2021年1月3日 投稿者: 廣橋 嘉信牧師 カテゴリ:news, 説教 1月3日礼拝の音声ファイルです。 2021年1月3日 「キリストは主 」 マタイ22:41-46 序文)マタイの福音書を通して、今年も学び続けましょう。年の初めに、「キリストは私たちの主です」と確認しましょう。主イエス様は、敵対する者たちから様々な論争をしかけられ、罠にはめられようとしていました。しかしイエス様は彼らに答えることで、ことごとく彼らを退け、相手は、もうこれ以上何も質問する勇気も失ったほどでした。 そこで、攻守交代となりました。今度は、イエス様から彼らに進んで質問をされました。人間の思いつくあらゆるキリストへの誤解、偏見、悪意、曲解のすべては、沈黙させられました。神ご自身のみ子が、今や問いかけておられるのです。彼らも、私たちも、イエス様の質問に答えなければなりません。 Ⅰ どうして、人々はキリストをダビデの子というのか。 当時の学者、パリサイ人たち、そして一般ユダヤ人たちは、メシヤすなわち、キリスト(救い主)の出現を国民的な希望として待っていました。その救い主はダビデの子として生まれると、旧約聖書の預言に従って信じていたのです。例えば、イザヤ書9:6-7「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」 このことはキリストがダビデの子として生まれることを告げています。それでは、同じ旧約聖書の詩篇110篇1節「主は 私の主に言われた。『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』」で、イエス様が引用しておられる言葉をどのように説明するのか。ここでダビデ自身がキリストのことを「主」と呼んでいるではないか、と問われました。 この質問によって、イエス様は、キリストは単にダビデの子以上のお方であることを人々に教えようとされました。確かに来るべきメシヤについて数ある称号の中で、「ダビデの子」は最もポピュラーなものでした。普通でありました。神の遣わされる解放者は、ダビデの家系であるのです。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあるとおりです。イエス様ご自身は、あのエリコの道ばたに座って物乞いをしていた盲人の叫び「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」にこたえられました。ローマ人への手紙1:3-4「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と語られています。 ところが、本来のダビデの子と言われたメシヤ、すなわちキリスト観が当時征服者メシヤの思想と結びつき政治的、民族的な夢、野心を含めたこととして流行していたのです。メシヤとともにイスラエルの国は黄金時代を築き、世界の覇者になる。キリストは無敵の指導者、王となる。 Ⅱ ダビデはキリストを「主」といった。 主イエス様について、このような一般的に流行していた意味で「ダビデの子」というのは不適当です。たしかにメシヤはダビデの子です。しかしメシヤはそれ以上のお方であります。彼は「主」です。律法学者たちの考えているキリスト像は、本当のお姿からあまりにもかけ離れている。しかも考えが狭い。救い主は自分かってなイメージに作り替え、そのための完全な権能を見損なっている、ということでした。 ダビデ王様が、キリストを「主」と呼んだ。その意味は何か。ダビデにとってメシヤ・キリストは礼拝し仕えるべき主である。それはヤーウェーであって神の子である。神はダビデの主、キリストについて言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」(詩篇110:1)このことばは、神がキリストの敵を打ち倒し、その足台として勝利されるときまで、神の右の座に着いていなさい、というのです。キリストは神の子として地上に遣わされ、キリスト救い主として働きをなさる。それに対して神に敵対するものたちが、キリストの働きを破壊するためにあらゆる妨害と敵対行為をし、歴史的には十字架につけてしまった。その後に続くキリストの教会の働きも攻撃し続け、破壊しようとし続けている。しかしそのような敵対行為は神の裁きの日までであって、その日がくるまでは、キリストは神の右の座に着いているのです。 「わたしの右の座に着く」という意味は律法学者たちも「神の子」を指すと認めていました。「彼らはみな言った。『では、おまえは神の子なのか。』イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。』」(ルカ22:70)。ここでは、イエス・キリスト様は、ご自分をはっきり「神の子」としてあらわしました。神の大能の右の座に着くことを宣言されました。彼らもまた、「ではおまえは神の子」なのだなと理解した。そして、このことばがさらに教えることは、十字架に殺されたキリストが神のみ座の右に着いているという事実です。 詩篇110篇1節はイエス・キリストの復活と昇天を教え、彼が主であり、神の子であることを証明することばなのです。また、神のみ座の右で、キリストは何をなさるのかというと、「主は誓われた。思い直されることはない。 『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」(詩篇110:4)とあるように、とこしえの祭司です。これはヘブル人への手紙5:5-10に詳しく説明が受け継がれています。「同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と語りかけた方が、それをお与えになったのです。別の箇所でも、『あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である』と言っておられるとおりです。キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」 さらにヘブル人への手紙7:24-8:2に続けて説明があります。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」 キリストは今永遠におられ、キリストを信じるようにと、執り成し、その人の罪を赦し、その人をきよめ、その人格を神の家族にふさわしく整え、愛しつづけてくださっているのです。 Ⅲ 使徒たちはイエス・キリストのことを「主」と呼び続けました。 1 使徒たちは、イエス・キリスト様のことを「主イエス・キリスト」と呼び、書くときも「主イエス・キリスト」と書いている。それは、異邦人への使徒、伝道者であったパウロにとって、「キリスト」(メシヤ)という称号は、異邦人にはあまり意味をもたなかった。「主」は礼拝の神聖な対象という意味で使うことができた。また、「父なる唯一の神のみ」を信じていたパウロが、復活の主イエス・キリストに出会って信仰の大転換を経験して以来、「主」は、天の父なる神と区別できる呼び名であった。さらにパウロはこの「主」という呼び方で、キリストのことを「栄光の主」であるということで、神の臨在そのものをあらわし、最も尊い使い方をしている。「この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(コリント第一2:8 )。ヤコブも「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」(ヤコブ2:1)といっています。パウロはピリピの教会に手紙を書いたときに、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)と宣言しています。 ヨハネは黙示録(1:8)で「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」と言って、主イエス・キリストは神であると伝えている。 2 あなたにとってキリストはこのような「主」でしょうか。もし、あなたがイエス・キリストを主と呼びながら、実際の生活において、このお方を心を込めて、何はさておいても礼拝すべき主、十字架に自分のために死んでくださり、復活し、天に昇り、いま、神の右の座に着いて取り成し続けてくださり、やがて一切を裁くために、再び地上に降られる主として受け入れているでしょうか。 学者、パリサイ人たちが、キリストを単なるダビデの子と受け取り、その本来の意味であるダビデの主であった、主の主、王の王であったことを見失ったように、わたしたちも見失ってはいけないのです。日常生活のおりおりに、主は主としてお働きくださっているのです。この苦難と栄光の主は、わたしたちの教会の頭、主です。神である主です。 心よりへりくだり、敬虔をもってお仕えし礼拝すべき主であり、祈りにおいて、豊かなお交わりに与からせていただくべき主でありましょう。 結び) ヘブル人への手紙10:19-25 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。 Matthew 22:41-46 “The Christ is the Lord” English summary I. Why do people call the Christ David’s Son? The Jews of Jesus’ day put their hopes for the nation on “David’s Son,” the Messiah. But they imagined the Messiah as a figure to fit their ambitions, and were not treating Him truly as the Lord. II. David’s Son is also the Lord. Jesus quotes Psalm 110:1. “Sitting at God’s right hand” implied being God’s Son, the scribes admitted. Psalm 110:4 further identifies the Messiah as in Melchizedek’s line; Hebrews 5:5-10 and 7:24-8:2 flesh this out and show how Jesus came to be the ultimate, unsurpassed High Priest, in His divine work. III. Over and over, the Apostles Paul (1 Cor. 2:8; Phil. 2:6-10), James (James 2:1), and John quoting Jesus (Rev. 1:8) confess that Jesus is Lord. Is He your Lord? How so? May we learn to honor, worship, and obey Him in prayerful fellowship with Him. Hebrews 10:19-25