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2020年4月5日 礼拝 (録音音声あり)




2020年4月5日「聖晩餐に与る準備 」ルカ22:1-23
 
(序文)主イエス様の地上生涯最後の晩餐が、今朝の記事にあります。木曜日の出来事です。それは過越の祭りと、種なしパンの祝いという、ユダヤの歴史にとって大切な宗教行事のさなかに起こりました。
過越は昔イスラエル人が、エジプトからモーセによって導き出される時の最後の夜の出来事を記念しています。主がエジプトにいる人々と獣の初子を全部打たれるときに、小羊の血を家の入り口のかもいと二つの柱に塗りつけるように命じられました。天の使いが、血をぬってある家々を過越、民は腰をひきからげ、手に杖を取って、救出を待った時の記念でした。
 
Ⅰ 7-13節 過越の食事の準備
1 この食事は家族全員で食し、必要な準備すべき品物は次の通りでした。
[小羊] 人々に死の天使がエジプトの家々をおそった時、小羊の血の印により守られたことを示す。
[種入れぬパン] 当日の夜、奴隷から解放される時、大急ぎで食べたパン。
[鉢の塩] エジプトで流した涙と奇跡的に渡って助かった紅海の水を示す。
[にが菜] エジプトの奴隷の苦み。
[ハロシェスという練り物] リンゴ、ナツメ、ザクロ、ナッツなどを混ぜたもので、エジプトで造らなければ成らなかった煉瓦の泥。
[4杯の葡萄酒] 神の4つの約束
「わたしは主である。わたしはあなた方をエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。」出エジプト6:6-7。
 
すべての部分が神の偉大な奴隷解放の日を物語っていた。
イエス・キリスト様はご自分が真実の意味で過越の小羊となられる日が来たことを示されました。私たちの罪のために十字架にかかり血を流して身を裂かれ、その苦しみを通して一人一人を罪の奴隷から解放するため最後を迎えようとしておられました。そして、弟子たちと共に、過越の食事をなさることによって、その席上、まことの過越が天国で成就すること、その日にはイエス・キリストを信じる者たちが、その血によってゆるされ、きよめられたものとして完全な救いにあずかることを教えられました。そのために小羊としてのイエス・キリストが、これからいよいよ体を裂き、血を流す最後の時を迎えていることを弟子たちにはっきりと示されたのです。
 
2 この大切な教えのために、場所の用意を主はなさっており、ペテロとヨハネをそのために遣わされました。二つの事を言われました。「水がめを運んでいる男」「弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。」二人が町に入って行くと実際にその通りのことが起こった。水がめを運んでいる男、これは前もってイエス・キリスト様が過越の食事の場所を準備しておかれ、場所を貸してくれる男に合図として定めておかれたと考えることができます。水がめを運ぶのは、当時は女性の仕事であって男は決してしなかった。だから町の中で男が水がめを運んでいるとすぐに目立って発見が容易であった。主イエス・キリストはご自分の死のために、どれほど積極的に用意万端、事を運ぼうとしておられたかがわかります。神の国のために積極的に手順良く、なすべき事をしてゆく心構えが、私たちにも必要です。
 
Ⅱ 14-20節 聖晩餐式
1 主は、地上において弟子たちと最後の過越の食事をされることを悟らせられた。同時に、弟子たちに、神の国が来るときは、再び食卓を囲む希望があることも教えられた。
主は小羊としての死を成し遂げるが、再び共に神の国の宴会につくということによって復活と昇天と再臨の希望を示しておられます。杯が一巡したのちに、イエスはパンを取り、父なる神に感謝をささげてから、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなた方のために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
聖晩餐式のパン。それはありふれたパンです。しかし、このパンに深い意味が込められています。これは、あなたがたのために、わたしが与える、わたしのからだです。主が、わたしのために身代わりとして与えてくださったからだです。ごく普通のパンだが、見る目を持ち、理解する心のある者には、それを超えて深い意味を持ちます。それが礼典(サクラメント)なのです。
皆様の家にも何か大事な記念品があるでしょう。他人が見ても、それらはごくありふれた物です。しかし本人にとっては、捨てることのできない、意味深いものです。そのような記念品は手にとって眺める度に過去のある人や関係ある出来事を思い出させます。
一片のパン。しかし研ぎ澄まされた心の持ち主にとっては、まさしく、キリストのからだであり、自分の罪の身代わりと、赦しを思い出させるものなのです。
 
2 杯については「この杯は、あなた方のために流される私の血による新しい契約です。」新しい契約の血・これは赦しの血です。契約の血です。(ヘブル9:11-15)
このようにして聖晩餐式は、イエス・キリストの犠牲による救い、罪の赦しと解放を現す礼典として定められたのです。それは信じる一人一人が、神様との新しい契約関係に入っていることを悟らせられるのです。この新しさは、一人一人の心の中に、主を信じる者として神にサインをしるし、神もまた一人一人の心に神の子のしるしを入れられることによって単なる紙にしるされた契約以上のものとしての新しさなのです。
 
3 私たちは忘れやすい存在です。日常のことにあれこれ忙しく追われているうちに、主のことを忘れてしまいます。わざと忘れようとしている訳ではないのに、忘れるのです。それで、主イエス・キリストは聖晩餐式を定め、神の家である教会に来て平安と静かさの中に、同じ神の民たちとともに主を覚えるため、思い出すために、これを行いなさいと命じられたのです。
私たちがパンと杯を分かちあう時、主を思い出し、主の救いのみわざを感謝し、心を新しくし、仕えるために備えられるのです。この時私たちは、いかに自分が主を忘れ、従い得ない日々であったかを思い出し、自己吟味をして神の新しい契約に忠実であったかどうかを反省するのです。
 
Ⅲ 1-6,21-23節 ユダの裏切り
1 主が聖晩餐式を制定された記事の、前と後にユダの裏切りの記事が書かれています。これは自己吟味の重大性を悟らせるためです。ユダは12弟子のひとりでした。数の上ではイエス・キリストに最も近くにいた弟子の一人でした。しかし彼の心の深いところで、イエス・キリストの仲間入りをしていなかったのです。イスカリオテのユダは都会人でした。他の11人の弟子はガリラヤ地方出身で、ガリラヤ弁を使っていました。ユダの裏切りの理由としてルカが福音書にあげているのは、「サタンが入った」というのです。サタンはイエス・キリストの働きの最初に現れました。その時はイエス様に撃退されたのです。しかし今や、最後の勝利を治めようとユダに入り裏切りの心を起こさせたのです。イエス・キリストを十字架に着けるために大攻勢をサタンがしかけて,ユダはその器となったのでした。
 
神が、ご自分の働きの器となる人を探し、求めておられるように、サタンもまた、神の国を破壊するために人を求めているのです。ただ人が自分の心をサタンの誘惑に向かって開かなければ、サタンはその人を用いることができません。サタンは人間が内側から、その扉を開けるとき中に入ってくるのです。そして神に真っ向から逆らう者に仕立て上げるのです。聖晩餐式席上に、この心の扉を、神にではなくサタンに向かってユダは開いたのでした。弟子たちにとってショックなことでありました。
 
2 イエス・キリスト様はユダを強制的に止めることはできたのです。それはユダの計画をこの何も分かっていない弟子たちにばらすだけで良かったのです。弟子たちはユダを物理的に行動できないようにたちまちしたことでしょう。弟子の中には、血の気の多い者が何人かいたのですから。しかし主はそのようになさらなかったのです。神が人間を強制的にされることがないこと、自由意志を与え、その行動と判断に責任ある存在として創造されたことによります。
神は人に自由意志を与えられました。神の愛は自由意志にうったえ、また、神の真理は警告を与えます。そしてそれに対して、はねのけ、拒否し、反逆するものは、当然その行動の責任を神の前に取らなければなりません。まして、その自由な意志をサタンに向かって開く時、その人は自分でその責任を負わなければならないのです。
 
3 他の福音書を参照するとわかることですが、主イエス・キリスト様はユダに最後の晩餐の場で、三度も愛を込めて警告をされました。
弟子たちの足を洗っておられた時が最初の警告です。ユダの足を洗っておられたイエス様はユダの顔をごらんになり、悔い改めの兆候があるか確かめられたでしょう。「みなが清いのではない。」といわれた時に、ユダには悔い改めるチャンスがありました。
過越の食事中に警告されました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」弟子たちは衝撃をうけました。呆然としました。やがて、「まさかわたしではないでしょう。」と矢継ぎ早に言い始めました。誰もユダを指さして彼ですかと言う者はいませんでした。他の弟子はまだユダを疑っていませんでした。信頼していたのです。イエスはユダが反省して極悪な行為を思いとどまる事を願われたのです。ところがユダは偽善的に「まさか私のことではないでしょう」と言ったのです。イエスは「いや、あなただ」と答えられました。
三度目の警告は、ペテロがヨハネに誰が裏切り者か尋ねるようにと合図をした時でした。パンをお渡しになる時でした。イエスはヨハネに「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」といわれた時です。パン切れはユダに与えられたのです。食事の習慣では、パン切れを最初に受ける人は主賓でした。ユダに渡された時、他の弟子たちは彼が主賓扱いを受けたと思ったでしょう。しかしヨハネは、そしてユダはイエスの行為が分かっていました。最後の訴えも効果がありませんでした。ユダはヨハネが知ってしまったと分かりました。恐怖と怒りが彼に満ちあふれ、悪魔の力に押し出されるように、その場を急いで離れました。イエスはユダが取引を実行しようとしていることが分かり、「あなたがしようとしていることを、今すぐにしなさい。」と言われました。
 
ユダの裏切りは口づけでおこなわれ、結末はご存知のように首つり自殺だったのです。同じように主イエス・キリスト様を知らないと言って裏切ったペテロは悔い改めて赦されました。ユダは悔い改めなかったのです。自分の事を自分で始末したのです。救いの道が備えられていたにもかかわらずです。愛の訴えがなされたにもかかわらずです。
 
(結び)あなたはイエス・キリスト様を罪の救い主として、信じますか、と問いかけられることの重要性が、ここにあるのです。聖晩餐式に際して、自己吟味する必要性は自分たちの日常がどれほど主から遠い歩みだったかを認め、主を忘れていたかに気づき、その心の選択において、主よ、あなたにお従いします、と決断するためにあるのです。
私たちの自己吟味が、23節「そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのか、と互いに議論をしはじめた。」とあるような、だれがだれがと見回すようなことではなく、私ではないかと厳しく、神に対する自分の歩みを振り返るのでなければなりません。イエス・キリストの十字架が、そのような者のためにあったことを思い出しましょう。神は、悔いた、砕けた、たましいを軽んじられません。むしろそのような自己吟味をもって、この聖晩餐の恵みにあずかる者を祝福し立たせてくださいます。





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