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2020.2.23 音声



2020年2月23日 マタイ16:16 第一ヨハネ1:1-3 
「神の子の性質」その三 (二性の結合結果)
 
序文)先週,イエス・キリストのご性質が人間性を取った時から,聖霊の守りのうちに無罪性質を持ち続けていたことを学びました。その際に,神たる性質と人としての性質がどのようなあり方をしているかについて説明を保留しました。今朝その課題を考えましょう。
 
Ⅰ 一人格における二性の結合の結果
1 キリストの神性に本質的変化はない。これはウェストミンスター信仰告白8章「仲保者キリストについて」2項「・・・そこで十全なそして異なった二つの性質,すなわち神たる性質と人たる性質が,移質,合成,混合なしに,ひとつの人格の中に,分離できないように結合されている」の第二ポイントにあたるもので,イエス・キリストの神性と神との課題は三位一体の教理において教示されており,父と同一本質,同等なるお方である。神性は人の性質を取ったことにおいて(受肉)、いかなる本質的変化もこうむらなかった。受肉したロゴスは受肉以前に持っていた全ての特質をそなえておられる。それ故,この神性は,苦しみと死に対して無感覚であり,無知から自由で,弱さと試みに対して非感受的である。受肉は人格的行為である。神性が人間の肉をとったのでない。彼の所有した人性ゆえに救い主は無知で,弱くなられ,試みられ,苦しみ,死にたもうたのである。神性は常に不変である。
 
2 三重の交流が結果した。
A 属性または本性の交流
これは一つの性質が他の属性に分与したことをさすのではない。単にそれは人格が両性質の属性を保持しているということである。キリストの人格は全能であるといわれうるし,また有限の能力を持つともいわれうる。彼は不死であるし,また,死にたもうともいえる。全知であるといえるが,同時に知識において有限でありたもうともいいうる。彼は永遠から存在しておられたが,同時に時間の内に生れたもうたといえる。彼は全ての物を創造したもうたが悲しみの人であった。どちらかの性質について真理であることは,人格についても真理である。そして,属性の交流というとき,神性の属性の何か特殊なものが人性に交流されたとか,人性の属性の何か特殊なものが神性に交流されたという意味にそれを理解してはならない。神性の人間化,人性の神化をそれは意味しない。神は人間の弱さに分かたれることは出来ないし,人間は神のいかなる完全性にもあずかることはできない。有限は無限をとらええない(finitum non capax  infiniti)という原則が考慮に入れられるべきである。
 
B 行動の交流
これは,キリストの贖罪的業が彼の全人格のわざであることを意味している。人間の業(わざ)は三つの段階があり,一つは思想のように純粋に理性的なものであり,第二は消化や吸収のように体に占有的に属しているのもあり,第三は,全ての意志的行為のように話したり書いたりすることで理性と肉体の両方に混合しているものがある。しかし,これらは,全て等しく人間の行為である。それは考える人間であり,消化する人間であり,話す人間である。これと同じようにキリストの行為について,あるものは純粋に神的で,創造や保持のようなものがあり,また,食べ,飲み,眠るといった純粋に人間的なものもある。また,贖いの業におけるように両方の性質が同時に起こっているような神・人(しんじん)の行為もある。しかもなお,これら全ての行為はキリストの行為である。
 
C 恩恵の交流
キリストの人性は,その存在の発端から,あらゆる種類の豊かにして栄えある賜物をもって盛装された。人性は神的・人的に合一されたものの恩恵と栄光に参与して祈祷と賛美の対象とさえなる。さらに,人性は聖霊の賜物,すなわち,特にキリストの人性が,それによって全て他の知的被造物を凌駕したところの知性と意志と能力などの賜物に与かる。
 
Ⅱ 神・人(しんじん)なるイエス・キリストは最高の礼拝の対象である。
キリスト者がイエス・キリストを礼拝の対象とするということは,かならずしも,イエスにある人性,すなわち被造物を崇拝する偶像崇拝だとはいえない。私たちの礼拝を捧げているのは,人性にそのような栄誉があるからではなく,神のロゴスの人格・イエス・キリストの人格を拝しているのである。礼拝の対象として属性を拝しているのではないのである。その対象に,神的完全性を帰する故に礼拝するのである。
使徒たちは,彼らの主・神として神・人(しんじん)なるイエス・キリストを拝し,しかも,彼らは見たり,手でさわったりして,愛したのである。(第一ヨハネ1:1−3)
 
Ⅲ ウェストミンスター信仰告白8章「仲保者キリストについて」残りの項目を学びます。
1 三項「主イエスは,このように神性に結合された彼の人性において,限りなく聖霊をもってきよめられ,また油そそがれ,ご自身のうちにすべての知恵と知識の宝があった。み父はすべての満ち足れる徳が彼のうちに宿るのをよしとされた。それは,きよく,傷なく,汚れなく,恵みとまことに満ちて,仲保者と保証人の職務を遂行するために完全に備えられるためであった。この職務は,彼が自らとられたのではなくて,み父の召命によるのであり,み父が彼の手に一切の権能とさばきを委ねて,彼にそれを遂行するように命じられたのである」
 すでに,人性の課題については,先の項でとりあげた。
 主イエスが仲保者と保証人の職務を遂行するために,あらゆる点で完全にみ父によって備えられたこと,この職務にみ父により召され,命じられたことが告白されています。「神がお遣わしになった方は,神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(ヨハネ3:34) 。
 キリストが三位一体という神の本質的なありかたにおいては,父と聖霊との関係で従属関係はありません。三位においては同等です。しかし,この節でいわれていることは救い主としての職務を果たすにあたり,み子はすべて父の命令に従い,父が与えられる恵みと賜物によって,これを果たされるのです。職務上の従属関係です。
 
2 四項 「主イエスは,最も快くこの職務を請け負われ,それを果たすために律法のもとにおかれ,律法を完全に成就された。その霊魂において,最もひどい苦しみを直接的に忍び,その肉体において,最も苦しい痛みを耐え,十字架にかけられて死に,葬られて死の力のもとに留まられたが,朽ち果てなかった。受難されたのと同一のからだで,三日目に死人の中からよみがえり,そのからだをもって天に昇られ,み父の右に座して,執り成しておられる。そして世の終わりに,人間とみ使いをさばくために再来される。」
ここは,キリストが仲保者の職務を自発的に引き受けられたことをまず告白している。強制されたのでなく,自分からすすんで,喜んで引き受けてくださった。それを果たすときに律法のもとにおかれて積極的に服従された。それは,罪なきキリストが,最初のアダムが守れなかった業(わざ)の契約を完全に履行するものとして歩み、その結果、約束の永遠の命を受けられることを示している。
また,後半の『最もひどい苦しみ−−−−−』のところでは,消極的に服従されたことを告白している。アダムとその子孫によって犯された人類の罪の罰として,この世と永遠における肉体と霊魂の両方に対する受苦,すなわち律法の呪いとなられたことを示している。肉体も霊魂も共にマリヤより得た人間性であって,神性が受難にあわれたわけではないのである。積極的服従も消極的服従もキリストと律法との関係でみたものです。
 
次に,キリストの謙卑と高挙の状態について見てみましょう。誕生から葬りまでが謙卑です。復活から再臨までを高挙といいます。これもキリストと律法との関係でいわれているのです。ウェストミンスター小数理問答27,28問でこの点がのべられている。
 
             受           復
      先在のみ子  肉           活  高挙の状態
 
                 謙卑の状態
 
3 五項 「主イエスは永遠のみたまによって,ひとたび神にささげられたその完全な服従と自己犠牲により,み父の義を全く満たされた。そして和解のみならず,天国の永遠の嗣業を,み父が彼に与えられたすべての者のために買いとられた。」
キリストは,どんな救いを,誰のために,どのようにして買いとりたもうたかが告白されている。救いの内容の中で、ここは,罪のゆるし,和解という面だけではなく,永遠の嗣業をも含むものとして積極的な面を主張している。アダムにおいて犯された罪が赦されたのと,アダムが獲得に失敗した永遠の命をも人として得てくださった。誰のためという点では「み父が彼に与えられたすべての者」とありキリストは選ばれた民のために死にたもうたのである。どのようにして買いとりたもうたか,十字架に集中的に示された完全な服従と自己犠牲により,み父の義をまったく満たされることによってである。
 
4 六項 「あがないのみわざは,キリストの受肉後までは,彼によって実際にはなされなかったのではあるが,それでもその徳力と効果と祝福とは,世の初めから引き続いて,いつの時代にも,約束・予型・犠牲の中に,またそれらによって選民に伝達された。そこにおいて彼はへびの頭を砕くべき女のすえ,世の初めからほふられて,きのうもきょうもいつまでも変ることのない小羊として啓示され,表象されていた。」
キリストのあがないのわざは,彼の受肉に始まるが,その恵みは世のはじめから引き続いており,恵みの契約に基づいて選民に及んでいた。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)とある通り,その時からキリストの祝福が与えられていた。「恵みの契約の当事者として,キリストは贖罪の事業を完成するために受肉されたのであるが,すでに契約的には,その祝福を確保しておられて,これを分けあたえられたのである。よって,旧約時代にも真正なキリストの教会が,不可見教会として実在していた。イスラエルの集いも,ユダヤ教のシナゴグも,新約時代の地上的キリスト教会と同じ役目を不可見教会に対して果たしつつあった。異邦人キリスト教会は,オリーブの木につぎ木されたのであり,新約時代以後のユダヤ教会はオリーブの木より切り捨てられた枝である。」(岡田 稔)
 
5 七項 「キリストは,仲保のみわざにおいて,両性に従って行動される。それぞれの性質により,それぞれに固有なことをされる。しかし人格の統一性のゆえに,一方の性質に固有なことが,聖書ではときどき,他方の性質で呼ばれる人格に帰されている。』
  この項目は,先週、キリストの二性一人格のところで詳しく論じた。
 
6 八項 「キリストがあがないを買い取られたすべての人々に対して,彼はそれを確実有効に適用し,伝達される。それは,彼らのために執成しをし,救いの奥義をみ言葉において,み言葉によって,彼らに啓示し,みたまによって信じ従うように有効に彼らを説得し,み言葉と みたまによって彼らの心を治め,彼の不思議な,きわめがたい配剤に最もよく調和する方途で,彼の全能の力と知恵により,彼らのすべての敵を征服することによってである。」
救いの確実,有効な適用,伝達について告白している。また,ここは聖霊の働きについての序論ともなっている。み言葉と聖霊による救いが主張されていて,改革主義信仰の大切な主張となっている。私たちが救われるのは,聖霊のみ業であり,恵みであることを十分正しく認識するには,その聖霊,その恵みがキリストの聖霊であり,すなわち,死にてよみがえり,天に昇り神の右にいますキリストの聖霊であり,恵みであることを知らなければならない。「わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16:7)とあるように聖霊を信じるのです。生けるキリストという信仰は聖霊のみ業として受けとめなければなりません。
 
結び)ヨハネの福音書 20章31節
「これらのことが書かれたのは,イエスが神の子キリストであることを,あなたがたが信じるためであり,また信じて,イエスの名によっていのちを得るためである。」
 
                   
 
 
 
 

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