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2020年7月19日礼拝 音声

7月19日礼拝の音声ファイルです。

2020年7月19日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉 使徒の働き7章38-42節前半  
さ ん び     全地の果てよ
さ ん び     満たしてくださる方
開会の祈り   
主 の 祈り
教会福音讃美歌   30番 御前にひれふし
聖 書 朗 読      マタイ福音書 19章13-15節
聖 書 の 話   「子どもたちをわたしのところに」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌   285番 子どもを愛する主の御前に
献   金            
報   告
とりなしの祈り         
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年7月19日マタイの福音書19章13-15節「子どもたちをわたしのところに」

序文)私たちの主イエス・キリスト様は,子どもを慈しまれるお方です。子どもたちも主イエス・キリスト様を愛していたことが聖書からわかります。イエス・キリスト様は厳しくて陰惨で喜びの無い人では全くなかったのです。子どもたちが寄ってきてニコニコと笑いかけるような方だったのです。親切で明るい方でした。今イエス・キリスト様は十字架への途上にありました。目前の暗い陰,十字架は心から離れることはなかったと思います。緊張と苦しい戦いの中にいました。そのような状態で,子どもたちをその腕に抱きかかえる余裕を持たれ,彼らにほほえみかけ,彼らを祝福されました。
 
Ⅰ 親たちは子どもたちと赤ん坊も連れて来て祝福してもらおうとしました。特別な病気や不幸からの救いのためというよりも,子どもたちの将来のために祝福していただきたいと考えました。子どもたちは主イエス様のところに一人で来たのでもなく,友だちといっしょに来たのでもなく「連れられて来た」のです。連れて来たのは子どもたちの両親か,そのどちらかでしょう。神が両親に託された重要な使命がここにあります。主イエス様は,ここでは行きずりの子どもたちを集めて祝福されたのではなく,連れてきた両親の信仰を受け入れ祝福されたのです。
 ユダヤでは初めての誕生日に子どもをラビの所に連れて言って祝福してもらう習慣がありました。
 私たち大人は主イエス・キリスト様の救いの恵みに浴し,キリストにつくものとされました。そして友人や家族や隣人をも,キリストのみもとに行こうと誘います。そうだとすれば,自分の子どもたちや赤ん坊まで,イエス・キリスト様のみもとに連れて行こうとするのは自然,当然です。子どもの誕生以前でもまだお腹の中にいるころから神の前にでて祝福にあずかるのは何と幸いなことでしょう。自分たちは天国へ、子どもは自由にさせる、と言うのは,本当は子どもは悪魔の奴隷としてその力の元に捨て置くと言っているのと同じなのです。私たちは信仰に入る前は「空中の権を司る悪の霊に従って歩んでいました。」(エペソ2:1-2)とあるとおり,子どもたちもその中に生まれついているのですから。中立的な宗教教育や,無色透明な育児と言うことはありえないのです。 
主イエス様の両親もそのように育てたことです。それで神と人に愛される人格を身につけられたのです。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」(ルカ2:52)主イエス・キリスト様のようになること,神と人に愛される人格を目指して,豊かな心を育てることは,子を神から託された親の重大な事業です。子育てについて,子どもが,一人一人神にかたどって創造された者としてふさわしい人格者として成人してゆくために,家庭,学校,社会の三分野で相互の協力と分かち合いがなされる必要があると言われています。しかし家庭も学校も社会も,その組織立ての根底に聖書の創造者である神様の存在を信じて,取り組むのでなければせっかくの神にかたどられた人格が豊かに育ち,神と人とに愛される存在を目指すことはできません。愛深く,忍耐があり,謙遜,誠実で,柔和,勤勉でよく自制し,正しい判断ができ,責任感があり,裏表なく,正直で,いつもさわやかな笑顔が輝き,他人を引き上げる言葉を語る。その人の存在がまわりに悪を悟らせ,行わせない。このような神と人に愛される人に,子どもを育てたい,自分もそうなりたいと目標を置くことは,神様に喜ばれましょう。
 通常は子どもは家庭に生まれ育てられます。家庭の存在の土台は家庭を創造された聖書の神様への信仰です。家長は神様からその家庭における家長としての権威をゆだねられているので,父親として神様への信仰を土台にして子どもの心を育てて行く責任があります。母親もしかりです。現実には,家庭ばかりでなく,学校も,社会もそのような聖書の神様を土台にしないで,この世の流れの中に罪の人間社会を形成していますので,キリストの教会はまず父親,母親,子どもたち,個人個人を救いに導き,人生の土台としてのまことの神信仰を得ていただきたいと宣教を続けています。それぞれの信仰の成長とキリストにある人格形成に向かって訓練と教育と奉仕を分かち合っています。それと同時に,信仰を持った親たちの子どもたちのために,また信仰によって生まれた新家庭と子どもたちのために,教会はキリスト信仰への教育を分かち合って,家庭教育,学校教育,社会教育の土台となる部分を形成し補おうとしています。教会学校の重要性は,家庭で本来なされるべき敬虔への訓練のために助けることにあります。
 
Ⅱ 弟子たちは,子どもたちをどのように見ていたのか?
 彼らは,親のこのような行動をたしなめたのです。その理由は,結婚のこと離縁のこと,独身のことについての聖書の教えを主からさらに詳しく聞いて学んでいる最中だったのです。子どもたちや赤ん坊のやかましい声に妨げられたくなかったのです。
 また,弟子たちがエルサレムに向かって何か重大な事柄が起こりそうなのを予感して緊張しているイエス様自身を守ろうとしたのかもしれません。また,天国はこのような者の国と思っていなかった。天国は大人のもので福音を理解できる者たちのものと思っていたふしがあります。教理もわからず,自分で信仰を告白していない者は入れないと言っている教会もあります。
 赤ん坊は天国にいないでしょうか?主イエス・キリスト様が再び来られるときに,まだ信じることができないでいる赤ん坊はどうなるのでしょうか?本当に天国は自分で告白して信じた者だけしかいないのでしょうか?勿論告白した者たちはいると思います。でも,弟子たちのこのような考えに対して主イエス・キリスト様が取られた態度と言葉は重要なことを教えます。

Ⅲ 主イエス様は幼子をどのように見ておられたかを少し学びましょう。
「イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。』そして手を子どもたちの上に置いてから,そこを去って行かれた。」14−15節

 イエス様の子どもたちへの取りはからいは,幼子がキリストに属する者であるという前提で行われています。
①幼子は神の国に属している。
②彼らはキリストの名のゆえに受け入れられるべき事が教えられています。ここから出てくる原則は三つあります。
⑴幼子たちはたとえ嬰児であっても,キリストに属する人々に加わっており,キリストの体の肢体です。
⑵彼らはキリストの御国の構成員です。
⑶彼らは教会に属しています。
そしてこのことにおいて,彼らはキリストに属する者として受け入れられるべきです。
以上のような教えですから,18:6で「この小さい者たちの一人をつまずかせる者は,大きな石臼を首にかけられて,海の深みに沈められるほうが良いのです。」と言われたのです。「つまずかせる」とは,「受け入れる」の反対です。つまずかせるとは具体的には「偽りの教訓をあたえること,信仰について親や成人が,悪の見本をみせること,名前だけのクリスチャンホーム,彼らの霊魂の救いに対して無頓着であること」(A・B・シンプソン)などといわれています。マタイ18:10で「小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」と言われ,子どもを侮ることのないように「子どものくせに」とその価値を知らないうちに侮りやすいので注意するようにと言われました。マタイ18:14では,はっきりと小さい者たちの一人が滅びることは,みこころではない、と主は断言しておられます。出エジプトの時に成人たちは不信仰のゆえに荒野で滅びても,その子どもたちは約束の地についに40年後に入れられたことをおぼえましょう。今の時代,大人たちの不信仰によって,自分の子どもたちに救いの信仰を神が与えられようとしておられることまでも邪魔して,つまずかせて滅びさせるなら,主はそれを本当に悲しまれます。
 
Ⅳ 天国はこのような者の国である。
 主イエス様は,子どものどこをそれほどに愛し尊ばれたのでしょうか?
 第一は子どもの謙遜さです。幼子は大人からすべてを教わり指導されなければなりません。大人のように地位や,誇りや,名声などという角度から物事を考えることを知りません。自分の重要さをそのような角度からは知らないのです。それで実に素直に謙遜に物事を学びます。神様についてもそうです。偶像に導くのでなければ,正しいまことの神様をすぐに理解し信じることができます。
 また,従順です。従順でないときも時々あります。しかし子どもの本性は従うことにあります。幼児は神様から引き離すような間違った独立を習っていないのです。不従順なのは誰かから習ったからです。
 さらに幼児は信頼をします。救いを受け入れます。間違いの多い父親でも,幼児や子どもは父親がすべてのことを知っており正しいと考えているときがあります。それほど信頼しています。母親の言うことは常に正しいと考え間違った指示でも守ります。そのような段階を越えたときでも,物事を知っている経験深い大人の言うことを信頼します。
 幼児や子どもたちは,悪くひどい大人がいると思えないので,罪深い大人の犯罪に巻き込まれたりします。親はそのために世の中は悪いとこざかしく教え,警戒するようにと厳しくしつけようとします。それは彼らの本質が信頼することを身につけているからなのです。
 子どもは簡単に許します。よほどのことでないかぎり何時までも恨みを抱いていません。心理的障害が残るほどにひどく大人たちや友達が取り扱わないかぎり,すぐに仲直りをするほどです。
 神の国は,そのような者の国なのです。へりくだりと従順と,信頼と赦しとを,主イエス様のように持つ者たちの国なのです。幼子のような大人たち,キリストによって聖くされ新しい性質を聖霊によって受けた者たちがいる所です。神の国は,今私たちの中にあり,来るべき時に完成します。
 
結び)本当の意味で,人格を育て,心に真理を悟らせる方は,聖霊なる神様です。私たちが,日々の祈りで,自分の子どものために,聖霊様にとりなしゆだねて,子育てに関わってゆくことで,恵みの道に子どもをおきましょう。

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