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2020,1,19 音声




2020年1月19日 招きの言葉イザヤ35:5-6 聖書マタイ15:29-31「エパタ・開け」
 
序文)旧約聖書に記されている,メシア預言のひとつを招きの言葉イザヤ35:5-6で読みました。この言葉は,バプテスマのヨハネがイエス様にした質問への答えとして引用され,イエス様が来臨して成就したと言われました(マタイ11:5-6)。マタイは15章に入って,ツロとシドンの地方でイエス様が出会われたカナン人女性の立派な信仰を記録して,その続きが今朝の29-31節です。
 
Ⅰ マタイ15:29-31 住民たちはイスラエルの神をあがめた
イエスは,ガリラヤ湖のほとり,デカポリスに行かれました。この地方の住民はイエスのもとに病んでいる人々を連れてきました。「主は人々が連れてきた,足の不自由な人たち,目の見えない人たち,手足の曲がった人たち,口のきけない人たち,そのほか多くの人たちを癒された。」その結果,住民たちはイスラエルの神をあがめた。住民たちの大多数が異邦人であることがわかります。住民がユダヤ人たちだとしたら「イスラエルの神」でなく,単純に「神をあがめ」でしょう。マタイは,カナンの女性の信仰に続いて,異邦人たちがイスラエルの神をほめたたえた信仰をまとめとして記録して,宣教の広がりを,マタイの福音書の読者であるユダヤ人たちに知らせたかったのです。またイエス様がパリサイ人のような偏狭民族主義者ではないことも,事実を通して知らせようとしたのです。
 
 主イエス様は,救い主として,自然世界と人々への恵みにおいて,不思議を王国の中にもたらせられたのでした。目の見えない人たちの目があいた事については,ヨハネ9:6に詳しく記録があります。足の不自由な人たちが跳びはねた事は,弟子たちも行ったので使徒3:8に詳しく記録があります。口のきけない者の舌がきけるようになった事は,マタイ9:32-33に説教で詳しく学びました。荒野に水湧き出し,霊的な聖霊の注ぎのことですが,ヨハネ7:37-38に記されています。
 マルコは,デカポリス地方での癒しの数々の中から,特別詳しく耳が開こえなく,舌が回らない二重の障害を負った人の癒しの記事を記していますので,一例として学びましょう。 
 
Ⅱ マルコ 7:31-37
主イエス・キリスト様の前に耳が聞こえず,舌が回らない一人の人が連れてこられました。二重の障害を負った人です。
1 人々は主に願いました。手を置いてくださるように。もちろん意味は癒やしてくださるようにとの願いです。
 そこで主は33節「その人だけを群集の中から連れだ」されました。群衆のただ中に置かれて,みんなの注目の的になっていました。相当興奮していたと考えられます。しかも見ず知らずの人の前に立たされたのです。主イエス・キリストはこの人の霊的状態をさっして,まず,群衆の中から引き離し,一人にされました。一対一になられました。群衆の中では彼の場合よくその救いをもたらすことができないと判断されたのです。私たちが主イエス・キリスト様に出会うために,最終的に心を静かにして一対一で向き合うことが必要でしょう。最初は群衆のなかで,教会の人々の中の一人としているかもしれませんが,救われるために主と一対一になるように導かれることが大切です。
 
 この人はそれによって興奮していた心を落ち着かせ,きょろきょろとまわりの事柄や人々に気を取られていたのを止めて,主にのみ目を向けるようにさせられました。そして主が彼に何をなさろうとしているかを理解できる状態に置かれました。今や,この人の注意力は,救い主にのみ向けられました。それから主はなさろうとすることを彼が理解できるように,明白な方法を用いて分からせました。
 両方の耳に指を差し入れました。当然主と彼の目が出会いました。両耳に指が差し入れられることで,彼は自分の聞こえない耳のために主が何かをなさろうとしていることが分かったのです。次につばきを彼の舌にぬられたので,うまく回らぬ舌のために何かをしようとしておられることが分かりました。
 
 イエス様はそうして天を仰いで溜息をつかれました。深く嘆息して,うめいて。これは本来すばらしく良く創造された人間が,罪のためとはいえ,永い歴史の内に多くの欠け目を身に負って苦労していることへの嘆きであり,神のよき業を人類が破壊したことへの嘆きでありました。
 
 主イエス・キリスト様は,人の思うところすべて自己中心で欲深く罪深い状態を嘆いておられるのです。本来,神の栄光をあらわして喜び輝いて生きてゆけるようにと創造してくださったのに,そうでない状態への嘆息です。
 
2「エパタ・開け」
 主イエス・キリスト様は言われました。「エパタ」すなわち「開け」。福音書著者マルコは,主がアラマイク語でいわれた言葉をギリシャ語の読者の為に「開け」という意味だと解説した。するとこの人の耳が開き,舌のもつれもすぐに解けてはっきりと話せるようになりました。
 これは正確には「εφφαθαエスパッタハ」「自分を開けよ」という言い方です。主イエス・キリスト様は彼の耳に向かって開けと言われたのでなく,舌に向かって開けと言われたのでもなく,彼自身に向かって「あなたは自分を開きなさい」とおっしゃったのです。
 
 聞けないとか,舌がもつれて話せないとかの障害を持っている方が,自分は聞こえないのだ,自分は話せないのだと自分に言い聞かせ続けて,結局は話せないと言うことが続くことがあると,あかししておられたのを聞いたことがあります。アイウエオのこの音が特に出ないと思えば思うほど,実際にその音を出さなければならない時に出せないのです,と言われたのを印象深く聞きました。大変な苦しみです。もちろん生まれつきの障害の方々もおられるのですが,脳に障害が生じて途中から舌が回らなくなった方々の中には,自分の心を閉じてしまったために話せなくなった方々もおられます。自分で自分を閉じこめてしまう。相手とのコミュニケーションとか,世の中とも交わりを自分で閉じてしまうということが起こりやすいのでしょう。
 そういう意味では,機能障害だけでなく,心理的障害のために耳が聞こえなくなったり,すなわち自分で聞きたくない音や声に耳をふさぐ習慣におちいり聞こえなくなるとか,人のまねをしているうちにある音が出せなくなるとかが起こり得ます。自分を閉じてしまうのです。
 主イエス・キリスト様はそのような方々に向かって,自分自身の人格を,その心をもっと「開きなさい」と言われたのです。
 すると個々の細々とした障害が解けるようになった,と聖書は言っているのでしょう。身体的な障害を負っていようと,負っていなかろうと,人間誰しも完璧でないのですから,それぞれに大なり小なり何か心に引っかかりを持っており,それが軽いか重いかの違いがありましょうが,ハンデイとなっているのです。そのようなお互いが主イエス・キリストにあって,自分の心を開き交わり合ってコミュニケーションしあい,差別感なく行き来することができるようにしてゆくことで解放されて,創造された人間のすばらしさを回復していただき,救われた幸いを喜びあって互いに仕え合うことが可能になるのではないでしょうか。主イエス・キリスト様の救いはそのように私たちを罪の囚われから解き放ってくださるのです。
 
Ⅲ 主イエス・キリスト様は私たちに向かって「自分を開け」と言われます。どうするといいのでしょうか。群衆やまわりの人々を見ることを止めて,主イエス・キリスト様を見上げましょう。その上で,自分について自分自身に語り続け,言い聞かせ続けた自分の欠け目についての見解を,自分に聞かせること,自分に向かって話すことを止めて,主イエス・キリスト様に向かって話しましょう。祈りましょう。私を解放してください。私の囚われから自由にしてください。あなたのお力でそうしてください。そうしてくださる主であることを信じます。感謝します。
 
主は私たちに生きていて良かったと思える生涯を送らせてくださるのです。創造主・救い主完成者イエス・キリスト様と結びつかない人生は,人との結びつきがいくら強くてもそれが死によって分離させられたときに脆いと思います。主は私たち自身の人格の創造者ですから,私たちがどのような状況に陥っているかをご存知で,解放の業をしてくださるのです。その上で根本的に神の御子のいのちをもって新しく生まれ変わらせてくださるのです。
 
結び)主は私たちの全人を罪のもたらした悲惨から救い出し,完全な癒やしをもたらそうとされます。信仰の目を持って,主の主,王の王を見つめ従い,注がれる恵みに生かされて,御国にまで歩みを進めてまいりましょう。
 

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