8月2日の礼拝音声ファイルです。
最後の頌栄です。
2020年8月2日 聖晩餐式礼拝 式順
前 奏
神の招きと賛美
司会者:主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会 衆:主の恵みがありますように。
司会者:さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会 衆:感謝の歌をもって,御前に進み行き,賛美の歌をもって,主に喜び叫ぼう。
一同:主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌 36番 イエスはわがすべて
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書55章6-7節
罪の告白の祈り
会 衆:あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証
司会者: 詩篇32篇1-2節
会 衆: アーメン
平和のあいさつ
司会者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。
みことばの宣教
聖 書 朗 読 マタイの福音書20章1−16節
聖書の話 「恵みに溢れた報い」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 261番 しみもとがも
聖晩餐式
[制定のことば]
牧 師:私たちの主イエス・キリストが聖晩餐を定めた制定のみことばを聞きましょう。
コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞]
[祈 り]
[分 餐]
[一同で祈る]
私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
教会福音讃美歌 272番 みつにまして ひとつの神
祝 祷
後 奏 567番 アーメン・アーメン・アーメン
2020年8月2日 「恵みに溢れた報い」マタイ福音書20:1-16 エペソ6:6-8
序文)先主日の説教の文脈で、永遠のいのちは、自己義認や律法を守ることにより得るのではないこと、神様の恵みの力により得られることを知りました。主イエス様は、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(19章30節)と話を結ばれたのです。このことを例証するために、今朝のたとえ話がなされました。それで結びに「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」(20章16節)と重ねられました。この文脈でたとえを理解しましょう。
Ⅰ たとえ話の理解のために、登場者「家の主人」は天の神様、「監督」は主キリスト様、「労働者」は神の国の働き人。「ぶどう園」は神の教会と考えて、たとえの内容を検討しましょう。
1 家の主人は「朝早くから」働き人を探して出かけました。天の御国のために熱心に神はお働きになっている。市場に着くと、労働者と契約します。働き場はぶどう園である。1日一デナリを支払う。一デナリはこのころ支払われていた労賃でした。早朝から雇われた労働者は一デナリの約束でした。全く普通の賃金でした。次に午前九時に雇われたちには「相当の賃金を払うから」と約束しました。その後、十二時ごろ、午後三時ごろ、午後五時ごろ(日没直前)に雇われた人たちには、賃金のことは何も言われていません。何も仕事がないよりも、わずかでも働きがあることをよしとしなければなりません。ただ働きということはないでしょうから。
私は神学校を卒業した時、在学中から奉仕していた横浜市南区中村町の福音教会で伝道師をしながら、同所にある福音診療所に住み込みの仕事をしました。その頃、受診してくる患者さんたちの多くに、港湾労働や工事現場労働の方々がいました。彼らは、隣町の寿町2丁目にある、かながわ職業安定所(現在は労働プラザと言う)を中心に日雇い労働をしていました。早朝に、プラザの広場に立ちんぼしていると、手配師がトラックで次々と来て、その労働者を十数人ずつ雇い荷台に載せて行きます。労働者は港湾労働や、公共工事現場に連れて行かれます。夕方にはその日の賃金を得ることができるのです。朝早く一定の時間帯しか手配師は来ません。仕事にありつけると、食事代と宿に泊まる費用を1日分は賄うことができました。仕事にあぶれると次の日に期待をかけます。お酒に残りを使うと、次の日仕事がないと悲惨になります。教会に求道者として彼らの中から出席する方々もいました。洗礼を受けた方もいました。幸いにして日雇いでなく、缶詰工場などに定期的に雇われている方々もいました。生活環境はほぼ同じでした。人生の夕方に雇われている方々もけっこう大勢いました。
2 たとえ話に戻りましょう。「夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。』すべての労働者は同じ賃金をもらいました。それぞれの違いは、働いた時間の長さと、働いた仕事の多さです。
Ⅱ 問題は?
1「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが」という点です。
彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』1時間前に来た人が一デナリもらった、自分は早朝から働いた。多くもらえるだろう。普通そう思ってもおかしくないのです。しかし最初の契約は一デナリでした。
主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
主人は言います。約束通りで不当なことはしていない。世間一般の賃金通り支払ったよ。私は最後の人にも、同じだけ与えたい。「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。」「自分のもので(複数形」『私の考え、私の気持ち、私の計画、私の好み、私の決断を左右するすべての要因。』自分がしたいことをする。恵に溢れて、主人は主権的に思うようになさっている。「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」「気前がいい」は直訳「私自身が善である。」神の善性を指している。
「あなたはねたんでいるのですか。」(最新版)「あなたの目にはねたましく思われるのですか。」(旧版)。字義訳「あなたの目は悪いのか」「目が悪い」という言い回し方は「ねたみ深さ」を示す独特な表現。主イエスは、最初の雇われた労働者が持った不満は、主人の側が悪いのではなく、不正はしていないので、雇われた側が「自分の心の目が悪い」のだと諭された。
2 「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
先の者は文脈的に、主の側に最初からいたペテロを中心とした12弟子たち、後のものは、12弟子たちよりのちに弟子になるように導かれた者たちを指すと考えるのが自然。
マタイの福音書を最初に読んだ信徒たち、ユダヤ人を先の者とすると、今読んでいる異邦人である私たちクリスチャンは後の者と取ることもできる。
何を教えられているのか。まず、御国の民は全員同一には扱われていない。いろいろの時間帯で信仰に導かれている。幼い時から、青年期、壮年期、老年期などいろいろである。しかも、地上にある形成途上の御国(教会)での働きは千差万別である。召されている状況に違いがある。
第二に救いにおける永遠のいのちは、その人の働きに依存していない。すべては神の恵みにより、すべての信仰者に等しく与えられている。
第三に、神の働きに対する報酬は、自分と隣人の働き人と比べることではない。神と自分の関係だけを考えるべきです。早く救われて召されて長年、御国のために奉仕しても、それはただ恵みによる。絶対主権者である神の前に決まることである。神の気前の良い恵みに溢れていることにこそ感謝するのです。神の取り扱いに不平不満を持ってはいけない。
第四に、救われて神の子たちとしていただき、御国の民として、完成を待つ者として、全てをあなた自身のうちに成就してくださるお方に、全面的な信頼を寄せるべきです。主を喜びつつ与えられている賜物を発揮して仕え続けましょう。
Ⅲ パウロの言葉をみましょう。エペソ6章6−8節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。」
全生活の根底に、聖書の神様と自分の関係があることを心に明記して、日々を全うしましょう。永遠を視野に入れて、主イエス様からの報いを受けることができるからです。
奴隷たちに主人の目が注がれている時だけ立派な仕事をするのではいけないし、仕事は人の目にはごまかし得ても、絶対にごまかし得ない神の前で生きている者となったから、心から仕えるクリスチャン労働者の確信は、彼の行うどんな小さな仕事も神の目から見て十分に立派であると言われるのでなければならない。神から与えられた仕事を、神のために、神に対して責任を負うという形でする。
牧師のバークレーは次のように勧めています。「この世が絶えず直面し、今日、鋭く直面している問題は、根本的にいえば、それは決して経済的な問題ではなく、宗教上の問題である。私たちは給料を増額したり、労働条件を改善したり報酬を高めたりすることによって人を立派な労働者にすることはできない。もちろん、これらのことを考えて、それぞれの立場から努力することはクリスチャンのつとめである。しかし、それらのことだけが良い仕事を生み出すことにならない。あるいは強い脅迫とか、監督者からの強化とか、懲罰の回数を増加するといった方法によっては、ますます、良い仕事をしなくなるであろう。すぐれた労働意識をもつ秘訣は、神のために仕事をすると言う意識を持つことだけである。自分に与えられた仕事を神のために受け取り、神に見せるためにするときだけ、人は立派な仕事をなしうる。」
6章8節 ここは奴隷の立場とか、主人の立場ではなく、神の立場から、神の審判という観点からのことばがある。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」(マタイ16章27節)。神の御前に奴隷も自由人も絶対的区別はない。ひとしく公平な量りの上に置かれている。 地上で奴隷対主人という対立的に見える関係でも、聖書では「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」(第一コリント7章22節)とあり、主にある奴隷は主に属する自由人、主にある自由人は、主に属する奴隷と。神の前で来るべき世では、この差別は消失する。
地上では肉の主人が与える報いには立場による差別があります。しかし、天の主人、霊の主人、神のくださる報いは、主人とは誰か、奴隷とは誰かでなく、心から神の御心を行ったのは誰かが問われて、それによって報いがくだされる。地上の主人の報いは一時的ですが、霊の天の主人がくださる報いは「わたしの喜びに入ってくれ」と言われるように、神の喜びに与る永遠の報いであります。キリストの法廷では、奴隷、自由人を問わず一人一人がその働きに従った報いをキリストのみ手から恵みに溢れて受けるのです。
結び) [第二テモテ4章5-8節]
「けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」