12月13日礼拝の音声ファイルです。
ヨシュア3:7-17「『死』のヨルダン川をどうわたるか?:神様が死と直面するとき」
2020.12.13 礼拝 マーク ボカネグラ牧師説教
ヨシュア3章を二回に分けてやることにしましたが、今回は3章の2回目です。前回、私は皆さんに「『死』と直面するときに、私たちはどのように反応するべきでしょうか?そして、クリスチャンにとって、死のあとに、幸せな永遠の命が待っていると言う保証は何でしょうか?」という質問をしました。
そして、その質問に答える前に、神様の存在を信じない人々や神様の御臨在を忘れてしまうクリスチャンのよくある2つの反応について分かち合いました。①パニックに陥いるか、②盲目的な情熱で『死』に突撃するか、という反応です。ある意味、この二つの反応は同じ反応です。どちらも「自分は一人で「死」と向き合う」という強い信念から来ていますし、この二つの反応も深く繋がりがあります。パニックに陥いるとき、あと先考えずに盲目的な情熱で行動してまうこともありますし、盲目的な情熱で行動して失敗すると、パニックに陥いるときがよくあります。それは、神様の存在を信じなかったり、忘れてしまったりする時によく起こる反応だと思います。
前回の箇所では、クリスチャンとして、死のあとに、幸せな永遠の命が待っていると言う保証は神様が私たちと共におられ、私たちに先立って導いてくださる存在であるということをお話しました。まだ海に入った事がないこどもを、父親が初めて海に連れていくように、海が怖いと思っていても お父さんが一緒にいるから、子供は安心して海に入ることができます。同じように、神様が共におられると言うことは『死』に直面するクリスチャンにとって、十分な安心になります。
しかし、それでもまだモヤモヤする方もいらっしゃると思います。パニックに陥りやすい人は、「マークさん、そんなきれいごとを言われても、神様は見えないし、感じないし、御臨在を信じたとしても、まだどうしようもなく怖い事に変わりはありません。」と言うかもしれません。また、常に何か行動したい方は、「マークさん、またまた抽象的なことを言いますね。神様の御臨在の話はいいんですが、「死」は私と私の愛する人の目の前にあります。そして、「死」は容赦なく私たちに突進して来ます。私たちはこんな話を聞いている場合でもないし、のんびりしている余裕もありません。私たちはどうすればいいんですか?」という疑問をもつかもしれません。また、神様を信頼していてもまだモヤモヤする方は、「マークさん、神様の御業を待ち、期待するのはいいんですけど、私たちは具体的に何を待(ま)てばいいんですか?神様がどういうお方で、どのように働かれるか全くイメージがわきません。ですから、私にとっては、そもそも神様の御臨在により頼むと言う事は難しいです。」という悩みをもつかもしれません。
神様はそのような疑問をすべてご存知です。ですから、今日の箇所をとおして、その三つの疑問に対して応えられると思います。しかし、神様はどの疑問に対しても、同じ答えをされると思います。「安心しなさい。あなたは「死」と直面しない。私の約束のことばを聞くことと、あなたの神である私があなたの「死」とどう直面するのかをただ見ることだけを待ちなさい。」今日の箇所から、その意味を深く理解したいと思います。
最初に、神様は、パニックに陥リやすい人に「約束のことば」を語られます。前回、神の民にとってヨルダン川は「死」をもたらす存在だと説明しました。ですから、「死」のヨルダン川と向き合っている神の民に、神様はヨシュアを通して、「約束のことば」を語られました。
7「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。
つまり、恐れに縛られている神の民ににこう語っています。「私がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいることを約束する。あなた方がエジプトの「死」の奴隷制度と向き合ったときは、私はどこにいたか?私はモーセとあなた方と共にいて、あなた方の目の前で十の災いを行った。ナイル川を血に(↓↑)変え、エジプト全土にカエル、ぶよ、アブ、バッタを放ち、家畜に疫病を流行らせ、雹を降らせ、暗闇でエジプトを覆い、エジプト人に腫物(しゅもつ)を流行らせ、彼らの長男を全員殺した。あなた方が「死」の海とパロの軍隊と向きあったとき、私はどこにいたか?私はモーセとあなた方と共にいて、私の言葉で海を割り、パロの軍隊を全滅させた。あなた方が「死」の40年間の荒野生活と向き合ったとき、私はどこにいたか?私はモーセとあなた方と共にいて、天からマナを降らせ、岩から水を流し、敵の王国を倒し、この四十年のあいだ、あなたの衣服はすり切れず、足ははれなかった。これはおとぎ話ではなく、変わる事のない歴史的事実を語っているのだ。だから、また言おう。わたしがモーセとともにいたように、あなた方と共にいる。」
神様は過去の話だけを語られたのではありません。神様は9-10節では、「あなた方の生ける神、主のことばを聞きなさい。」と、今、私たちに命じておられます。当然なことをなぜ命令されるのでしょうか?それは私達が、神様を信じながらもパニックに陥いってしまう心の底に危ない考えがあるからだと言えるからです。パニックに陥いるのは、率直(そっちょく)に言うと、自分の神様は死んでいる神、または、動くことも働くこともしないただの偶像だと思っているからなのです。
ですから、神様は21世紀に生きている私たちにこうおっしゃいます。「私は生ける神だ。そして、今あなた方の中にいる。そして私は生きているだけではなく、全地を造り、治め続けている創造主なのだ(11節)。しかし、あなた方は、試練の時、私を見る事が出来ないと言う事だけで、私の存在も、私の権威も否定し、私が何の力もない哀れな偶像のような、死んだ者やおとぎ話の登場人物のように扱おうとするのだ。そして、私よりも、目に見える警察や医者のような、権威を持っている人のことばを信頼しようとするのだ。だから、もう一度言う。私の言葉を聞け。私は生きている。私は永遠の昔から、永遠の未来まで生きている、天と地(↑)の創造主なのだ。あなた方が頼る人間とは比べる事が出来ない程私は永遠に存在しており、完全で限りない権威を持っている神なのだ。私のことばを聞きなさい。」
しかし、それだけではありません。神様は、これから倒す敵の名前をはっきりと、具体的に指して約束されました。ずる賢い占い師のようにあいまいな言葉を使って、抽象的で、一般的な約束はされません。10節で神様はこうおっしゃいます。
生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われる
つまり、神様はヨルダン川の向かい側に住んでいる敵の王国を一つ一つ名指しして(↓↑↑↑↑)、神の民が抱(いだ)いている「恐れ」の一つ一つを倒すことを約束されたのです。それは、ビビっていた神の民にとって大きな励ましだったと思います。しかし、注意しなければならないのは、神様が約束されていないこともあったと言う事です。神様は民に、「痛み」や「苦しみ」のない勝利への道を約束はされませんでした。しかし、たとえ、痛みや苦しみが伴う険しい道であったとしても、神様は「勝利」と「約束の地」と、その地での「幸せないのち」を約束して下さったたのです。
「死」と直面するクリスチャンたちに、神様は同じように命令されます。「私が我が子イエスと共にいたように、あなたと共にいる。恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、 生きている者である。私は終わりの日にこの世の悪とサタンを倒す。終わりの日に死とサタンの王国を滅ぼす。終わりの日にこの世の苦しみ、病気、痛み、孤独、壊れた関係、涙を全てなくす。」と約束して下さいます。私たちの悩みや、恐れていることを一つ一つ挙(あ)げて、神様は私たちに具体的な約束をして下さるのです。しかし、「終わりの日」までの道のりが平たんで、安易な道のりだとは、約束されていません。私達には見えないけれども、試練の時に、神様の御心が知ることができる「約束の言葉」で私たちを安心させて下さいます。それは私たちが今も読む事が出来る聖書であり、、毎週聞いている説教でもあります。
しかし、それだけではありません。神様は私たちと共にいて下さり、私たちに「約束のことば」を語られるだけではなく力強い御業を私達に見せてくださるのです。もちろん、これはパニックに陥いる人たちに安心を与える理由でもありますが、盲目的な情熱で行動する人たちをヘリくだらせると言う目的もあるのです。
Josh. 3:11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている。
契約の箱は神様の御臨在のシンボルです。そして、この一節の意味は、神様ご自身が民の先頭に立たれて、『死』のヨルダン川を渡ろうとされたと言うことなのです。神様はやさしい父親のように、子供に「お父さんも一緒だから、海は怖くないよ。さあ、一緒に入ろう」と言葉だけで言うのではなく、父親は海辺で怖がって立ちすくんでいる子供の先に、海に入って行くのです。私たちが「死」と向き合う前に、神様ご自身が先に「死」と向き合われるということを、言葉だけではなく見える形で私たちに伝えてくださっているのです。
しかし、それだけではありません。
3:13「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上(かわかみ)から流れ下る水がせき止められ、一つの堰(せき)となって立ち止まる。」
神様は「死」のヨルダン川の「岸辺(きしべ)」ではなく、その川のただ中に向かって行かれたのです。旧約聖書では「水」は敵、死、そして、カオスの象徴でした。ですから、神様は敵、死またはカオスのただなかに「とどまられた」ということなのです。神様は危険から遠く離れたところから私たちを導くようなことはされません。15節を見ると、その時期はヨルダン川の水かさが最も多い時期でした。私たちの王である神様は、あえてご自分の身を一番危ないところに置かれ戦いの最後尾(さいこうび)ではなく、最前線に立たれて、私たちの先に立って進まれるお方なのです。
しかし、神様は「水」に圧倒されることなく、川上から流れ来る水をせき止められました。「せき止める」と言うヘブル語は「切る」と直訳することもできるので、出エジプトのように、神様が敵であり死またはカオスである「水」を斬り倒されたという意味も含まれています。神様は、形もなく制御不可能なカオスの渦(うず)のような洪水を、まるで子供が積み木でタワーでも作るように、容易く(たやすく)制御し、操り(あやつり)支配されるのです。
神様は、ご自身の業によって怖がる民を安心させることも当然おできになりますが、海の恐ろしさを知らないのに海に入りたがる子供のような、盲目的な情熱で行動しようとする民をヘリくだらせることもおできになります。
「あなたは私が水を操るように、自分の力で「死」を操ることができるのか?私の先に立って、一人でこの恐ろしい「死」と向き合うよりも、私の背後で待ったほうがいいのではないのかい?静まってただ私を見なさい。」と神様は恵みをもって、強く私たちに注意してくださるのです。
しかし、まだモヤモヤする方がおられるかも知れません「うーん、これは昔のいい話だけど、21世紀の現代にいる私には、あまりイメージがわかないなぁ。」という方もおられると思います。その「モヤモヤ感」を解消するには、神様が歴史の中でなされた御業を思い出す必要があります。
Josh. 3:16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
この説明を読むと、神様のこの御業は比喩ではなく、当時のカナン人が知っていた具体的な場所で行われました。ベイタウンに住んでいる人に例えると、「神様はバレンタイン通りを渡ったが、ヤマザキとヤマハの間にあるクリーニング屋さんの手前から、Leonidasのチョコレートのお店のところへ渡った」というようなことです。そのような例えでは、ベイタウンに住んでいない人たちにとっては、ちんぷんかんぷんかもしれませんが、ベイタウンに住んでいる人にとっては、具体的に想像できますし、「えっ?神様がそこを渡ったの?」と驚くと思います。これは単なる妄想や、高画質のファンタジーの映画でもない歴史的な事実なのです。ある意味、モヤモヤしている余地などありません。神様ご自身が、あなたが向き合っている「死」と向き合っておられると言う事実を受け入れるか、否定するかしかないのです。
21世紀に生きている新約時代のクリスチャンたちは、ヨルダン川を渡ろうとする神の民と似たような立場に立っています。私たちはカナンへ向かってはいませんが、天の「約束の地」である天国へ向かっているのです。私たちは、人生という荒野で何年も寄留しているのですが、約束の地へたどり着くためには最終的に「死」というヨルダン川を渡る必要があるのです。神様はまず、私たちを安心させるために、私たちに「約束のことば」を語ってくださいます。神様であられるイエス様は約束して下さいました。「あなたが、もしこの世の苦しみを恐れているのなら、私の過去の御業を思い出しなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死んだ者たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている。この世に寄留している者にとって、私はいのちの水であり、いのちのパンでもある。あなたがこの世で困難や孤独感で混乱する時、私は良き羊飼いとしているのだ。私は今まであなたと共に歩んできたように、あなたと共に死の陰の谷を歩み、あなたを緑の牧場(まきば)に伏させ、いこいのみぎわへ導く。もし死を恐れているのなら、私はよみがえりであり、いのちでもあるのだ。私はあなたに先立って、死と向き合って十字架で死んだ。そして、あなたが「死」のヨルダン川を渡れるように、私は三日後に蘇ったのだ。これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためである。世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのだ。」パニックに陥りやすい私たちに、神様は約束のことばを与えてくださったのです。
その後、神様は実際に私たちの「死」のただ中に飛び込まれました。イエス様は神様でありながら、限界のある人間となられ、低い状態にまでヘリくだり、この世の悲惨と苦しみを味わわれ、サタンと社会の悪者(わるもの)から迫害を受けられました。そして、神の怒りと十字架ののろいの死を忍ばれ、実際に死なれ、しばらく死の力のもとに留まられました。王であるイエス様は私たちに先立ち、御自分の身を私たちと「死」の間に置かれたのです。そして、イエス様は三日後に蘇られました。形もなく、制御もできない、洪水のような「死」を、イエス様は簡単に「死」を蘇りで斬り倒され、ご支配し、御自分の思いのままに操ることがおできになりました。盲目的な情熱で自分たちの道を歩もうとする人たちにとって、イエス様がなさったことは私たちの力をはるかに超えています。ですから、常に盲目的な情熱で行動してしまうような私たちは「死」に直面しても、静まって、焦らずにイエス様をただ仰ぎ見て、より頼むことができるのです。
そして、イエス様が「死」のヨルダン川を渡られたこと、つまり、死から蘇えられたことは抽象的な比喩でもなく、ファンタジーにおけるいい話でもない、歴史上に起こった、想像を絶する出来事なのです。
1世紀のクリスチャン、キリスト教に強く反対していたユダヤ人、そして、中立な立場であったローマ人は、五つの歴史的事実を証明しています:①イエスという人物が生きていたこと。②イエスが自分のことを神様だと主張したこと。③イエスが十字架に掛けられ、実際に死んだこと。④イエスの遺体が葬られたこと。⑤三日後に、イエスの遺体がなくなっていたこと。この五つの事実は徳川家康が実際に生きていたと同様の歴史的事実です。そして、これは信仰をもっているか否かとは関係なく、誰にでも確認できる事なのです。1世紀の当時の人々にとっても、「蘇り」と言う事は、21世紀にいる私達と同様に、おとぎ話のようなことでした。しかし、イエス様が葬られた三日後に蘇られた出来事が、具体的に書き記されており、何百人ものクリスチャンが死から蘇られたイエス様を目撃したのです。この歴史的事実に基づいて、イエス様はこう約束されました。「もし私にあなたの人生を委ねるなら、あなたは私と全く同じように蘇る。」他の宗教は抽象的な希望や約束、不確かな幸せや祝福、なまぬるい「平安」を約束しますが、キリスト教はそのようなことを約束しません。神様は、歴史的事実に基づいて、死に向かっている人たちに、体と霊の蘇りを具体的に約束されます。そのような約束をする宗教や世界観はないと思います。なぜなら、他の宗教には歴史の中で海を割ったり、死から蘇ったり、私たちと共に生きてくださる、全知全能の神様がいないからです。
神様が最終的に私たちに求めておられるのは、「死」に立ち向かわれる神様についていくことだけです。
Josh. 3:17 主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。
私は、この一節がキリスト教の信仰の本質を描いていると思います。私たちの恵み溢れる神様は、私たちに先立って、この世の苦しみ、痛み、カオス、死のただ中へ入り、そのど真ん中で立ち止まられます。しかし、信仰というのは、「花火大会」に行って、安全な岸辺に座って「わー!神様すごい!」と言いながら、見物(けんぶつ)することではありません。「死」のヨルダン川のただ中におられる神様の後に従い、「死」を通して「天」の約束の地まで渡ると言うことが信仰なのです。
もちろん、これは恐れ大いことですが、神様は二つの約束をして下さいました。一つは、神様は「乾いた」道を用意して下さると言う事です。つまり、イエス様の蘇りを信じる人は、「死」を通りますが、死の「とげ」、死による「破壊」、死による「敗北」は全く経験しません。死は約束の地までの単なる「通過点」なのです。もう一つは、神様が最初に「死」のヨルダン川に入られ、最後まで「死」のヨルダン川に留まってくださると言う事です。イエス様は、十字架で死なれたとき歴史上初の神様の裁きを受けた人間になられたのです。そして、その死から蘇られた時、歴史上初の、蘇った体で天国に入った人間となられたのです。しかし、イエス様は私たちを置き去りにはされませんでした。私たち一人一人が、「死」のヨルダン川を渡るために、御霊を送ってくださり、私たちのペースに沿って、一人一人を乾いた道へと導いてくださっています。そして、私たちが死んで天国に入っても、イエス様の業は終わっていません。私たちの残されたキリストにある兄弟姉妹をも、一人一人導いてくださるからです。ですから、私たちは安心してイエス様についていけるのです。
ここで、もう一度お聞きします。私たちは死と向き合う準備をしているでしょうか?私たちには三つの選択しかありません。パニックになって全てをあきらめて、、分と愛する人たちが死に飲み込まれる事実からむやみに逃げようとするか。または、死の力も自分の無力さも無視して、愛する人たちと共に死というブラックホールへ突進していくか。または、すでに「死」のヨルダン川に留まっておられるイエス様に自分と愛する人たちの「いのち」をお任せするか。その三つの選択肢しかありません。あなたがクリスチャンであるなら、感謝なことに、例え私たちが怖がっていても、盲目的な情熱だけで行動したとしても、イエス様は私たちを「約束の地」まで無事に導いてくださいます。私たちの罪深い心よりも、イエス様の救いの方が強いのです。イエス様の御力と恵みにより頼みつつ、イエス様の後についていきましょう。お祈りします。