聖なるアウグスト・デベリウス・カエサル」の貨幣であると宣言した称号が入れてありました。貨幣は古代社会で権力の象徴でした。国を征服したり、むほんに成功したりしたときは、誰でも、最初に自分の肖像の貨幣を発行しました。またその貨幣の通用するところでは、よく主権が維持されていました。貨幣には王の肖像と銘刻があったので、それは王の所有物とも考えられていました。
律法学者、祭司長たちは、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちを間者として用いたと考えられます(マルコ福音書12:13)。パリサイ人たちは神の民であるイスラエル人が、ローマの支配下にあることを認めたくない人々でした。当然、ローマに税金を納めることを潔しとしない信者たちでした。ローマの地方総督に対しては、野党的な存在だったのです。いわば、納税反対論者でした。一方ヘロデ党は、ユダヤの名門ハスモニア家の血筋をもってヘロデ家を何とかしてもり立てようと画策していました。ローマ帝国に直轄されたのが残念で、かつてのヘロデ大王の領土のように自由にしたいと願っていました。しかし、当面はローマ帝国に取り入って忠誠を尽くし、カエサルに税金を納め、良く思ってもらおうとしていました。納税賛成論者だったのです。
昔も今も変わらない神に刃向かう者たちの行動様式が、ここではっきりとわかります。彼らはイエス様に問いました。「彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。『先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか』」(16-17節)。
イエス様がカエサルに税金を納めるのに賛成したら、パリサイ人たちは一般民衆の国民感情からみて、メシヤとして尊敬されなくなる。民衆の意向に反する者、裏切り者、臆病者ということになる。神の民が異邦人ローマに隷属することに賛成したというわけです。
もし、イエス様が納税に反対したならばヘロデ党はローマ総督に反逆罪をもって捕まえるように訴えることができるのです。総督の支配と権威に引き渡すことができました。どちらにしても無事にはすまないのです。
Ⅱ イエス様の答え 「21節」
「カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」この答えは納税を勧めています。義務として、カエサルのものはカエサルに返しなさい。積極的納税推進です。今、治めている統治者に従うようにというのです。カエサルの貨幣がユダヤ人の間で流通している以上は、ユダヤ人もカエサルの権威の元にローマとの平和と秩序を享受しているのです。ですから当然義務も果たさなければなりません。
「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」(第一ペテロ2:13-14)。ペテロも「主のゆえに」従いなさいと教えています。この意味で、私たちも時の政府に従って税金を納めなければなりません。国家は神により制定されたのです。「神は一人の人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました」(使徒17:26)。 地上の国家は、神の権威と力と知恵とをもって治められるのです。時代と境界に特徴づけられる「秩序ある社会」が、神のご支配によって存在しているのです。私たちの生活の場所が、秩序あるものであることは、神のみむねなのです。天の国籍があるからといって、この地上にいかされている秩序を無視したり、侮ったりしてはいけません。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」(ローマ13:1)なのですから。国家に従うことで、神の権威に服しているのです。
しかし、国家には神が立てられた使命があります。立場があり、分限もはっきりとしています。国家は神のしもべなのです。「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:4)。合法的に処罰し、正義と秩序を守る権威を持っています。
クリスチャンは、主のゆえに国家が神のしもべとしての役割を果たす限りは従います。社会正義を守り、神に立てられたものとして秩序ある社会を維持する使命を地上の国家は持っています。納税はこの点で市民の義務なのです。
ついでながら、国家の存在目的は何なのかというと、使徒17:27「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」と示されています。「神を求めさせるため」国家は秩序ある社会なのです。ですから、国がその仕えている国民に対して、益をもたらし、神を求めることのできる外的環境を整え、提供する使命を、神のしもべとしてもっているのです。この限りは「カエサルのものはカエサルへ」なのです。
Ⅲ 神のものは神に返しなさい
A 1 国家が神のしもべとして、その分限を守る限り、その存在に従います。そこには当然「神のものは神に返しなさい」という分野があるのです。これはヘロデ党が忘れていたことでした。人生には、神に所属し、カエサルに所属しない領域があるのです。神の所有になるものを、神に返すという客観的な根拠があって、それはこちらが認めるとか認めないとかいう問題ではないのです。信じるか信じないか、自由にするか、自由にしないかという問題でもないのです。そういうことのできない領域があるのです。
神ご自身に直接結びつく、神の所有権、支配権のもとにあり、人は神に返す義務があるのです。そのような人生があるのです。カエサルのものは強制的に徴税してきますが、神のものは強制的に返せと言われないのです。ですから、神のものを神に返すには、真剣に人生を反省して自分のものと思っている人生全般に、神の記号が刻まれた「神のもの」があり、それはどれなのかを問い、返さなければなりません。
2 創世記 1:26-27 人は神のかたちに創造されたのです。それ故に神に属するという人格そのものが、神に返されなければなりません。神を信じる人生に立ち返ることが第一です。このことは完納ということがありません。いつも不足があります。不正申告があり、脱税があるのです。
3 週の初めの日は「主の日」です。「主のものである日」6日の間は働いてもよいのですが、残り一日は神のものです。礼拝を守り、奉仕と慈善に用いることは、旧約聖書、新約聖書を通じて一貫して定められています。
4 旧約聖書について十分の一を直接しるしているところ。
①創世記 14:20 アブラハムがメルキゼデクにすべての物の十分の一を贈った
②創世記 28:22 ヤコブがベテルで神の使いのはしごを登り降りするのを見た後で、神に十分の一を捧げると言った。
③レビ27:30-33 地の産物の十分の一、家畜の十番目ごとに主のもの
④民数18:21-29 ⑤申命12:5-7,15-19 ⑥申命14:22,28, ⑦申命26:12
⑧サムエル第一8:10-15 ⑨ネヘミヤ10:32-37 ⑩アモス4:4 ⑪マラキ3:8-10
B モーセ五書に見られる十分の一献納の目的、理解
1 神への感謝のささげものであるばかりではなく、元来、最良のものは神に属する、初穂は神のものである、という思想。
2 カナンで土地の分配に預からず、もっぱら神の事柄に奉仕し、また民の教導に当たるレビ人は、他の支族からその十分の一を受けることにより生活が保証された。
3 レビ人のみでなく、収入のない貧民に対する慈善的な意味
神を愛し、隣人を愛することが捧げ物の精神である。ヤコブの子らはこの点で長く神に対して罪を犯してきた。マラキ書3:8-10 「人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」
3:9節 神ののろいを受けて、彼らは今、貧窮に陥っている。3:10節 呪いを去り、祝福を受けるようにとの勧告。命令と言うよりも愛に満ちた勧告である。神様が民にチャレンジしている。神に対して、真実をせよ。そうしたら神は真実を持って答える。3:11-12節 「わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。」土地の作物は豊かになり、虫はつかず、祝福は満ちる。ゼカリヤ8:13「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」
C 以上から 現代に適用する原則
1 神に対して真実に答える者は、神から真実を受ける。
2 もし神が、天の窓を開きあふれるばかり祝福を注いでくださるのなら、事実そうであるが、私たちは、私たちの窓を開き神にこたえなければならない。
3 例:神への捧げ物において盗んでいるならば、教会は霊的な貧困に陥る。祈りをけちけちしたり、伝道をけちけちしたり、礼拝を守るのをけちけちしたり、献金もけちけちしたりする。霊的祝福に与れない。
十分の一は捧げ物のすべてではなくて、多くの種類のささげものの一種類に過ぎない。新約時代の教会はすべてのものが神の所有であるという自覚の中でささげている。神は形式よりも精神と信仰を求められるから、その額や割合の多さで祝福されるわけではない。常に全力で霊的に主におこたえすることが目標となります。
十分の一を制度と考えると、教会そのものが聖霊のみわざであることが忘れられ、単なる経営事業となります。これは誤りです。献金を感謝のしるしということだけで自発的献金に任せると、教会そのものも信徒の自発的任意団体と理解する誤りに陥ります。キリストが神の国を、みことばと御霊とで建設することを願われたのであり、そのために、教会のかしらであり、王である主が、教会に教役者をはじめ、それぞれ役員を任命して、これを司らせておられるのであれば、キリストは信徒たちに献金を義務づけたもうことも当然でしょう。霊的に、信仰の実践をすすめる程度に応じて、円満健全な成長がおこり、主の恵みも増し加わります。
結び)神は全地の主権者です。創造者であり、救い主です。本来的には一切は、神から出て、神によってなり、神に帰るのです。主イエス・キリスト様の答えはこのことをはっきりと教えています。私たちも、「カエサルのものはカエサルに返し」「神のものは神に返し」て、祝福された地上人生を全うし、永遠の御国に入れていただきましょう。