9月13日礼拝の音声ファイルです。
2020年9月13日礼拝式順
前 奏
招きの言葉 使徒の働き 2章42節
さ ん び
さ ん び
開会の祈り
主 の 祈り
教会福音讃美歌 66番 朝日は昇りて
聖 書 朗 読 マタイの福音書 21章12-17節
聖書の話 「祈りの家」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 239番 聖なるみ神は
献 金
報 告
とりなしの祈り
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
2020年9月13日「祈りの家」マタイ21:12-17
序文)今朝の話は、主イエス様がエルサレムに入城された次の日に起こったことです。イエス時代に存在していたエルサレムの宮―神殿での出来事です。この神殿は紀元70年にユダヤの反乱を鎮圧しにきたローマ帝国の軍隊によって徹底破壊され、現在はエルサレムの周りにあった壁の一部分が残るばかりです。イエス時代、立派に存在していた、神殿の庭は異邦人の庭といって、神殿の一番外側にある広い庭をさします。その中へはユダヤ人でも異邦人でも誰でも入れました。そして異邦人の庭の内側に婦人の庭がありました。ユダヤの婦人が犠牲をささげるために来た場合以外は、それから先へは入れないのです。その次はイスラエルの庭と呼ばれ、そこで礼拝者は祭司たちにささげものを手渡しました。一番奥が祭司の庭とよばれ、そこに神殿の建物が建てられていました。
異邦人の庭で、この出来事が起こりました。かつては祈りと礼拝準備の場所であったこの庭が、ささげものを売買する場所となり、その喧騒で、祈りと信仰と瞑想を全く不可能にしてしまいました。
神殿の中での商売行為はイエス時代には元大祭司アンナス一族の営業権利として握られていたのです。ユダヤ人は誰でも一年に半シケル(今の60円)の宮の納入金を宮に納めなければなりませんでした。それは特定の貨幣で納めるので、どうしても両替が必要になったのです。ローマ帝国各地からの巡礼は、ギリシャ、シリア、ローマ、エジプト、フェニキア等の貨幣を持ってきて、半シケルに換えました、手数料は10円でした。また、ハトは犠牲制度と関係しており、傷のないものでなければなりませんでした。宮の外で一対50円でしたが、宮の審査官は必ず何らかの言いがかりをつけたので、宮の中庭で買うようになったのです。それは実に750円もしたのです。元大祭司一族の利権がどれほどであったかがわかります。素朴な巡礼者をだまし、お金を巻き上げ、足もとにつけこむ悪は、まさに強盗のように蔓延っていたのです。
器を持って通り抜けの道として祈りの庭を使用することを禁じられました。しかし人々は礼拝場所を公道として使用していたのです。
Ⅰイエス様の憤りはここに向けられたのです。
イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
イエス様は、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである。」すべての民、ユダヤ人、異邦人、取税人、罪人を問わずすべての民です。誰でも真心から神を礼拝するなら決して差別されない、そのような祈りの家である。イエスは悔い改めと祈りを持って神に近づく礼拝の場を、商売の場にしてしまったエルサレムの指導者たちの悪と実り無き姿に怒られたのです。神殿本来の「祈りの家」としての使命を果たすことを求められ、正されました。教会の存在意義もまたこの点に留意しなければなりません。
Ⅱ イエスの癒しのわざ
主イエス様の神殿のきよめが終わった時に、新しい出来事がありました。それは「また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。」
目の見えない人たちや、足の不自由な人たちが皆、イエスのもとにやってきて、それぞれの必要に応じて癒された。ここの大事なところは「宮の中で」これらが行われたことです。今までの聖書の箇所で、癒しの働きは、街々、村々、家々で行われてきました。ここに書かれている病の人々は、神殿の異邦人の庭まで入ることが許されていましたが、これ以上奥には締め出されていました。一人前のユダヤ人と認められていなかったのです(第二サムエル5:8)。主イエスは彼らを癒されて、神の恵みは彼らこそ受け取るべきであると態度で示されました。
自己利益のために神殿を利用していた人々を拒み、神からのめぐみと憐みを求める人々を受け入れました。神殿は本来神の恵みが注がれる場であったのです。
イエスがこの素晴らしい癒しの恵みを注がれた場は、「宮の中」でした。実はイエスに猛反対して地上から亡き者にしようとたくらんでいたユダヤ教の指導者たちの目が光っていた場でもあるのです。イエスは非常に危険な働きをしたのでした。
Ⅲ 主イエス様への子どもたちの賛美
1 「ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが『ダビデの子にホサナ』と叫んでいるのを見て腹を立て」
当時のユダヤ教の指導者たちは腹を立てた。「イエスのなさったいろいろな驚くべきことを見て」、ロバの子に乗ってエルサレムに入城したこと、神殿をきよめられたこと、神殿内部で病人をいやされたこと、などなどを「見て」、これ以上イエスに自由にさせておく事はできないと考えました。行動を止める理由を、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる、ことに見つけました。ユダヤ教では「子どもたち」は無知の象徴でした。その子どもたちをイエスはたぶらかしている。「イエスはダビデの子」とあざむいている。
子どもたちは「叫んでいる」原語で「大声で叫ぶ」「歓声をあげる」と訳することができる。指導者たちは、エルサレム入場の時に大人も「ダビデの子にホサナ」と叫んでいた時は手出しができないでいた。しかし今は、「子ども」を出汁にして、イエスに屁理屈をつけて訴えることができた。姑息な彼らである。彼らは、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」このような賛美は神にのみ捧げられるはずである。それがイエス、あなたに向けられている。それを黙認している。おかしいと思わないのですか。この主イエス様の態度は神と自分を同列においているということになる。
2 主イエス様の反論
イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
イエス様の答えは「聞いています。」それだけでなく『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」でした。これは詩篇8:2の預言の言葉の引用でした。神は「幼児たち、乳飲み子たち」赤ん坊の口を通して賛美を用意されたと詩篇にあります。ユダヤ教指導者が問題にしている、子どもたち、よりもっと小さい存在までも賛美する能力を神は与えられているのならば、子どもたちが賛美したからといって問題にはならない。当然ではないのか。賛美は神を褒め称える言葉です。
「あなたがたは読んだことがないのですか。」律法学者、祭司たちは、聖書の言葉を全ての問題の解決に用いていた。主イエス様もそうである。聖書を土台にして論争に決着をつけられた。これ以上彼らに拘わないで終わりとされた。
イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
結び)神の家である新約聖書時代の教会は、祈りの家であり、主イエス様の恵みと憐みのわざを求める場であり、赤ん坊までも主を賛美するところです。私たちは、主イエスの側に着く者として、日々の信仰生活を深めて参りましょう。私たち信徒は一人一人、「聖霊の宮」(コリント第一の手紙6:19)であることを覚えて、祈りの家として、自分の心を主に向けて歩を進めましょう。