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2020年12月6日礼拝 音声

12月6日礼拝の音声ファイルです。


2020.12.6
「生きている者の神」マタイの福音書 22:23―32 招詞ヘブル4:1-2

序文)前回 主イエス様が「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と答えられて、納税問題の罠に陥れられることから逃れ、第三の道を示されました。それで逆に、パリサイ人、律法学者たちが窮地に陥ったことを知りました。今朝のところは、サドカイ人たちが主イエス様を陥れるために復活についての神学上の論争を仕掛け、主イエス様を窮地に陥れようとしました。結果は、主の教えに人々が驚嘆したということになりました。これは私たちに復活について同じような思い違いをしていないかという主からの警告でもあるので、正しい復活論をよく学びましょう。

Ⅰ サドカイ人の質問 マタイ22:23-28
その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
サドカイ人はパリサイ人と様々な点で正反対の神学理解と政治的な歩みをしている人々でした。政治上最高権力者と結びつき、世俗主義の信仰と、現代的な合理主義的、唯物主義に徹した聖書理解をしていました。復活はないというのがその一つでした。使徒の働き23章8節「サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。」
 主イエス様と弟子たち、歓声をあげる群衆たちの愚かさを暴露しようとしました。モーセ律法の一節「『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』(申命記25:5-6兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。)を根拠に義理の兄弟の結婚をネタにして、論争を仕掛けたのでした。復活信仰とモーセの律法のこの条項は矛盾すると言っているのです。さらにモーセ律法の目的を破壊するとも言いたいのです。
 復活について当時のユダヤ教の見解は大きく二通りありました。パリサイ派やエッセネ派、一般民衆らは、人の魂は死後も存続し続ける。そしてその霊魂はいつか体を取り戻しす。すなわち復活するとの見解。もう一つはサドカイ派や信仰を否定する人々は、人間は死ねば終わりで体が朽ち果て、何も残らない無に帰する。復活などはない。

Ⅱ 主イエス様の答え 22:29-30
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
1 サドカイ人たちは思い違いをしている。それは聖書も神の力も知らないからである。今日のキリスト教世界の中にも聖書の重要な教えを否定したり、あいまいにしている人々が多くいます、伝統的な教理を軽んじ学ぼうともしないで、そんなばかばかしいことをよく信じているなあーと軽くいなします。自分の知り得た少しの知識を振り回して弁舌巧みに多くの思い違いを深めている者たちです。その原因は聖書と神様の力とを知らない不信仰に根ざしているのです。 
 聖書の教えに対する疑いや否定は、いつも「神様の力」そのものの評価と関連しています。そして「神様の力」を知ることは「聖書」を知ることと結びついているのです。聖書をしり、神様の力を知るという順序と方法をわきまえなければなりません。

2 神様の力を知らない例として、イエス様は復活が起こり人がよみがえるとき、肉体的生活の古い法則はもはや通用しない。よみがえった者は天使のようであり、結婚するとか、出産や死亡すると言う肉体的な事柄は、その中に入っていないと断言されました。人間の性別や男女の結婚は「地に満ち、地を従わせよ」という目的のために、現世界において文化のために神様が与えられた秩序でした。しかし、救われた者たちの数が定まり、誰一人ふえもへりもしない天国では、子供を産むとか結婚するとかは不要であります。ルカ20:34-36「イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、
次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」

3 神様の力を信じる者にとっては、コリント第一15:35-44の新しいからだは不合理でも何でも無いのです。「しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
 復活の世界は主イエス・キリスト様によるいのちの結びにある世界であって、地上的血縁にもとずく世界とは違うのです。
 
Ⅲ 神は生きている者の神。22:31-33
死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。
1 聖書を知らない例:モーセ五書を尊重しそれを根拠に論争を仕掛けてきたサドカイ人に、主は、モーセ五書に記されている復活の根拠を示して反論されました。
出エジプト記3:3-15「モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」
 2 もし族長が死んで無に帰しているならば「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。」となるはずです。ここは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」となっています。このことは、この節が単純に「アブラハムの生きていたころにも彼の神になったし、 イサクの時代にも彼と契約を結んで神になったし、ヤコブの時も彼と交わりを持った」という過去の思いの列挙ではないことを示します。神様は死んだ者の神ではなく生きている者の神様です。単なる過去の思い出ではなくて、今も、生きているアブラハム、今も、生きているイサク、今も、生きているヤコブの神様です。
 神様はアブラハムの神であられたが死がその間を断ち切ってしまったためにアブラハムの神であることを止められた。と言うのではないのです。神様は死を克服してアブラハムの神様になり続けることがおできになる方です。ルカ20:38「 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」
 人の目には、死により先祖が永遠に無に帰したように見えても、人はみな、神に生きる者であります。復活ということが、家族や遺族にとってどうかと言われることよりも、ます神様とキリスト様を仰ぎ見るという、神様との交わりの生活の世界であるという事が大切です。信仰によって、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということにより、まことに素晴らしく、よろこばしい、復活の希望に入っている事を知る者は幸いです。
 結び) ヘブル4:1-2「 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」信仰によってこの復活の希望を自分と結びつける人となりましょう。神様は生きておられ、生きている者の神です。
ヨハネ11:25-26「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

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