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2020年4月26日礼拝 音声あり


また以下、本日の礼拝音声になります。(さんびからとなります)

2020年4月26日 10:45-12:00 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    マルコの福音書8章34−35節
さ ん び    あなたがすべて
さ ん び    主は良い方
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  240番 ほめたたえよ
聖 書 朗 読     マタイの福音書16章21-28節 
聖 書 の 話     「 弟子の道 」    廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  431番 この世の嘆きと悩みを越えて
献   金      
報   告
とりなしの祈り          
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話し「弟子の道」

序文)イエス・キリスト様は,ご自分が多くの苦しみを受け,殺され,三日の後によみがえると弟子たちに宣言しておられました。ペテロを代表とする弟子たちは「とんでもない。そのようなことがあって良いはずはない」といさめました。主イエス様は「下がれ。サタン。」と答えられました。ペテロの態度は十字架からキリストを引き離すものであり,神が私たちの救いの道として定められた道からそらそうとするサタンの誘惑でした。
 この時主イエス・キリスト様は群衆と弟子たちを呼び寄せて言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負い,そしてわたしについて来なさい。」
 ここに出てくる一連の言葉は,主イエス・キリスト様の死生観(Jesus explain his philosophy of life and death)が示されています。そして弟子になろうとする者たちに持ってもらいたいと願っておられる死生観です。究極の弟子道です。どれも重大すぎるので,一節ずつ聞くこととしましょう。
 
Ⅰ 弟子道 
弟子道1「だれでもわたしについて来たいと思うなら」24節
弟子たち,群衆への一連の言葉には,イエス様の驚くばかりの正直さがあります。まず何よりも,イエス様に弟子入りしたいと願い,ついて行きたいと「思うなら」と,言っておられます。決断するのは,あなた自身です。「思うなら」であって,思わない人までも無理矢理に強制的に救おうとはなさらないのです。滅びるに任せられるのです。それでも,神様は「ひとりでも滅びることを望まず,すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ3:9)
人は生まれながらにして罪の中に,神の前に死んでいる存在です。しかし罪の中に歩んでいても,残っている部分があります。それは神に似せて創造された人格性であり,理性と感情と自由意志を働かせる事ができるのです。ただその働かせる方向性が常に罪深いということだけは確かですが,なお,それでも自分の事を自分で決める事が出来るようになっているのです。それですべての自己決断には本人の責任が伴います。主イエス・キリスト様は,「わたしについて来たいと思うなら」と語りかけておられるのです。
 私は罪の救いと共に永遠の命の恵に与りたいと願ってますので,主イエス・キリスト様に生涯ついて行きたいと願って,ついて来ています。
 
弟子道2「自分の十字架を負って」24節
 それでついて行くために,どのような道を歩むことになるかをイエス様は正直に言われました。決してたやすい道を示して,人を丸め込もうとはなさらないのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく,その道は広く,そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く,その道はなんと細いことでしょう。そして,それを見いだす者はわずかです。」(マタイ7:13-14)

 主イエス・キリスト様がご自分の生涯を支配している死生観が,十字架への道であり,自分ではない他の人々のために命を十字架に捨てるので,後によみがえりに与って永遠のいのちに生きることが出来ると言われました。同じ道を,弟子は歩くと言われたのです。十字架を負う歩みは,それは単なる不便や不自由や苦痛の道ではなかった。主イエス・キリスト様にとって十字架は「死」を意味していました。弟子たちにとっても「死」を意味します。イエス様にとって「それは私たちの罪を負うための死」でした。私たちにとっては,主イエス・キリスト様と共に十字架につけられる自我に「死ぬ」ことであり,ひいては他の人のために「死ぬ」ことです。他の人のためにというところが十字架の特徴です。主の例にならって自分のための苦しみは十字架と言いません。神様のために,世の救いのために自ら進んで危険や苦痛に臨むのが十字架です。
 イエスに従う者は,イエスが天の父から勝利の後に受け取られた栄光に与るのです。従う者に,主は平和ではなく栄光を約束しました。弟子たちの人生を容易にするためにではなく,偉大にするために主イエス・キリスト様は来られたのです。罪と悲惨に包まれて永遠の滅びの中に突入する道ではなくて,赦しと再生によって,神の子としての特権に与らせて,永遠のいのちに入るものとしての歩み,偉大な歩みを保証されたのです。
 
弟子道3「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出す」25節 
従ってゆくために,自分を捨てること,自分自身に死ぬことになります。
 それは「自分に対して否」と言うことになる。「私は,私に,私のもの,私自身」という言葉と生活態度は,普通にもてはやされているのです。「あなたの好きなように」「ご自分が望むように」「あなたの欲するままに」「今日きっとあなたにいいことが起こります。」このような自己主義を密かに基礎とした勧めは万人の歓迎するところです。聖書の神様が私たちに何かを要求するように思える時には,とても不愉快に思うのです。なんでも,度を超さないようにと警戒させ,また警戒します。
 もし人がイエス・キリスト様に従うなら,それは「主イエス・キリスト様にハイ yesと言う」ことなのです。自分に対しては「いいえno」と言うことになります。自分の安楽と慰めを求める本能的な愛に対して,ノーといい,自己追求と自己意志に基くすべての行いに対してノーと言わなければならない。禁じられたものに触れ,それを味わい,動かそうとする衝動や願望に対してもノーと言わなければならない。一方イエス・キリストの声と命令に対して躊躇なく服従しなければならない。パウロと声を合わせて「もはや生きているのは私ではなく,私の内におられる主イエス・キリスト様です」と言う。
 自分の都合に主イエス・キリスト様を合わせさせるのではなく,主イエス・キリスト様の都合に自分を合わせるのです。それは何も良い意味で自尊心までも捨てるようにと言っているのではないのです。信仰の確信を持っていなければ歩み出した弟子としての道を破壊することになります。健全な自我,それはパウロが,主が私の中に生きておられると言う自意識です。聖霊が持たせてくださる清められた自意識です。私たちはクリスチャンになった途端に自動的にうぬぼれなくなる訳ではありません。排他的で,紳士ぶる事と戦う必要があるのです。信仰の知識を持つことをうぬぼれて他の人を見下すことは罪です。
「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは,あなたがたのうちにおられる,神から受けた聖霊の宮であり,あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは,代価を払って買い取られたのです。ですから,自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」第一コリント6:19-20

 私たちの全存在は主イエス・キリスト様の所有になっています。ただ,今,自分たちの人生を送るために自分自身の使用権を許していただいているのです。いつでも,どこでも,どのような時でも,主イエス・キリスト様が必要だと言われたら全存在を差し出して主人の言う通りにするのです。それが従うことの基本的な姿勢なのです。
 驚くべき価値のある宝を主イエス・キリスト様は,私たちに自分の命と引き替えに勝ち取ってくださいました。それをいただくために,全面的に信頼を寄せて信仰生活に入りたいと思い,そのように決断しました。それで私たちは生きている限り,主をすべての主に勝る主として仰いでお仕えするのです。
 主イエス・キリスト様はそのことを求めてこのような弟子の道を教えられました。
 ご用意いただいた栄冠は,パウロが言っているように天の御国での義の栄冠です。永遠の命の冠です。十字架なくして栄冠なしのです。

Ⅱ 弟子道4「人は,たとえ全世界を手に入れても,自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに,人は何を差し出せばよいのでしょうか。」26節
 人生の利害得失を考えて見よう。いのちの絶大な価値を考えてみよう。大成功だが,他の面から生き甲斐がなかったという人生があります。いくらこの世のいのちが繁盛しても,そのようなことにまごまごしているととうてい埋め合わせのできない損失を被ることとなります。キリストの十字架を負えないでいると,大いなる幸福を失い大損失となる。天から私たちを救うために来られた主イエス・キリスト様の目で見ると,魂のいのちを永遠に楽しむことは,神様の目に最高の最大の幸福なのです。イエス様の目で見ている私たちの人生は,たとえ全世界を儲ける事が出来ても,信仰のいのち,恵みを受けること,祈ること,完成の希望を持つことに比べれば,何の益にもならないのです。地位や,金は,あると人々が集まってきて,大変に重んじられるのですが,それを失うと,その人々には,他に何もないので,忘れ去られてしまうのです。ひたすらに献身的に,主のために,他の人々に仕えるために働く人は,結局認められて,いつまでも忘れられることはありません。歴史は正直に反応します。まして地上の命が終わったときに,そのような人々は,何を持って主イエス・キリスト様に覚えられ,いのちを贖うと言われるでしょうか。全財産を差し出してもそれは出来ないのです。十字架の主の血潮だけが私たちを贖い永遠のいのちにあずからせるのです。主イエス・キリスト様に贖われて新しく永遠のいのちにあずかったものが,さらにこの神からのいのちを自分の内で盛んにしていただき,養い育て働かせてゆくなら,そのような歩みは,どれほど尊いことでしょうか。私たちが日常の歩みで,自分に問いかける言葉は「人々は,これをどのように思うか」ではなくて「主イエス・キリスト様は,これをどのように思われるか」であります。人のいのちを決めるのは世論の判断ではなくて,神様の判断なのです。

 永続するものを,安価な土台の上に据えてはいけません。全世界を儲けて,永遠のいのちを損する。瞬間のために永遠を犠牲にする。それほど損な歩みがあるでしょうか。しばらくは楽しいが長い目では破滅となる道があるのです。自分の魂を失うことのないように主イエス・キリスト様を見上げて歩みましょう。

結び)パウロの命じていることばを結びとします。
Ⅱテモテ 4:1-8 「神の御前で,また,生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で,その現れとその御国を思いながら,私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし,絶えず教えながら,責め,戒め,また勧めなさい。というのは,人々が健全な教えに耐えられなくなり,耳に心地よい話を聞こうと,自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め,真理から耳を背け,作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども,あなたはどんな場合にも慎んで,苦難に耐え,伝道者の働きをなし,自分の務めを十分に果たしなさい。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き,走るべき道のりを走り終え,信仰を守り通しました。あとは,義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には,正しいさばき主である主が,それを私に授けてくださいます。私だけでなく,主の現れを慕い求めている人には,だれにでも授けてくださるのです。」

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