5月17日礼拝の音声ファイルです。
2020年5月17日 礼拝式順
前 奏
招きの言葉 マラキ書 4章 5−6節
さ ん び イエスに栄光あれ
さ ん び その愛よりも
開会の祈り
主 の 祈り
教会福音讃美歌 181番 さかえの王にます主の
聖 書 朗 読 マタイの福音書 17章9-13節
聖 書 の 話 「苦難のメシア」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 132番イエスの十字架の深き恵み
献 金
報 告
とりなしの祈り
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2020年5月17日 「苦難のメシア」
(序文)先々週の主イエス様の変貌の学びで,主イエス・キリスト様が,救い主として地上に来られた神の子であることを見ました。天から御父の声がして,「これはわたしの愛する子,彼に聞くように」と御子の使命と教えを支持され,その保証をなさったことを知りました。私たちが御子に聞かなければならないことなどが分かった。3人の弟子たちが栄光の主の目撃者として,主が予告されている十字架と死と復活の道を受け入れなければならないことを理解することが求められた。
Ⅰ 箝口令
ところが,今日の箇所では,その帰り道,主イエス・キリスト様が弟子たちに,今見たことを他の人々に伝える事を禁じられた記事が出ています。箝口令が敷かれた。「命じられた。」強い禁止令です。弟子たちは山を下りながら今見たことをどのように他の弟子たちに説明しようか戸惑っていたことでしょう。イエス様の姿が神の子の栄光に変化したことや,モーセとエリヤが現れた事,主と話し合っていたことなど,本当に他の弟子たちが理解するでしょうか。自分たちの理解をあまりに素晴らしく超えたために,とんでもないことを口走ってしまったペテロは特にどのように伝えようかと考えていたことでしょう。しかし主は彼らの心の思いを察した上で,禁止令を出されました。
何故このような素晴らしいことを他の人々に話してはならないのでしょうか。このことを理解するカギは「人の子が死人の中よりよみがえる時までは」という制限のことばにあります。実は弟子たちはよみがえりのことを理解できていなかった。それどころか,救い主として十字架上で死ぬことさえもよく理解していなかった。それで彼らが,不理解のままで,この山の上で起こったことを伝えるなら,間違ったメシア理解のままで不十分に伝えることとなるのです。実際にイエス様がお示しになりたかった事柄がさらに誤解されてしまう危険性が大いにあったのです。
Ⅱ メシア理解の間違い
弟子たちは山を下りながらイエス様の禁止令を考えた。彼らが考えていたメシアと主イエス・キリスト様が今しめしつつあるメシアと何故食い違うのか。全然違うのは何故か。
彼らは旧約聖書のメシア預言について知っている事柄をイエスに尋ねました。「メシアに先立ってエリヤが来るはずだ。」ユダヤ人たちは預言者エリヤがメシアの先駆者として来ることを信じていた。主イエス・キリスト様が生まれる400年前のことでした。天の神様は預言者マラキを通してその事柄を伝えていました。マラキ4:5-6「見よ。わたしは,主の大いなる恐るべき日が来る前に,預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は,父の心を子に向けさせ,子の心をその父に向けさせる。それは,わたしが来て,聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
イエス様は答えられました。「エリヤがきて,すべてを立て直します」(マタイ17:11)。その通りです。エリヤが来て人々の心をメシアに備えさせます。それだけではありません。「人の子」については,「同じように人の子も,人々から苦しみを受けることになります。」と言うことも書いてあります。この観点からのメシア理解がユダヤ人たちには欠けていました。政治的で軍事的でこの世の権力的なメシアだけを自分たちの思いに従って描き待ち望んでいたのです。
イエス様の誕生に際してエリヤは来たのでしょうか?そうです。来たのです。イエス様は前にエリヤのことを弟子たちに教えていました。「まことに,あなたがたに言います。女から生まれた者の中で,バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし,天の御国で一番小さい者でさえ,彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日から今に至るまで,天の御国は激しく攻められています。そして,激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。すべての預言者たちと律法が預言をしたのは,ヨハネの時まででした。あなたがたに受け入れる思いがあるなら,この人こそ,来たるべきエリヤなのです」(11:11-14)。
これらの教えの後で,この山の上での栄光の姿に変わられた出来事が起こったのです。「イエスは答えられた。『エリヤが来て,すべてのことを立て直します。 しかし,わたしはあなた方に言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず,彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も,人々から苦しみを受けることになります。』そのとき,弟子たちは,イエスが自分たちに言われたのは,バプテスマのヨハネのことだと気づいた。」(マタイ17:11-13)
それはバプテスマのヨハネのことです。ユダヤ人たち律法学者たちは,このバプテスマのヨハネをメシアの先駆者と認めなかったどころか,彼に対して好き勝手な事をしたのです。人々はヘロデが彼を捕らえ,殺してしまうことを阻止しなかった。首を切られて殺されたことを思い出させました。彼らがヨハネをエリヤだと分かっていたなら,主イエス様をキリストとして認めたことでしょう。主イエス様の教えやなさっている事柄を誤解する事は全くなかったのです。しかし事実は,バプテスマのヨハネを理解しなかったので,イエス様を理解出来なかったのです。勝手にあしらったので,主イエス・キリスト様をも勝手にあしらっているのです。だから,主イエス・キリスト様はこのような事実を示そうとされたのです。さらにこのメシアの苦難はエリヤの事と同じように,聖書に既に書かれているのです。
Ⅲ 苦難のメシア イザヤ 53章1-12節
紀元前740年代ごろに活躍した預言者イザヤが,イザヤ53章全体に苦難のしもべメシアを天の神様から啓示を与えられて描いています。イエス様は,このことは,どうなるのかと弟子たちに問いかけました。どうしても、弟子たちが思っていた一般的なメシアについての考えを改めさせる必要がありました。
1節 「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」
この預言者の問いかけは、誰も信じなかったというのではなく、信じる者の少なさを暗示している問いかけである。広い世界に真の信徒の少なさに読者の注意を引いている。非常に明白なしもべの使信であるが、聞く誰もが信じることを拒むのは、なぜか。聞いた人々でも、無視しないまでも軽んじるのである。並行して、同じ思想が強められて「主の御腕はだれに、現れたのか。」と述べられている。わずかの者にしか、主の御腕は現されない。聖霊のお働きがその心のうちに行われるものはわずかである。しかし、いないわけではない。宣教の熱心を失わないように。
2節 「彼は主の前にひこばえのように生えでた。砂漠の地から出た根のように。彼には、見るべき姿も、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」
ここから、しもべの生涯が、「謙卑」(ヒュミリエーション)の生涯である事を示している。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)、という言葉と比較される。かわいた地で根が生え出るためには困難と戦わなくてはならない。かわいた地は成長を約束してくれるわけではないから。救い主が地上に現れなくてはならなかった場合の低い状態を示している。しもべは姿も見栄えもない。慕うべき外見もない。
3節・4節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」
しもべの謙卑をさらに詳しく述べる。彼は人々から侮辱された。人々は彼に反応した。無視したのではなかった。侮辱したのである。「蔑まれ」「侮辱され」「悲しみの人で」「顔をそむけ」「尊ばなかった」。どんどん低くなり続けるしもべ。嘲笑と罵倒を浴びせた。のけ者。人々がその好意と尊敬とを撤回する者とされた。救いをもたらすために彼は人々に捨てられた。
「悲しみの人」彼は「人」である。彼の全生涯は苦痛と悩みに覆われ、それに耐えておられることに救い主の特異性がある。悲しみを見いだす生涯である。「病」を知っていた。「病」とは、実際に次々と病になったという意味よりは、罪を描く一つの比喩的表現である。しもべが成し遂げる解放が、肉体的な悲痛な病気からの解放でなく、むしろこのような病気が流出する源、すなわち罪からの解放である。われわれも彼を侮った。彼を無価値の人と見た。
主イエス様は ルカ18:31-33で、この節を引用しながら、12弟子たちにご自分の十字架に向かう様子を語られました。弟子たちは何一つ理解できなかったと書いてあります。
5節「しかし、彼は、私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」
事柄の真相はこうである。代償的贖罪の明快な陳述がある。この節は全てのクリスチャンにとって最も高価な節である。「刺し通され」によってしもべが外部から災難を受けた。この表現は死んだ事を意味する。「兵士のうちの一人がイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た」(ヨハネ19:34)。私たちの不義と罪が、彼を砕いた。神との平和が、これによってもたらされた。神への罪や違反は、どれほど平安をなくすかを思わなければならない。神と私たちの間にある障壁は、しもべの身代わりの死によって取り除かれた。
私たちはいやされたのだ。この宣言により、しもべを死なせる原因となった事から、私たちは完全に自由にされた。「主イエスは、私たちのそむきの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25)。
6節「私たちはみな羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
私たちは牧者を失った羊のように、罪によって迷い去った。動詞は「迷ってしまっていた。」と訳するのがよい。正しい道からそれて迷って失われていた。しもべが救助してくれるまで迷ったままであった。私たちの、全的堕落の姿が示されている。神が探し求めて下さらなければ、迷ったままであった。それで、神はしもべに、私たち全ての不義を降り掛からせて、介入してくださった。
7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
「彼は痛めつけられた」は「彼は圧迫された」と訳すほうが正確です。しもべは迫害者により圧迫され、なやまされたが、事実としては、彼自身が悩みに服した。故意に自分を卑しくして、口を開かなかった。「彼は自分自身を悩まされるようにした。」「彼は自分の口をひらかなかった」とヘブル語は訳すことができる。これは自発的受難を示す。自発的であり、また、忍耐強く受難した。自己弁護や抗議をするために口を開かなかった。イザヤはこの説明を補うために、「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と表現している。
8節「虐げと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民のそむきのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。」
「預言者が、しもべの上に起こった肉体上の拘束または抑圧のことを語っているのは、明らかである。これは、述べられている審判との関連で、理解されなければならない災難、または迫害である。迫害は法律上の検束によって起こされるようなものだということが、明らかになる。述べられている審判は、しもべに下された法律上の宣告を指している。だから、受難者が検束された。しかもおそらく、特にその性質において弾圧的な検束と理解すべきだろう。また彼が審問に付されもした、と思われる。彼は告発され、有罪で死に値すると宣告された。けれども、彼は悪行について潔白の身であったから、実にそれ以上であった。彼は積極的に正しかったのだから、彼に下された宣告は不正そのものであった。罪なき者であった彼が、不正な審問にゆだねられたと言うことを読むのは、かなりの衝撃である。
けれども、驚きを生じさせるのは、罪なき彼が、人々の手で不当に苦しめられなくてはならないという思想である。「主」が受難の究極的原因であることはむろん全く真実である。主が、確かにわれわれの不義を彼の上に置かれたのであった。しかし、しもべの受難が同時に人々の手によるものであったということは、いやましに明らかになる」(E.Jヤング)。
人々がしもべに苦痛をもたらしたのは、彼らが裁判を間違ったからだといえるだろうか。そうではなくて、無実の人が不正に告発され、罪に定められたと理解するだけでは足りない。むしろさばいた人々が、本来的に邪悪だったからである。闇は光を受け入れられない。しもべの言葉を聞かない、救い主だと信じない。地上から取り去ろうとする。では彼らだけが邪悪だったのか。そうではない。私たちの罪のために彼は死んだ。むしろ私のためというべきである。「彼は生ける者の地から絶たれた。」死ぬように取り去られたのである。
9節「彼の墓は悪者ども(複数)とともに、彼は富む者(単数)とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。」
しもべの葬りの性質について、ここに述べている。しもべの墓は犯罪人たちとともに、また彼の死後は富める者とともに設置された。「ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石が転がしておいて、立ち去った。」(マタイ27:59-60)。ある意味で、しもべの高挙と栄光は、死において始まったと言える。人間は犯罪人として葬ることを意図したが、神はしもべを富める者とともにおらせられた。しもべの運命の転換点である。潔白さの役に立つ仕置きである。不名誉な死後に、高貴な葬りを与えられた理由は、彼の完璧な潔白にあった。主は、彼の葬りを、悪人たちが企てていたものとは違うものとされた。
10節「しかし、彼を砕いて、病を追わせることは主のみこころであった。彼が、自分のいのちを代償のささげ物とするなら、彼は末永く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」しもべの潔白さにもかかわらず、10節で対照が導入される。彼を砕くことが主のみこころであった。しもべの受難の究極的な原因は、神ご自身にあったことが明らかにされる。
「代償のささげ物」はレビ記5:14-19に書かれている。これは、古い言葉では「けん祭」と言われていた。「罪祭」(罪のためのいけにえ)と区別して書かれている。「代償のためのいけにえ」と「罪のためのいけにえ」とどのような区別があるかといえば、それは「弁償する必要がある」罪であった。それは負債を支払ったり、生じた咎を償ったりして、そのことによって罪人を自由にする犠牲です。しもべの死、いのちの血の注ぎだしは、罪のなだめ、神の正義が要求する賠償を果たすように意図された犠牲であった。しもべの死は犠牲の供え物であった。それはまさに祭司の仕事を遂行したことである。受難は自発的であった。私たちの悩みを負い、私たちの悲しみを背負った方は、自分の意に反してこういう死に追いやられたのではかった。他人の手でささげられる犠牲として自分をゆだねるよう、無理強いされたのではなかった。むしろ自由に自分をささげたのである。他人の咎のために償いがなされるために、義なる犠牲として自分自身をささげた。義なる祭司でした。彼はこのような祭司であり、また、咎の供え物でもあります。それに、これは動物の犠牲ではなくて、一人格の供え物であって、こうしてモーセの律法に述べられていた犠牲とは全く異なるのでした。他の類のない供え物でした。レビ記に記された諸々の犠牲は模型であって、ここに原型があるのでした。「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」(ヘブル9:26)。
「彼は末永く、子孫を見ることができ」しもべは、自発的に自身を咎の供え物とするが、それは死を意味する。けれども、それで終わるのではない。なぜなら「子孫」を見るからである。霊的な勝利を得て、再び生きるのである。子孫を見る。末永く見る。ずっと生き続ける。彼は寿命をのばすのである。主は言われた。「わたしは死んだが、見よ、代々限りなく生きている。」(黙示録1:18)。
「主のみこころは彼によって成し遂げられる。」しもべは神のみこころをおこなうために来た。それを成し遂げた。上首尾の結末を迎える。『イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった』(ヨハネ19:30)。
11節「彼は、自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」
しもべは「見る」「満足する」。この二つの表現は、通常は「満ち足りて見る」「豊かな満足をもって見る」と訳すことができる。しもべの高挙が言われている。
続いて、聖書の中で最も鮮やかな、福音声明の一つが続いている。「その知識によって、多くの人を義とする」。ここは文法的に「彼についての知識によって」「彼を知ることによって」と訳するほうがよい。「その知識」を「主のしもべを知る知識」ととる。「信仰義認」の教えがあることになる。しもべが多くの人を義とするのは、人々が彼を知ることによって、あるいは知ることを通してなのである。
12節「それゆえ、わたしは、多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦利品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのためにとりなしをする。」わたし・神は、しもべが成し遂げたことのゆえに、多くの者、強者たちを彼に分配する。しもべが敵から奪い返した贖われた者たちのことである。
しもべはとりなしをする。イザヤは、しもべの高挙された理由を12節でまとめている。「自分のいのちを死に明け渡し」自発的な死、「背いた人たちとともに数えられ」罪人と同一化、「多くの人の罪を負い」代償、「とりなしをする」。他のだれにもできない救いのわざである。それで、主イエス・キリストは誰よりも高く上げられた。全てのクリスチャンは、代々の教会とともに叫ぶ。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(黙示録5:12)。[ここまでイザヤ書の説明。]
メシアは苦しみの後に復活するのです。
好き勝手にしたことの報いは,どこまでも神様が示された道,方法ではなく,自分たちの勝手な想像,期待,誤解の上でのメシア像に固執するために,本当の真理に達することができないのです。それで,結果としてはお互いが共に滅びるのです。正しい知識と信仰を主イエス・キリスト様に聞くことで持つならば,自分に破滅をもたらすことはありません。自分の考えに固執して,勝手にあしらっていると,破滅を招くのです。弟子たちを懸命に正しい理解に導こうとされた主イエス様は,彼らが復活の主イエス様に出会った後に、はじめてこの栄光に輝く主を正しく理解し,人々に示し語ることが出来ると確信しておられました。歴史は,まさに、そのように成ったことを示しています。
結び)皆さんは,唯一の救い主イエス様についてどのように理解しようとしていますか。福音に示されるままの主イエス・キリスト様ですか,それとも自分勝手に心に描いている救い主でしょうか。私たちのために十字架にかかり,死に,葬られ,三日目によみがえられ、天に戻られた主イエス様を信じましょう。主イエス・キリスト様は再び来られて私たちの内に始められた救いを完成されるのです。