11月22日礼拝の音声ファイルです。
2020年11月22日礼拝式順
前 奏
招きの言葉 ヨハネの福音書 11章 25-27節
さ ん び 主はわが力
さ ん び 恐れることはない
開会の祈り
主 の 祈り
教会福音讃美歌 435番 道なき砂漠を
聖書朗読 ヨシュア記 3章 1-6節
聖書の話「『死』のヨルダン川をどう渡るか?: 私たちが死と直面するとき」 マーク ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 335番 はるかに仰ぎ見る
献 金
報 告
とりなしの祈り
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2020.11.22ヨシュア3:1-6「『死』のヨルダン川をどうわたるか?:私たちが死と直面するとき」
クリスチャンとクリスチャンではない方の会話をちょっと想像してみてください。
ノンクリスチャン:キリスト教の一番いいところは何ですか?
クリスチャン:TOP3は天で永遠のいのちを頂くこと。痛みもなく、悲しみもなく、罪もない、そして、汚れのない新しい体を頂くことです。そして、神様との親密な関係を永遠に喜べることです。
ノンクリスチャン:お~!いいですね!ではキリストを信じたら、すぐに神様からその恵みを頂くことできるんですか?
クリスチャン:うーん。そうでもないです。永遠のいのちは死んだあとで。新しいからだは、痛み、悲しみ、罪、そして、悪に満ちた世界で人生を送った後で。そして、神様との関係は、この世の壊れた関係と孤独を味わったあとに頂けます。
ノンクリスチャン:キリスト教の一番いいところを経験するために、人生の最もつらくて、苦しいところをまず通る必要があるということですか?!
クリスチャン:そうなんです。クリスチャンが死ぬときは、ある意味、いのちに満ちた人生の始まりなのです。
ノンクリスチャン:人生の色んな苦しみを体験して死んでも、それが間違ってたら、大損じゃないですか!死のあとに、永遠に幸せないのちが待っていると言う保証はあるんですか?本当に何も疑わずに信じることができるんですか?
クリスチャンでも同じような疑問を持っておられるかもしれません。神様の約束の偉大さと力強さは信じていますが、自分が今まで通ってきた試練の苦しみを思い出したり、無謀で、むなしい人生と、今まで経験したはかない喜びを思い返したり、容赦なくすべてを破壊する「死」と直面する時、心の底に潜んでいた疑問が泡のように沸き起こる事はないでしょうか?「このままこの道に進んでもいいのだろうか?最悪の現象である「死」が「永遠のいのち」の始まりであることをクリスチャンとして本当に信じていいのだろうか?ただただ自分に言い聞かせているだけの妄想にすぎないのではないだろうか?」
今日私が皆さんと一緒に考えていきたいのは、よくビジネスで使われる表現なのですが:「終わりを思い描くことから始める」。つまり、もし私たちが向かっている「終わり」としっかりと向き合うことができないのであれば、何かを始めることもできないし、『今』を楽しむこともできないということです。『死』を思い描いて、『死』というものを自分で理解しない限り、ある意味、自分の「人生」は始まらないのです。『終活』をするなら、それは引退した後でやることではなく、人生のはじめから思い描く必要があるのです。ですから、皆さんにお聞きしますが、「あなたは『死』と死から来る「苦しみ」に対して、今後どのように向き合いますか?」この世の楽しみや恋愛をする事で、あなたはただ『死』から逃げるのでしょうか?仕事、家事、学校や日々の忙しさで、ただ『死』を無視するのでしょうか?健康、美、成功、家族、キャリア、退職後のプランなどを使って、ただ『死』を自分の力でコントロールしようとしますか?または、何もせずにただ自分と自分が愛する人たちが『死』に飲み込まれることを半分あきらめながら受け入れるのでしょうか?『死』に対する考え方が何であろうと、その答えによって私たちの「生き方」が決まると思います。
今日のこの箇所には、神様の民がその質問にどのように向き合い、どう答えたかが書かれています。
その前に、神様の民がどのような状況にいたかをまず思い出してみましょう。
この時点では、神の民の最終目的地、約束の地は彼らの目の前でした。その地は、彼らの祖父であるアブラハムに約500年前に約束された地でした。神様はこの約束の地は「乳と蜜にあふれている地」だと描写されたので、「幸せ」があふれているところのはずでした。しかし、約束されて以来、アブラハムの家族と彼の子孫は何十年も大変な寄留生活を送らされました。そのあとも、彼らはエジプトの奴隷制度のもとで何年間も耐え続けなければなりませんでした。しかも、エジプトから脱出した後、40年間も神の民は荒野をさまよい続けたのです。「命と幸せ」の約束の地への道は、まるで「死と苦しみ」の道を歩むような事でした。しかし、ようやく神の民は約束の地へたどり着き、約500年も持ち続けたものを目の前にしたのです。彼らは言葉に表現できないほど喜びを感じたと思います。
しかし、約束の地が目の前にあったにも関わらず、約束の地に住み「幸せな生活」を送るまでには、いくつかの大きな壁を乗り越える必要があったのです。まずは、ヨルダン川をわたる必要がありました。今のヨルダン川は小川のような川ですが、当時は、ダムなどもなかったのでヨルダン川は約800メートルもの幅がありました。例えると、800mは教会からバレンタイン通りに沿って、京葉線の線路まで15分歩くほどの距離です。教会から線路までの全てが川となる事を想像してみてください。また、この時代は橋もあまりなく、大きな船を安く作る技術もなく、神の民が子供と女性も含め100万人もいて、彼らの荷物と自分たちの家畜もつれて、ヨルダン川をわたって敵の陣地に侵入するなどと言うことは自殺行為に近いことでした。その上に、彼らにはヨルダン川をわたったとしても、約束の地にすでに住んでいる王国を倒し、自分たちの王国を建てながら、自分の家族と財産を守る軍事力もなかったのです。たとえ、それらの王国に宣戦布告したとしても負けてしまったら、ヨルダン川をもう一度わたって撤退することもできなかったのです。つまり、神様の約束を信じることが間違いだとしたら、殺されるか、また他国の奴隷になる将来しかなかったのです。つまり、イスラエルにとって、「いのち」の約束の地を選ぶことは「死」の道を選ぶことでした。そして、ヨルダン川をわたることは後戻り出来ない、究極の決断だったのです。約束の地を得るために、彼らはどのように『死』と向き合ったのでしょうか?
『死』と直面するとき、まずクリスチャンは自分の王様である神様を待ちます。
この箇所から神の民の強い信仰と従順が見られるので、その模範から学びたいと思います。彼らの模範を理解するために、神の民の過去の不信仰と不従順から学ぶ必要があります。『死』または『自分の幸せを失うような試練』に直面したとき、神の民は、大きく言えば、二種類の間違った反応をしました。それは①パニックによる反応と、②盲目的な情熱による反応です。
まず、一つ目の反応―パニックによる反応―を理解するために、出エジプト14章の例を思い出してみましょう。この場面は、本日の箇所と非常に似ています。神の民はエジプトの奴隷制度から脱出して約束の地へ向かっている途中です。彼らは海の側で休んでいました(出エジ14:1)。彼らは「死」のエジプトから「命」の約束の地への道筋を歩んでいました。しかし、ファラオはまた神の民を奴隷にしようと考えてエジプト軍を送ったのです。神の民は、約束の地を獲得するための死神のような存在であったファラオとまた直面することになったのです。そのとき、神の民はどのような反応をしたでしょうか?
Ex. 14:10 ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。Ex. 14:11 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。Ex. 14:12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
つまり、神様が十の災いによってファラオを撃破したにもかかわらず、神の民はパニックに陥ったのです。しかも、「死」を恐れすぎて、神様を裏切って、ファラオに寝返ることさえも望んだのです。
もう一つは盲目的な情熱による反応です。それを理解するために、申命記1:41-44を見ていきたいと思います。ヨシュア3章と似た箇所です。神の民はヨルダン川をわたる直前でした。しかし、約束の地にいる敵王国を見て、またパニックに陥り、また神様を裏切ったのです。神様はその裏切りの罰として、約束の地を40年後に与えると宣言され、約束の地ではなく、Uターンして荒野にまた戻るよう命じられました。しかし、神の民は自分たちのパニック反応を反省し、全く逆の反応をしたのです。
Deut. 1:41 すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に対して罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って戦おう。」そして、それぞれ武具を身に帯びて、無謀にも山地に上って行こうとした。Deut. 1:42 主は私に言われた。「彼らに言え。『上って行ってはならない。戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」Deut. 1:43 私があなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞かず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に上って行った。Deut. 1:44 するとその山地に住んでいたアモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が襲うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルで打ち破り、ホルマにまで及んだ。
本当に面白い反応です。神様は「Uターンしなさい」と命令されたのに、神の民は約束の地に向かって、「約束の地に突入だ~!」と約束の地へ突進して行ったのです。それは、神様に先立って行動するという、盲目的情熱による行為でした。「神様の御意志は関係ない、情熱があれば何とか目の前の壁を乗り越えることができる!頑張ればなんとかなる!」という考え方なのです。
『死』や『自分の幸せを失うような試練』を通るとき、私達もこのような反応をしないでしょうか?クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであってもこの二つの反応は私たちの大半の反応を表していると思います。
しかし、この二つの過ちを犯してきた神の民は「第三」の道を選びました。それは自分の王様である神様を待ち、準備して、期待することです。1-6節によると、『死』と直面したとき、彼らは積極的に神様を待ち望んでいました。1-2節をみると、彼らは出エジプト記14章のようにパニックに陥ってはいません。そして、神様にも、御計画に対して何も訴えませんでしたし、ぶつぶつと苦情や不満をヨシュアにも言いませんでした。「死」のヨルダン川と「いのち」の約束の地を眺めながら、数日間、期待をもって王である神様を待ち望みました。そして、3-5節をみると、盲目的な情熱で、神様に先立ってヨルダン川を渡ろうともしませんでしたし、約束の地を自分たちの力で獲得しようともしませんでした。
そのとき、神の民のリーダーたちは民に何を命令しましたと思いますか?
3節「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。」
またまた面白い命令だと思います。「期待をもって、神様が行動されるのを待って、神様の後に従って進みましょう」ということでした。彼らはいつ神様が行動されるのかまったくわかりません。しかし、今まで何百年も彼らを見捨てずに神様が共に歩んでくださったので、いつか行動されることを知っていました。ですから、「何があっても、自分たちの理想の計画とはちがっていても、その時のために準備し、期待しましょう。」と決心して、神様を待ったと思います。彼らが自分の王様である神様を待ち、準備して、期待することができた理由は、神様の御臨在と御業を具体的に思い出したからです。「神様の御臨在」はイメージや感覚的なものではありません。そして、「神様の御業」は自分たちの理想やまたは願いが与えられることでもありません。神の民にとって、神様の御臨在は現実的なものであり、神様の御業は歴史上の具体的な事実なのです。
どのように神様の御臨在と御業を思い出したのでしょうか?3節に神の民のリーダーは「主の契約の箱を見なさい」と命令しました。「主の契約の箱」というのは、神様の御臨在のシンボルなのです。他の箇所を見ると、「主の契約の箱」は、神様の偶像ではなく、「王様の王座」を表す、「神の足台」なのです。神の民の王様または将軍は神様であることを強調しています。契約の箱が40年間も神の民と共に一緒に荒野で寄留することによって、「どんなに辛い試練のときでも、王様であられる神様は、遠いところから命令を下されているのではなく、神の民と共に一緒におられる」と神の民の心に刻まれたのです。ですから、3節の命令は、神様が40年間も神の民とともに歩まれたこととその歴史を具体的に思い出させたかったのです。その一つ一つの出来事を思い出すことによって、神様の御臨在を思い出しました。
そして、神様が御業を成されることを忘れないように、神様は私たちにこのような命令をしました。「ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」二千キュビトは約800メートルです。繰り返しになりますが、バレンタイン通りに沿って、教会から京葉線の線路までの距離です。ですから、神様に先立って何事かをなすような事はほぼ不可能でした。神様が常に私たちの「前」におられ、私たちを導いてくださっていることを忘れさせないようにしたのです。「あなたがたは行くべき道も知らないし、あなたがたは自分勝手に行動してしまう傾向がある。自分たちで行動するのではなく、何があってもあなたの王である私の後を進みなさい。あなたが道を作るのではなく、私が道を用意する」と神様は注意してくださっているのです。つまり、神様は私たちのような罪深い、自己中心な、汚れた人間と共に歩まれ、積極的に私たちのために神様は何かをされていることを思い出せたのです。繰り返しになりますが、彼らが自分の王様である神様を待ち、準備して、期待することができた理由は、神様の御臨在と御業を具体的に思い出したからです。
この数節で、キリスト教と他の世界観の『死』との向き合い方の違いがすぐにわかります。死に直面するとき、クリスチャンでも、ノンクリスチャンでも、恐れに縛られるパニックや死に突進するような盲目的情熱の根っこは同じです。それは、神様の御臨在と御業を否定して、「私たちは最終的には一人で『死』と向き合うしかない」という強い思いなのです。これはどういうことでしょうか?
私たちがパニックに陥るときは、私たちは死に直面したとき自分一人しかいないと感じるときかもしれません。そして、自分の孤独感、自分の無力さをますます自覚するとき、恐れが沸き上がり、パニックになってしまいます。神様がおられるのに、私たちは自分一人で向き合おうとしてしまうのです。そして、盲目的な情熱で行動するときは全く反対の反応に思えますが、実は、同じ思いが潜んでいるのです。神様がおられるのに、私たちは死に直面するとき、自分の力で死に立ち向かおうとします。どちらの反応も神様の御臨在と御業を否定し、その戦いを自分一人でしなければならないという強い思いから来るものなのです。
そのように『死』または『人生』に向き合うことは、非常に孤独な人生ではないでしょうか。人は望んでいる学生生活、恋愛、結婚、キャリア、幸せな家族、心地いい引退、そして、最終的に「美しい死に方」を獲得したいと思っているかもしれませんが、自分一人の力でそれを全部制覇できるという確信はどこにあるのでしょうか?
しかし、キリスト教は全く違って、三つ目の道が開かれます。その理由は私たちの王様は、私たちとともにおられ、ただ応援して下さるだけではなく、私たちに先立たれ、道を用意してくださった神様だからです。クリスチャンとして、私たちは本当にこのような神様が実際におられるということを信じているでしょうか?試練や「死」と向き合う時に、目の前に神様がおられるのに、パニックに陥ったり盲目的な情熱で進んでしまうことは、神様の御臨在を否定していることになるのです。神の民は何回もその罪を犯し続けて学んだので、ヨルダン川をわたるとき、「たとえ死への道であっても、神様は私たちを絶対に見捨てない。死の向こう側に「いのち」が待っている。」と確信する事ができたのです。そして、非常に興味深いのは、神様がどのようなことをなされるのか、また、どのような道を開かれるのかを一切、民に説明されなかった事です。しかし、具体的な説明がなくても、神の民は、『死』のヨルダン川を眺めながら、自分たちの王である神様を待ち、準備して、期待することができたのです。
カルヴァンはこの箇所から、私たちの信仰の応答をまとめています。「信仰は、好き勝手に主がなされることを伺うのではなく、主が宣言された約束にすこしも抵抗せず、自分の心配を全て主の摂理に委ねることです。私たちがより頼むことができる神の力には限界がないと知った上で、私たちはこの世の心配に縛られず、自分の理性で理解できないことを信仰によって受け入れます。」
しかし、自分の理性で理解できないものを信じることは盲目な信仰でしょうか?いいえ、とんでもないです。もし泳ぎ方も知らない、初めて海に入る子どもが、「おまえに先立って、一緒に海に入るから、安心しなさい」と 自分の親に言われた約束を信じて海に入るとしたら、その子どもは、盲目的な信仰を持っていると思いますか?赤の他人だったら、盲目的な信仰になるかもしれませんが、何年も一緒に歩んできた親が言うのであれば、それは健全で、理性に基づいた信頼と言えるでしょう。
クリスチャンが「死」と向き合う時、具体的な説明がなくても、死の向こう側の「永遠のいのち」を信じることは理に反したことではなく、揺るがない土台に立っている事だと思います。信仰の土台は、自分の理解力や熱意ではなく、クリスチャンを導いてくださる神様なのです。ですから、民が神様の御臨在と御業を忘れないように、ヨシュアは6節にこう命令しました。
ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。
そして、「死」と向き合っている新約のクリスチャンも神様の御臨在と御業を具体的に思い出す必要があります。クリスチャンが信じている神様は間接的に私たちを導かれるお方ではありません。遠い天国から私たちを励ますだけのお方でもありません。神様は実際にこの世に来られ、私たちと同じ空気を吸い、同じ世界に歩み、同じ痛みと苦しみを味わい、同じ誘惑と試練を経験し、人としての「人生」と「死」に向き合われました。最終的に、神様は、単なるシンボルである「契約の箱」ではなく、イエス・キリストとしてこの世に来られ、私たちと共に実際に歩まれたのです。イエス様は抽象的な比喩、伝説、たとえ話ではなく、歴史に実際に存在した人物です。そして、そのお方は、自分の兄弟の死と直面したマルタにこうおっしゃいました。
John 11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
John 11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
そのとき、イエス様は人がどのようによみがえり、永遠のいのちを与えられるかを具体的には説明されませんでした。それは後のことでした。聖書を読んでいる私たちは、イエス様が後で兄弟ラザロを蘇らせた事がわかりますが、マルタはこの時、全く知りませんでした。しかし、これを聞いたマルタという女性はこう答えました。
John 11:27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
つまり、マルタはこう考えていたと思います。「神様であるイエス様が、どのように死んだラザロにいのちをお与えになるのかは全くわかりません。しかし、神様であるイエス様がこの世に来られ、兄弟ラザロがなくなったときに私に駆けよってくださいました。私は、イエス様が私と兄弟ラザロを愛しておられるのを確信しています。ですから、イエス様がおっしゃるのであれば、私たちが死んでも生きることができると信じます。王であるイエス様を待ち、準備し、あなたの御業を期待します。」そして、そのように信仰を告白したのです。それがクリスチャンの「死」との向き合い方なのです。神様の御臨在を見て、神様の御業を待ち、準備し、期待することです。
もちろん、納得しない方もおられるかも知れませんし、不安になる方もおられるかも知れません。ですから、神様は私たちをさらに安心させるために力強い御業の前味を見せてくださいました。次回の説教でそれについてお話しますので、楽しみにしてください。しかし、本日の箇所のポイントは、私たちに御業を見せなくても、また、具体的にどのように私たちを救ってくださるかを説明して下さらなくても、クリスチャンとして、神様であるイエス様が私たちと共に歩まれ、私たちに死の後に永遠のいのちをお与えになるとを約束され故に、私たちには『死』に直面しても安心できる理由が十分にあります。そのような信仰を持てるように、お祈りしましょう。