8月16日礼拝の音声ファイルです。
2020年8月16日礼拝式順
前 奏
招きの言葉 ヨハネ黙示録3章17節
さ ん び 我が心の目を開いてください-Open the Eyes of My Heart
さ ん び 求めて
開会の祈り
主 の 祈り
聖 歌 195番 わがめをひらきて
聖 書 朗 読 マタイの福音書 20章29-34節
聖 書 の 話 「この目を開けていただきたい」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 368番 ことばにできないほどの
献 金
報 告
とりなしの祈り
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2020年8月16日「 この目を開けていただきたい 」マタイの福音書20章29-34節
序文)マタイの福音書には,目の見えない人の癒(いや)しの記事が二つ出てきます。最初のものは,すでに19年1月27日に学びました9章27-34節です。2番目・今朝の記事は,マルコ・ルカの福音書にも書かれており,目の見えない二人のうちの一人の名前がバルティマイです。先回,弟子のヤコブとヨハネがイエス様に御国で右大臣,左大臣にしてほしいと言ったときに「あなた方は自分で何を求めているのか分っていない」とおしかりになり,退けられた話をしました。今朝の盲人二人は願いを受け入れられ,かなえていただきました。
なぜ,このような大きな差が生じたのでしょうか。両方とも主イエスにしてほしいことを,願っていました。バルティマイの求め方に主イエス・キリスト様が応じられた秘訣は何でしょう。私たちの日頃の祈り求め,願いに,主イエス・キリスト様はどのようにお答えくださるでしょうか?「あなた方は自分で何を求めているのか分っていない」と言われるでしょうか。それとも,あわれみ,恵みをいただけるでしょうか。私たちの信仰の目を開かせていただきましょう。マルコ,ルカ福音書も参照しながら学びましょう。
Ⅰ 20章30節―31節 彼らの信仰のすばらしさ!
主イエス様が彼らの願いを聞かれた秘訣の第一は,彼らは生まれつきの盲人で,見ることができなかったが,聞いただけで信じた。イエス様は彼らに向かって言われました。ルカの福音書18章42節によると「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と書かれています。二人の代表バルティマイに対するイエス様のおことばが,はっきりと彼らの霊の目が開いていた事を証明しています。
彼らは群衆が通って行くのを耳にしたのです。イエスが通られるのだと聞いて,彼らは叫びます。「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(30節)。
イエスが通られると聞いただけで,「主よ、ダビデの子よ。」と叫んでいるのです。イエス様についての,この叫びは他の人々ができなかった認識です。パリサイ人,律法学者,国の指導者アンナス,カヤパたちが,全然見ることができなかったことを彼らは心で見ていました。イエスの弟子となったナタナエルは,イエスさまから真実な人だと言われた人物でした。彼が,ピリポからイエスについて紹介されたときに,「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言ったのです。ナザレのイエスはナザレのイエスでしかない。と言う考えが十字架のイエスを産み出したといえるほどに,当時の人々は正しい理解を最後まですることができなかったのです。
ところが,この生まれつき目の見えない彼ら・バルティマイは「主よ。ダビデの子」と叫んだのです。預言者たちが預言していたダビデの王座に座る方・メシアと叫んだのです。
群衆がとんでもないことを言うと,黙らせようとしました。でも彼らはますます叫びました。彼らは取り巻きの人々のようにイエスの力あるわざを一度も見た事がありませんでした。主イエスが一言のみことばで死んだ人をよみがえらせた事を見たわけではありませんでした。イエス様が手でさわってツァラアトを直されたり,自分と同じような目の見えない人をさわって直されたところを目撃したのではありません。
しかし彼らは道ばたに座っていることで,通る人々の声高なうわさばなしを聞いてきたのです。交通の要所エリコを通過する旅人たちの話し声で,そのような素晴らしい方がいることを知っていました。そして密かにその方こそ,来るべきメシアであると思っていました。自分がお会いするチャンスがあれば,きっと直してくださるにちがいないと信じていました。今,ついに,そのチャンスがきたのです。ナザレのイエスがお通りになる。どの辺を歩いておられるのかは見えない。わからない。しかしありったけの声を出して,叫びました。声は届くだろうと。信じて叫びました。私たちは現在イエス様を目にみることはできません。天の御国に復活ののち戻られたからです。しかし聖書の中にそのみわざも,力も,教えも,いのちも全部記録されています。この事の故に,二人と同じように,イエスは救い主と信じることができる。
Ⅱ 主イエス様が彼らの願いを聞かれた第二の秘訣は,彼らの求めの執拗さと決断のすばやさ。
1 群衆は彼を黙らせようとしました。妨害しました。制止し,邪魔者扱いしました。たしなめたのでした。物乞いをしている,お前たちのようなものの出る幕ではないと。しかし彼らはますます叫びたてました。「大声」は人の注意をうながすための普通の大声です。「叫びたて」は,感情をむき出しにして本能的な叫び,絶叫に近いのです。バルティマイたちにとって主イエスに出会う事は,あこがれとか感傷的なことではなくて,何が何でも会わなければならない堅い決意,必死の願いだったのです。心の底からの強烈な願望は決して失望に終わる事がない。他のものが,何といおうが,自分はこの方に救ってもらわなければならない。
2 32節イエスは立ち止まりました。声が届いたのです。主は彼らを呼びました。バルティマイたちはただ一度しかないチャンスを生かしました。なぜならば,イエスはエリコを通ってエルサレムに向かっておられるからです。十字架がイエス様を待っているのでした。主にとって,エリコへの戻り道はありませんでした。
バルティマイたちがイエス様に会う機会は,この日,この時だけだったのです。求めを具体的に彼は表し,叶えていただいたのでした。どの人の人生にも,このように一度のチャンスしかないというような場面があります。わたしたちは時々,イエス様への心の高まりを覚えることがあります。その時に直接信仰の行動に移さないと,次のチャンスが無いと言うことが起こります。救いへの求めは執拗に,熱心に真剣にが,大切です。マルコの福音書10:50では,「盲人は上着を脱ぎ捨てて,すぐに立ち上がってイエスのところに来た。」とあります(原語表現に近い「すぐに躍り上がって」)。「すぐに」です。決断の素早さが読み取れます。イエス様の「あの人を呼んできなさい」という声を聞いて,その声が聞こえた方向に向かってゆきました。
Ⅲ 主イエス様が彼らの願いを聞かれた第三の秘訣
1 32節「わたしに何をしてほしいのですか。」とイエスに問われた時に,すぐに自分の願いを具体的に言うことができた。「主よ。目を開けていただきたいのです」(33節)。彼らは自分が求めている事をよく理解していました。生まれつき見えないから,それは求めてもしかたがないこと,とは考えませんでした。ダビデの子イエスならできると信じたのです。自分の人生の一番本質的な必要について求めました。
あなたは今朝,主イエス様に何を求めますか。主イエス様への求めは,あこがれや,感傷的,抽象的なものでないでしょうか。求めは,具体的で明白でしょうか。的確でしょうか。何とはなしに,漠然とでしょうか。
人間は,ある意味で,ずるいところがあって,自分の求めがはっきりと聞かれてしまうと困る事がある。やりたくない事,なりたくない事,できればそっとしておいてほしいこと,自分自身を省みて正しくしようと祈る時に,できれば当分はそのまま知らぬ顔でいたいと思っていることもあります。そのような人の祈りは,イエス様にかかると「何を求めているのかさっぱりわからない」ことになります。
しかし彼ら・バルティマイのように強い確信を持っていれば,かならず何かが引き起こされる。主イエスの喜ばれる結果が具体的に毎日の歩みにおこるでしょう。
彼らは「目がみえる事を求めました。」この願いは,生きて行く上での,自分の欠け目を満たしてほしいという願いですが,本当は「私をあわれんでください」(マルコ10:48)という叫びなのです。
バルティマイは目が見えなかったから,目を開けてほしいと願ったと,単純に考えてよいでしょうか?彼の周りに居た目の見える人々は,彼に何をしたでしょうか。彼をメシアから引き離そうとしました。益どころか害を加えました。彼らが単純に目を開けてもらいたかっただけならば,その後でイエス様に従ってゆき,初代教会で,その名前が知られるほどのクリスチャンとは,ならなかったでしょう。バルティマイはイエス様により肉の目を開いてもらった。その目の視野で,イエスに従うと言う霊的な事を実行しました。
2 「あわれんでください。」という求めは,見えるようになって良かったというだけではなく,従ってゆくという事に実を結びました。私たちの具体的な求めが,あわれみによって,と祈られてゆくとき,その結果与えられた救いは,利己的な歩みのためにもちいられるのではなく,主に従い行く,主に仕えてゆくことのできる生活へと転じるためでした。
見える事が,主に従うことにつながる。イエスのすばらしさが見えているから。あわれみの豊かさ,救う力の強さ,深い愛と恵みが,霊の目で見えていれば,自然にイエス様の後についてゆきたくなる。
教会を誠実に動かしておられる助け主,聖霊様が見えれば,私たちはもっと祈るようになる。具体的にとりなすようになる。
自分は見えると思っている事で,かえって彼ら・バルティマイに加えたような妨げを,信仰生活でしていないかを自戒しましょう。また見えると思って,これが教会かと,タカをくくって軽んじ,その頭である主イエス様に対して,不信仰をあらわしていないか?
結び)主のあわれみは,このようにして求めた彼ら・バルティマイに働きました。私たちも,また,彼の信仰に習って救い主,導き手,完成者イエスを仰ぎ,求めを具体的にして,霊の目がさらに開くようにと祈って,従いつづけましょう。