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2021年1月10日 礼拝 音声有

1月10日礼拝の音声ファイルです。

ヨシュア4:1-24 – これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか? 

本日の箇所はヨルダン川を渡る場面について書いてありますが、その内容については、すでに2回にわたってメッセージをしましたので、本日は、ヨルダン川をどう渡ったかに焦点を充てるのではなく、「神様の御業を記念する儀式」に焦点を充てたいと思います。
私は小さい時から、何かを忘れたり、何かをなくす天才でした。「リビングから私のコップをとって」と誰かに言われても、30秒後になぜか、私はティッシュボックスを持ってくるような人なのです。公の場では言えないぐらい、本当に恥ずかしいほどにいろんなことを忘れたことがありますし、いろんな物をなくしました。
しかし、気づいたのですが、絶対に忘れないものもありますし、なくしたことがないものもあります。例えば、私はパスポートをなくしたことはありません。飛行機に乗り忘れたこと、または、乗り遅れたことはありません。大事なレポートを提出し忘れたことや説教を書き忘れたこともありません。ご飯やデザートを食べ忘れたこともありません。今のところ、妻、子供たち、あるいは自分の誕生日を忘れたこともありません。
もっと言うと、自分は牧師であること、夫であること、父であることも忘れたことはありません。つまり、どれほど忘れん坊であっても、どれほど忙しくて大変でも、絶対に忘れられないことがあるのです。そして、忘れる事が出来ないようなことは、大体、その時の自分にとって最も大事な物事だと言えると思いますし、忘れてしまうことは、その時の自分にとって優先順位が低い物事だと言えます。

本日の箇所に、私たちは大事なことを忘れる傾向があることが書かれています。ヨシュア記3章では、神様は、ご自身の力強く、偉大な御業によって、ヨルダン川を割って、神の民を約束の地へ導かれました。そして、4章には、4章の出来事を忘れないように、似たような内容が書かれていて、神様の御業を忘れない為に、その御業を記念する12個の石について長々と書いてあります。しかし、なぜまる1章もかけてこのような儀式について長々と書く必要があったのでしょうか。
それは、神様の民の信仰にとって、神様がなさったことをすぐに忘れてしまうということは、最も危なく、最も重い、最も致命的な罪だからなのです。神様がなさったことを忘れるという罪は、姦淫、強盗、詐欺、殺人のような重罪と違って、目に見えない罪ですから、かえって私たちは油断して、この罪を軽んじてしまいます。しかし、神様がなさったことを忘れることは、目に見えない病気のように、密かに、じわじわと時間をかけて信仰を弱め、末期になると、その「罪の症状」が目に見えてきます。それは、殺人罪よりも危険な罪で、私たちは常に気を付ける必要があるのです。私たちは、どうでしょうか?神様がなさったことを忘れていませんか?もしそうなら、なぜ私たちは神様がなさったことを忘れる罪を軽んじてしまうのでしょうか?
それは、神様の御業によってどれほど私たちのアイデンティティーが形作られているのかを忘れているからなのです。このことについて思いめぐらすために、3つの質問について考えていきたいと思います。①神様の御業を記念するものには、どのような目的があるのでしょうか? ②私達は、クリスチャンとして、なぜ神様がなさったことを思い出す必要があるのでしょうか?③神様の御業を思い出すことによる、私たちの最終的な反応は何でしょうか?

①神様の御業を記念する儀式には、どのような目的があるのでしょうか?このような儀式の目的は神の民に忠告するためです。
過去に説明したことがありますが、ヨシュア記のテーマの一つは、「約束の地で神の民は申命記の律法を守れるのか?」という疑問です。ある意味で、神様の御業を思い出し、それを忘れることなく神様に従うことは律法の本質だと言えます。それゆえに、ヨシュア記の序論でもある申命記は、神様の御業を忘れないように、何回も何回も神の民に忠告しています。次の箇所は一つの例です。
申命記8:11  気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。8:12  あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、8:13  あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、8:14  あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、8:15  燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、8:16  あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。8:17  あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。8:18  あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。8:19  もしもあなたが、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従って行き、それらに仕え、それらを拝むようなことがあれば、今日、私はあなたがたにこう警告する。あなたがたは必ず滅びる。
皆さんはいかがでしょうか?この世の楽しみによって、自分と神様の関係を忘れませんか?神様との関係を忘れることは、自分の母親が自分を生んでくれたことを忘れて、自分の母親を見捨てることと同様なのです(申命記32:18参照)。または、自分が結婚していることを忘れて、浮気をすること同様なのです。「忙しかったから」、「もっと重要なことがあったから」、「疲れていたから」、「悪気はないんだけど、ただぼんやりしてたから、忘れてしまった」という言い訳は全く通用しません。どのような言い訳があっても、自分と神様との関係を忘れることは、神様が私たちを「産んでくださった」こと、神様が私たちと「結婚」してくださったことを完全に否定するようなことなのです。神様からすると、神様を「忘れる」などと言うことはとんでもない罪なのです。
ですから、申命記の背景から見ると、ヨシュア4章の記念の儀式は忠告なのです。神様の視点から見ると、私たちは意図的に物事を忘れてしまいます。冒頭の例えで説明しましたが、私たちはどれほど忘れん坊であっても、どれほど忙しくても、どれほど疲れていても、忘れないものが幾つかあります。それは自分にとって最も大事なことだからです。ですから、神様の御業を忘れる事は、自分にとって神様の御業よりも大事だと思えることと取り替えていることになるのです。もしあなたが、神様の御業を忘れているとしたら、それはどんな物や事と取り替えているのでしょうか?お金から来る安定でしょうか?キャリアまたは子育てから来る達成感でしょうか?自分の努力と根性から来るプライドでしょうか?私達が神様を忘れてしまう理由は、自分の願いや自分の快楽、自分のプライドを手放したり、忘れたりすることができないからです。
ですから、申命記は強く私たちに注意します。もし私達が神様の御業を忘れたままなら、神様は私たちを御自分の民とは見なさず、約束の地から追い出し、滅ぼされます。私たちがこの忠告を受け入れるか、否かで、神の民であり続けられるかどうかが決まるのです。ですから、ある意味、この忠告は神様からの恵みなのです。

②しかし、神様の御業を思い出すことが、なぜそれほどまでに重要なことなのでしょうか?これが二つ目の質問です。
それは、神様がなさった救いの御業によって、今の私たちがあると言えるからです。つまり、神様の救いの御業は自分のすべてを表す「アイデンティティー」であり、御業を忘れることは自分の「アイデンティティー」を忘れることなのです。
まず、誰がこの4章を読んでいるのかを意識しなければなりません。4:1-7を見ると、神様がヨルダン川を割り、民を約束の地へ導かれた後に、この救いの御業を記念する12個の石のしるしについて説明されています。そして、6-7節には、この石の目的が書かれています。
ヨシュア 4:6 それがあなたがたの中で、しるしとなるようにするためだ。後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、4:7  あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』
つまり、イスラエルの民が約束の地を獲得して、約束の地の住民になり、この約束の地で家族を養い、平和に暮らし、自分の子供たちがこの12個の石を見て、質問することを前提としているのです。要するに、将来の約束の地の住民、すなわち、神様の王国に住んでいる神の民を対象にして語っているのです。
そして、子供たちの質問は、この箇所の本質を指していると思います。新改訳2017版では抜けているフレーズがあるのですが、新改訳の第3版のほうは原文に近いです。「これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか?」という質問です。つまり、「神様の王国である約束の地に平和に暮らしているあなたにとって、これらの石はどういう意味があるのでしょうか?」ということです。彼らの父祖であるアブラハムが寄留し始めたときから、5、6百年もさまよい続けて来た神の民にとって、それは、非常に重みのある、長い歴史の詰まった質問でした。
神の民がこの記念の儀式の説明を聞いたら、それは、ヨルダン川を渡ることと、ある歴史の出来事とが比較されていると言うことにすぐ気づきます。このヨシュア記3章と4章のように、神様の救いの御業について説明された後に、子供に質問をもたらすような「記念の儀式」について書かれている箇所がもう一つあります。それは「過ぎ越しの祭り」についての箇所です。
出エジプト12:21  それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。12:22  ヒソプの束を一つ取って、鉢(はち)の中の血に浸(ひた)し、その鉢の中の血を鴨居(かもい)と二本の門柱(もんちゅう)に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。12:23  主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。12:24  あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。12:25  あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。12:26  あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、12:27  あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。
この2つの「記念の儀式」の説明は非常に似ています。しかも、非常に興味深いのは、ヨシュア4:19節には「民は第一の月の十日にヨルダン川から上がった」と書いてありますが、第一の月の十日の日は、面白いことに、過ぎ越しが行われた日と全く同じ日なのです。「第一の月の十日」は、救いを表す日付なのです。イスラエル人にとって、それは彼らが12月25日にヨルダン川を渡ったと言うようなことなのです。それだけではなく、過ぎ越しの後に神様は海を割られ、民は海を渡ることができ、エジプトからの脱出を成し遂げられました。つまり、過ぎ越しによって、民の約束の地への旅が始まったのです。
要するに、約束の地へたどり着いた日を覚える儀式を通して、望遠鏡で遠くを見るかのように、約束の地へと出発した、遠い昔の日を同時に民に思い出させたのです。さらに、この儀式の説明によって、約束の地へと出発した日と約束の地に着いた日の間に起こった様々な歴史も全部思い出させたのです。この12個の石によって、出エジプトから申命記の歴史、神様がどのように御自分の民を約束の地まで導かれたかと言う道程(みちのり)のすべてを思い出すきっかけが与えられました。そして、この12個の石によって、また過ぎ越しの祭りによって、自分たちがどのように神の王国に入れたかを思い出すことができたのです。

ですから、「これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか?」という質問に対して、当然、7節に書いてあるように神様がどのようにヨルダン川を割られたのかについて説明したと思いますが、そこで会話が終わった訳ではありません。自分達がどのように神の民になれたのか、どのように神の王国に入ったのかも、証ししたのだと思います。もし私の娘がそのような質問を私に聞いてきたら、私はこう言うでしょう。「私たちがヨルダン川を渡っている途中、祭司たちが12個の石を拾って、岸辺まで運んだんだ。それらの石はイスラエルの12部族を表しているんだよ。祭司たちが12個の石をヨルダン川のただ中から拾ったように、神様は、エジプトの奴隷制度のただなかにいた12部族の私たちを覚えてくださり、海を割り、私たちを拾ってくださったんだ。そして、祭司が石を抱えて歩んだように、神様も私たちを御自分の肩の上に抱えくださって、荒野を四十年間歩んでくださり、ヨルダン川を割って、私たちを約束の地まで運んでくださったんだよ。だから、神様の救いの御業がなければ、私たちはそもそもここに住むことができなかったし、おまえもここに住むことができなかったんだよ。私たちの善い行いではなく、神様の御業のみによって、神の王国に入れたんだ。神様の御業は私たちの民、つまり、おまえとわたし、のすべてを表しているんだ。それは絶対に忘れてはいけないことなんだよ。」

新約時代にいるクリスチャンにも、同じような儀式があります。それは聖餐式です。裂かれたパンと流される「ぶどう酒」は私たちにとって、どういうものなのでしょうか?ただのパンとジュースですか?12個の石や過ぎ越しの祭りと同じように、聖餐式は私たちがどのように神の王国に入れたかを表す儀式です。神様の救いの御業は、自分のすべてを表す「アイデンティティー」であることを思い出させます。
考えてみてください。聖餐式は、天の約束の地へ出発した日を表す儀式でもありますし、天の約束の地に到着する日を表す儀式でもあります。イエス様が聖餐式を行われたのは、過ぎ越しの記念の儀式のかわりに行われたのです。つまり、イエス様は、過ぎ越しの羊として、十字架の上で御自分の体を裂かれ、血を流され、私たちを神様の裁きから守られ、サタンを撃破され、死という海を割って、罪の奴隷制度から私たちを解放してくださったのです。イエス様の十字架の救いの御業によって、私たちは天の約束の地へと出発することができたのです。そして、聖餐式も、望遠鏡で遠くを見るかのように、将来に、私達が約束の地にたどり着く日を表しているのです。ヨシュアが川を割って、神の民を神の王国である約束の地に導いたように、イエス様はこの世に戻られ、「死」というヨルダン川を割り、私たちを蘇らせ、天の約束の地に導いてくださるのです。そして、ルカ22章によると、その日は、聖餐式と同じように、イエス様が私たちと共に同じ食卓で祝宴をされ、天国での生活を楽しむ日になるのです。つまり、聖餐式は、天の約束の地へ出発した日を表す儀式でもあり、天の約束の地に到着する日を表す儀式でもあるのです。
ですから、私たちの子供たちが聖餐式を見て、「これはどんな意味があるの?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか?「あぁ、ただ十字架を思い出す儀式だよ。覚えといてね。」と軽く子供たちに説明しますか?わたしだったら、こう答えます。「恵都、虹愛、幸来。聖餐式は、私たちの全てを表している。そう、全てだ。クリスチャンとして、私たちの過去の救い、私たちの今の希望、私たちの将来のあり方を表している。過去のイエス様の十字架によって、私たちはすでに、死、罪、サタンから完全に解放された、自由な人なんだ。感謝しなさい。イエス様は今、私たちがこの世という荒野を歩むとき、常に共にいて、私たちが必要とする『パンとジュース』を毎日くれると約束したんだ。だから、希望を持ちなさい。そして、イエス様は天国である約束の地に入ることができるように蘇った。だから、確信をもって、天国を待ち望みなさい。自分はイエス様の御業によって救われたことを絶対に忘れるな。それを忘れると、私自身の立場でいうと、自分が『アメリカ人』、『夫』、『父親』、『クリスチャン』であることを忘れることと同様なんだ。私は罪深いクリスチャンだから毎日このことを忘れている。そのために、自分はこのような記念が必要なんだ。あなたも忘れてるでしょ?だから、これを見て思い出しなさい。」

最終的に、神様の御業を記念する儀式は、私達にどのような反応をもたらすのでしょうか?それは、私たちが神様を仰ぎ見て、神様を畏れ、褒めたたえることです。
ヨシュア記4:21-24がその反応を美しく描いています。
4:21  イスラエルの子らに言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに『この石はどういうものなのですか』と尋ねたときには、4:22  あなたがたは子どもたちに『イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ』と知らせなさい。4:23  あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸(か)らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。4:24  それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。
救いの御業を記念する儀式がもたらす反応は、最終的に、私達が神様の救いと御力に圧倒され、畏れをもって神様を褒めたたえることです。

しかし、よくある間違った二つの反応があります。一つは、自分が神様の御業を忘れたことに気づき、「自分はどうしようもない」と考え、罪悪感にとらわれることです。そして、もう一つは、神様の御業を記念するために、「よし、神様の御業を思い出すぞ!」と、思い出す行為を意識しすぎることです。罪を自覚することや、意図的に御業を思い出すことは悪くありませんが、少し違和感ありませんか?例えば、誰かの誕生日を祝う時に、「誕生日パーティーを忘れてしまって、本当にごめんね」と誕生日の人に謝り続ける人と「私、あなたの誕生日パーティーを忘れてないよ!」と誕生日の人に言い続ける二人がいるとすれば、すこし違和感を感じませんか?その理由は、その二人は祝われるべき誕生日の人人にスポットライトを当てないで、「自分が誕生日の人を祝うという姿」にスポットライトを当ててしまっているからです。
ヨシュア4章を読み返してみると、神の民が全く受け身で、自分達にスポットライトを当てていないことがわかります。彼らは、神様の救いの御業を仰ぎ見て、12個の記念の石を見ます。自分達のリーダーであるヨシュアを見て、その結果、神の民は神様とヨシュアを畏れ敬い、神様を褒めたたえたのです。つまり、ヨシュア4章の記念の儀式は神様のソロ・パフォーマンスで、私たちはその観客なのです。私たちが神様を褒めたたえることによって、神様にスポットライトを当てることになるのです。もし私たちが大きな照明を持ちながらステージに昇って、照明の電源を入れて、スポットライトをイエス様に当てて、ソロ・パフォーマンス中に「神様!私はあなたを褒めたたえています!私、謙遜(けんそん)でしょ!」と言ったら、ただの邪魔ですよね。または、自分がバックステージから出てきて、ソロ・パフォーマンス中に「神様、ごめんなさい。私は神様をいつも忘れていました。涙を流して、悔い改めます。」と嘆いたら、神様の救いの御業の記念になるでしょうか?もちろん、なりません。そのような人たちは「思い出す」ことと「悔い改める」ことを深く誤解していますし、自分が神様に仕えている姿を常に見て、神様のソロ・パフォーマンスの本質を見失っているのです。

「御業を記念する儀式」の主人公は、御業を記念する私たちでしょうか?神様が海を割ってエジプトの奴隷制度から神の民を解放されたとき、荒野で何十年も民を守られたとき、ヨルダン川を割って約束の地へ導かれたとき、民は常に自分たちのアイデンティティーを思い出し、忘れずに神様を褒めたたえ、常に神様にスポットライトを当て続けて来たでしょうか?とんでもないです。歴史をみると、その正反対でした。常に神様を忘れる、最悪の民でした。ですから、悔い改める、神様を思い出す私たちは主人公ではないのです。この舞台の主人公は、イエス様です。主人公であるイエス様は、神様を常に忘れるような最悪の民を、常に覚えてくださり、かたときも離れずに民を守られ、誠実に民を愛し続けてくださったのです。いつも神様を忘れて、自分自身にスポットライトを当てるような私たちを、覚え続けてくださった恵み深いイエス様です。私たちは神様がなさったことを仰ぎ見ているでしょうか?あるいは、自分のみじめさや自分の歩みだけをただ見ているでしょうか。

毎週の礼拝や毎月の聖餐式にも、同じ目的があるのです。ヨシュア4:24に書いてあるように、「地のあらゆる民が主の手が強いことを知る」ことができるように、私たちが「いつも、自分たちの神、主を恐れる」ことができるように、私たちが深い罪をもっていても、悔い改めが薄っぺらくても、信仰が生ぬるくても、自分自身から目を離し、イエス様の完璧な御業を仰ぎ見ましょう。悔い改めている自分や神様を愛している自分にスポットライトを当てるのではなく、暗闇に包まれた観客席に座り、神様の御業に感動し、自分のことを忘れ、感謝と喜びと希望をもって、全力で神様の御名を褒めたたえましょう。お祈りします。

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