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2020.2.16 音声


2020年2月16日 マタイ16:16 第一ペテロの手紙2章22節
「神の子の性質」 その二(無罪性と弱さ)


(序文)救い主イエス様の神の子としての性質はどのようであったかを学んでいます。今朝は,イエスの無罪性と人としての弱さについて聖書が語るところを調べてみましょう。父なる神様が,私たちの罪を御子に身代わりに負わせられたのは,イエス様が無罪だったからです。同時に人として弱さを負っておられました。どのように聖書は説明しているのでしょうか。
 
Ⅰ 聖書のことば
1 ヨハネ6:69−ペテロはキリストのことを神の聖者と呼び,Ⅰペテロ2:22で「キリストは罪を犯したことがなく,その口に欺きもなかった」と主張している。
 ヨハネもⅠヨハネ3:5「この方のうちに罪はありません」と断言し,ヘブル書の記者は7:26「このような方、敬虔で、悪も汚れもなく,罪人から離され,また,天よりも高く上げられた大祭司こそ,私たちにとってまさに必要な方です。」ヘブル4:15「私たちの大祭司は,私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが,すべての点において,私たちと同じように試みにあわれたのです。」9:14「キリストが傷のないご自分を,とこしえの御霊によって神におささげになったその血は,どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ,生ける神に仕える者にすることでしょうか。」と記しています。
 
パウロはⅡコリント5:21「神は,罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」と語っている。イスカリオテのユダもマタイ27:4「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」と語り,ピラトの妻も夫に「あの正しい人と関わらないでください。」マタイ27:19と忠告した。
十字架上の強盗は「だがこの方は、悪いことを何もしていない。」ルカ23:41と告白した。
 
 そしてイエス御自身ヨハネ8:29「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは,その方が喜ばれることをいつも行うからです。」8:46「あなたがたのうちだれが,わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら,なぜわたしを信じないのですか。」と,キリストは自分の性格の欠点をさがすのに最も熱心な者たちに挑戦された。これに対する相手の答は8:48「あなたはサマリヤ人で悪霊につかれている」,というものでした。
 
2 罪は咎(guilt)と不潔(pollution)を含んでおり,この両方に対する主イエス様の無罪性が言われている。咎は人格を対象とする法律的な判決であるから,キリストの人格がアダムの子孫としての人間人格でなく,神の第二格位であるから当然無罪である。キリストの人格は受肉によって神的人格の個有性が人的人格に変化したとか,創造主的人格が被造物的人格へと変化したわけではない。しかし,不潔,腐敗は性向,性質を対象とする怒りと呪と罰の実質的結果であるので,キリストの受肉された人性そのものの本質が,聖いか汚れているか,腐敗しているか聖化されているかが問題となります。
 
3 ローマ・カトリック教会は,母マリヤがイエスを胎内にみごもった瞬間から原罪のあらゆる汚れより守られた,と教える(マリヤの無原罪懐胎1985年12月8日告示)。
 改革主義の信仰は,マリヤの有罪性を認め,イエスの受肉した人性がマリヤのものであることを認め,それが神的人格に結び付いたことを認めるが,これにより人性が神化したと考えるルター派にたいし,この結合における聖霊の働きに注目し,その聖化活動の完壁であることに目をとめる。
 
「イエスの処女降誕はこの聖霊の超自然的活動があったからこそ可能だった。この活動は二重であった。
(−)聖霊はマリヤの胎に宿ったものの有効原因であった。かくてその有効原因である男性の活動を排除した。この点は生まれた方が人的人格でなく神的人格であられ,それゆえに,その方は業の契約の当事者の一人でなく,したがってアダムの罪の咎を負いたまわぬことと完全に調和する。
(二)聖霊はキリストの人性をその根底から聖化したもうた。それによって,その人性は全く罪の汚れを含まぬものでありえた。
われわれは,聖霊がこのような聖化の働きをどのようになしたもうたかについては何も知らない。あたかも,それは両親からその子にどうして罪の汚れが遺伝するのかを知らないのと同じである。唯,明らかなことは,聖霊の特別豊かな聖化活動は,ただイエスの受胎出産の時だけでなく,その地上の全コースにおいても継続したのであると言うことだけだ。」(ベルコフ:組織神学)
 
Ⅱ キリストの人間性の弱さについて考えてみよう。
1 聖書はキリストの人間性の弱さについて語っている。
ヨハネ4:6「イエスは旅の疲れから,井戸の傍に、ただ座っておられた。」
マタイ4:2「四十日四十夜,断食をし,その後で空腹を覚えられた。」
マタイ21:18「朝早く都に帰る途中,イエスは空腹を覚えられた。」
ヨハネ19:28「『わたしは渇く』と言われた。」
 
ヘブル2:18「主は,自ら試みを受けて苦しまれたからこそ,試みられている者たちを助けることができるのです。」
マルコ13:32「その日,その時がいつなのかは,だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。」
ヨハネ11:34「『彼をどこに置きましたか』と言われた。」等。
また,祈りにより父なる神から力を受けておられた。
マルコ1:35,ヨハネ6:15,ヘブル5:7等。
 
「キリストの完全な無罪性を仮定した上で,もしすべてにおいてでないまでも,少なくともある点において誘惑を可能にするのに役立つような,どんな要素がキリストの中にあったであろうか。この問について考えるとき,ただちに,彼の人間性の肉体的な弱さを思い付く。飢えと渇き,楽しみと苦しみ,希望と恐れ,喜びと悲しみを味わうことのできるものは,皆,誘惑をまぬがれえない。
 
ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
 
何故なら,その人は悪を行なうか,それとも,それ自体は罪のないものであっても,自分の欲望あるいは,愛情を満足させることを拒むか,という選択をしなければならないような環境におかれることがあるからである。」(ブルース)
 
2 イエスは人間性の弱さを持っておられたが,聖霊の働きにより罪を犯さなかったのである。そして弱さをもって地上を歩み,救いのわざをなしとげてくださったのである。キリストが罪をほかにして我々と同質と言われる時,キリストの人性とペテロの人性に相違があることを考えない者は誰もいませんが,このことはどう説明されるか。
 
ルター派は,すぐに『イエスの人性には神性の属性が交流している。』(次主日に説明します)と答える。
改革主義の信仰は,その相違点はイエスは無罪なる人性であるが,ぺテロのは罪のうちにある人性であると説明する。カルケドン信条の告白が尊重されている。
 
キリストの人格について,これまでに,彼の人格に結合,あるいは統一された要素が,二つの区別された実体・人性と神性であること,また人性はわれわれ人間を構成しているのと同じ実体・本質をとり,神性は神の無限,永遠,不変の完全な実体そのものを保持していることを考えた。
 
Ⅲ 次に考えるべき事は,この結合が,混合によるものではなく,それ故に,神性でもなく人性でもない両方の特質を持っている第三の実体が生れたのでない,という点である。
神人性の特質を第三物に混合したと考えることは不可能である。この両性質の特質は調和しがたいものであるからだ。
私達は混合した心や物質,心でもないし物質でもない霊的物質である一つの実体を造るようなことはできない。
 
何故なら,それは矛盾である。それは,拡張しえない拡張,見える見えざるものにあたる。キリストの人格は神人両性的であるが,その性質はそうではない。なぜなら,有限な無限,無限な有限が造られるからである。彼は,神だけでも,人だけでもない。聖書はたえず彼を人と神の両方であると宣言している。それで,すべてのキリスト教信条において,キリストの二性は各々,それ自身の特質と属性を保持していることを宣言している。
 
それら全ては,性質が混合されていないと告白している。カルケドン信条はまさにその典型である。それゆえ,人的体が物質としての特質のすべてを保持し,また魂がその統一の霊として私達の人格のうちにおいて全てその属性を保持しているように神人性は,それぞれそれらの統一における特殊な特質をキリストの人格のうちに保持している。
 
知性,感覚,意志が魂であることをやめてしまうことなしに,人間の魂の特質であるとき,キリストの人間的魂(human soul of Christ)は,その知性,感覚,意志を保持していることが結果として続くのである。しかし知性と意志はそれにもかかわらず神的性質の本質的特質である。それ故,その統一の後にも,それらはキリストにある人性とともに保持されたのである。それ故,キリストが真の人で,真の神であるという教えにおいて,聖書は彼が有限の知性と意志を持ち,また無限の知性を持ったことを教えている。
 
彼には二つの意志があったし,今もある。また,二つの力があったし,今もある。彼の人的知性は増加したが神的知性は無限であったし,今も無限である。彼の人間的意志はただ人間の力をのみ持っていたが,神的意志は全能であったし,今もそうである。
 
(結び)それでウェストミンスター信仰告白8章2項「・・・そこで十全なそして異なった二つの性質,すなわち神たる性質と人たる性質が,移質,合成,混合なしに,ひとつの人格の中に,分離できないように結合されている。」と告白しているのである。
 次主日は二性質が結びつくことをどの様に告白できるかを学び、「生ける神の子キリスト」の説明を終わります。
 
 

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