1月24日礼拝のYoutube動画へのリンクです。
公開は1週間限定とさせていただきます。(1月30日土まで)
https://youtu.be/-rLck80rZHg
1月24日礼拝の音声ファイルです。
- 前 奏
- 招きの言葉 コロサイ人への手紙2章9-14節
- さ ん び 「主の十字架に・The Wonderful Cross」
- さ ん び 「主イエスの十字架の血で」
- 開会の祈り
- 主の祈り
- 執事就職式
- 教会福音讃美歌 454番 「私のいのち」
- 聖書朗読 ヨシュア記5章1-9節
- 聖書の話 「割礼を受けて戦う戦士たち」 マーク・ボカネグラ牧師
- 教会福音讃美歌 307番 「イエスの血に洗われ」
- 献 金
- 報 告
- とりなしの祈り
- 頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
- 祝 祷
- 後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
ヨシュア5:1-9 – 割礼を受けて戦う戦士たち 2021/1/24
ヨシュア記1-4章は約束の地へ入る準備について書かれていますが、ヨシュア記5章以降から、「カナンの地の戦い」の話が始まります。ヨシュア5:1は戦争映画の驚きのオープニングシーンに合う場面だと思います。想像してみてください。神様はヨルダン川を割って、神の民を、彼らが5、6百年も待ち続けた約束の地へ導かれました。神の民の興奮が満ち溢れています。ヨルダン川の底にあった12個の石は高く積み重ねられてあり、神様の力強いみわざを記念しています。神様はカオスを表す水を自由に操られ、民を守られました。そして、神様は約束されます。「絶対にあなたがたに勝利を与え、カナンの地を与える」と。神の民は神様にほめ歌を歌い続け、戦いが始まってないのにもかかわらず、もうすでに戦いに勝ったかのように、宿営の中で祝っています。
そして、偵察隊から報告がありました。「ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失っている」(ヨシュア5:1)と。敵の王国は神様を深く恐れていました。ガラッと空気が変わります。「カナンの地の戦いが始まる」と民は認識し始めます。そして、敵の陣地に入った私たちは、いつでも、カナン人からの攻撃を受けることになる。追い詰められた犬は一番危険です。
噂によると、私たちが先に攻撃する町はエリコらしい。民のつかさたちは、宿営を巡って、「戦いの準備をしろ」と、戦士たちに言い始めます。大佐であるヨシュアが軍隊の前に出てきます。「強くあれ!雄々しくあれ!恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこでも、あなたの神、主があなたとともにおられる!忘れるな。神様のみことばに従えば、神様は私たちに勝利を与える!」と感動のスピーチをします。緊張感で張り詰めた空気ですが、士気は高く、みな出陣の命令を待ち構えています。そして、驚きの展開になります。ヨシュアは5:2に書いてあるようにこう命令します。「火打石の小刀(こがたな)を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ!」と。「割礼」とは、男性の生殖器官の皮膚を切ることです。そして、もちろん、当時には痛み止めや薬など全くありません。ただ自分たちで作った火打石の小刀だけです。
驚きの展開だと思いませんか?男性として私だったら、混乱して当惑(とうわく)したと思います。そして、いろんな疑問をぶつけると思います。「ヨシュア大佐。割礼は重要な宗教的な儀式だと知っていますが、私たちは、今、戦争の真っ最中です。優先順位として、もっと重要なことがあるんじゃないですか?戦略的に考えても、タイミングが悪いんじゃないですか?もし兵士みんなが割礼を受けたら、身動きが取れません。そして、カナン人が私たちの状態を知って、私たちに攻撃をして来たら、私たちは全滅させられます。しかも、みんなの士気は確実に下がります。ご存知のように、割礼は想像を絶する痛みを伴いますし、自分たちの「雄々しさ」が奪われるようで、軍人としてのプライドが傷つきます。神様の約束は信じますが、このような戦い方は、想像できません。」
21世紀の日本に歩むクリスチャンとして、私たちは同じような状況下にはいませんが、似たような試練を通っているかもしれませんし、似たような疑問を持っているかもしれません。例えば、「神様、あなたは私たちに勝利と救いをお与えになることができると信じます。でも、なぜこのタイミングで、私たちに危険や屈辱と弱さを覚えるような形で、試練を与えられるのでしょうか?なぜ私たちは公に信仰を告白するだけで、馬鹿にされ、叩かれる必要があるのでしょうか。このようなクリスチャンの歩み方は、想像できません」と。
そして、私たちの疑問に対してヨシュア大佐はこう答えると思います。「神様である将軍は強い軍隊など、必要としない。将軍に頼り、従う兵隊しか要らないのだ。お前は、将軍がどのようなお方か忘れたのか?だから、今、選びなさい。自分の強さで戦うか、割礼を受けて神様が自分の代わりに戦ってくださることを信じるか。決断しなさい。」そして、神の民は5:2に書いてあるように、信仰の道を選んだのです。
つまり、割礼を受けることは究極の決断だったのです。自分の剣で戦うか、割礼を受けて、戦争の戦略を神様に全部委ねながら戦うか。新約時代にいる私たちにとって、この決断を表す新約の割礼とは、洗礼を表しています。
本日は、ヨシュア5章にある割礼の儀式を通して、私たちの洗礼の意味、そして、私たちはなぜ洗礼を受ける必要があるかを、お話したいと思います。本日の話は、一つの疑問に沿って進めて行きたいと思います。神様はなぜカナン人と戦う前に、割礼を求めたのでしょうか。その理由は二つあります。
一つ目の理由は、神様は、割礼を通して、神様の呪いを、もう一度、神の民に思い出させたかったからです。背景として、まず覚えておくべきことは、割礼が神様の約束のしるしだということです。神様の約束は、ご自分の民を守ること、そして、彼らに約束の地を与えることでした(創世記17:7-8)。そして、その約束のしるしとして、神様は割礼を命じられました。
創世記17:10 あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。17:11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
結婚指輪が結婚の約束のしるしであるように、割礼は誰が神様の民なのか、そして、神様の祝福の対象は誰なのかをしるすものです。
しかし、本日の箇所のヨシュア5:4-6を見ると、この契約のしるしの本質と意味をもう少し詳しく知ることができます。
ヨシュア 5:4 ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。エジプトを出たすべての民のうち男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出てから途中で荒野で死んだ。5:5 出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。5:6 イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らが主の御声に聞き従わなかったので、私たちに与えると主が彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのである。
この箇所では、二つの世代が比較されています。荒野時代の第一世代、エジプトから出てきた世代は「みな割礼を受けていた」のにもかかわらず、約束の地を見ることができず、「死に絶えてしまった」のです。そして、その理由は「主の御声に聞き従わなかった」からです。つまり、契約のしるしを持っていても、契約のしるしと伴う「主の御声」により頼む「信仰」を持っていなかったので、神様は「信仰」のない者たちを「切り捨てられ」、彼らに約束の地をお与えにならなかったのです。要するに、契約のしるしは「祝福」の約束を表しますが、同時に、切り捨てられた包皮のように、神様は信仰のない神の民を「断ち切られる」という呪いの約束も含まれているのです。ですから、神様は第1世代を通して、約束の地に入れた第2世代に「あなた方は、信仰を持っているか?信仰がなければ、今、あなた方を断ち切る」と忠告したわけです。
そして、もう一つの忠告がありました。「割礼を受けていた」第1世代よりも「割礼を受けていなかった」第2世代は、有利な立場でした。彼らは主のみことばにより頼み、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ることができました。しかし、「割礼を受けていない」者として、まだ彼らは曖昧な立場にいました。それは創世記17:14でこう書いてあります。
創世記17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。
つまり、無割礼の第2世代は民から「断ち切られる」恐れがあったのです。ある人は「神様は恵み深い神様だから、信仰あれば神様はそれを見逃してくださるでしょう」と思ったかもしれませんが、出エジプト4:24-26を読むと、そのように軽々しく考えることはできません。この箇所では、モーセ一家(いっか)がヨシュア5章の軍隊と同じように、神様に「神様の代表」として敵王国に宣戦布告することを、命じられたのです。モーセは妻のツィポラ、そして、息子のゲルショムと共に、神様の「代表」としてエジプトのパロのもとへ宣戦布告をしに行きました。しかし、彼らがエジプトへ向かっている途中、無割礼のモーセの息子に対して、神様は怒られました。神様の「代表」として歩んでいる者が、神様の契約のしるしを持っていないと言うことは、神様にとって裏切り行為に近いことでした。ですから、神様は息子のゲルショムを殺そうとされました。それゆえに、妻のツィポラはヨシュア5章の割礼と同様に、ただちに割礼を施したのです。そして、神様の怒りは収まりました。
もし無割礼のモーセの息子が神様の怒りの対象となるなら、神様の代表であるヨシュア5章の軍隊も神様の怒りの対象になりえます。要するに、信仰をもっていても、割礼を受けていない人は神様にとって、非常に曖昧な立場にいるということなのです。神の民が敵王国に囲まれている中、神様があえて割礼を命令された理由は、神の民に本質的な質問を改めて問うためでした。「あなた方は、私の裁きと人間の攻撃のどちらを恐れているのか?」と問われているのです。そして、モーセやツィポラと同様に、神様からの忠告の応答によって、彼らの信仰、彼らの優先順位が何なのかを明確にされたかったのです。
新約時代の割礼である「洗礼」も似たような意味があります。「洗礼」には「祝福」の意味が含まれていますが、「呪いの忠告」の意味もあるのです。クリスチャンが受ける洗礼は、イエス様が十字架で受けられた「洗礼」を表しています。例えば、ローマ6:4はキリストの十字架の死を「バプテスマ」、すなわち、「洗礼」として呼んでいます。そして、マルコ10:38-39では、弟子たちに十字架について説明されたとき、イエス様は自分が受けられる神様の罰を裁きの「バプテスマ」(=洗礼)として話されています。
マルコ 10:38 しかし、イエスは(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」 10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」
この「死」のバプテスマ、またはこの「裁き」の洗礼によって、イエス様が神様のみ怒りの洗礼を受けられて、そのみ怒りの洪水に溺れて、死なれました。そして、私たちが洗礼を受ける意味は、イエス様が私たちの代わりに神様のみ怒りを受けてくださったということなのです。
それゆえに、私たちが洗礼を授かるということは、二つの忠告を受けることになるのです。一つ目は、割礼を受けていなかった荒野の第1世代のように、もし私たちが信仰なしで洗礼を受けているのなら、神様は私たちを断ち切られるという忠告です。具体的に言いますと、幼児洗礼を受けても、信仰の道を選んでいない人、洗礼を受けたのに教会またはキリスト教を辞めてしまった人、または洗礼や信仰告白をしてもこの世を恐れ、神様の約束を公に拒んでしまうような人です。神様が第1世代を断ち切られたように、洗礼を受けているか否かは関係なく、信仰を持っていない人はみんな、イエス様が十字架で「裁きの洗礼」を受けられたように、私たちも「神様の裁き」を受けるのです。もしあなたが信仰を持たないと言うなら、第1世代が荒野で滅び、天国に入れなかったように、この世で滅び、天国へ入れなくても良いという覚悟がありますか?私が強調したいのは、これは忠告であるということです。神様は私たちに悔い改めるチャンスをお与えになっているのです。まだ神様に立ち返る機会があります。
二つ目の忠告は、約束の地に入った第2世代のように、信仰を持っているにもかかわらず、洗礼や信仰告白を拒み続ける人への忠告しています。もちろん、信仰を持ちながらも、洗礼を受けていない方でも天国に入れます。それは、はっきり言えます。しかし、二つ目の忠告は、神様は、信じた者が洗礼を拒み続けたり、公に信仰を告白しないでいることに対して無関心ではありません。神様が命じられる洗礼や公な信仰告白を拒み続けるということに対して、私たちは少し違和感を感じないでしょうか?「あなたを死ぬまで愛します!」と告白しながら、結婚式を挙げることまたは籍を入れることを拒み続けることを、すこし違和感を感じませんか?もし将軍に「あなたの為に、死ぬまで戦います!」と告白しながら、将軍からのユニフォームとしるしを拒み続ける兵隊がいたら、すこし変だと思いませんか?あるいは、都合のいい時には公に信仰告白をして、恥ずかしい時や苦しい時、都合の悪い時には信仰告白をしないという人に対して違和感はありませんか?
ですから、神様は信仰を持たない人たち、そして、公に信仰を告白しない人たちに、こうおっしゃいます。「信じたいのに信仰を持たない理由や、信仰はあるが公には告白しなかったり、洗礼を受けないと言う理由がたくさんあるのはよく知っている。非常に難しい状況があることも知っている。しかし、私はあなたが苦しい試練の中にいる時にあえて、あなたに聞く。あなたが恐れるのは、人からの裁きか、私からの裁きか、どちらなのかを決めなさい。」試練と苦しみの中、人からの迫害と批判の中、屈辱と弱さの中、神様が私たちにあえて明確な信仰告白を公に表すことを求められる理由は、私たちを苦しませるためではありません。恵み深い天のお父様が、私たちに、私たちが取るべき優先順位を明確にさせたいからなのです。言い換えると、神様は、試練を通して、私たちの信仰を強めたいのです。
民がカナン人と戦う前に、割礼を求められたもう一つの理由は、民が過去に公に信仰告白をしていなかったとしても、神様は民を赦すという確信を与えるためです。
この忠告を受けた神の民は、自分たちが霊的に危険な立場にあることに気づいたと思います。もし自分たちの前の世代のように、主の御声を聞かずに歩むなら、彼らと同じような将来が待っていると気づいたと思います。ヨシュア記のシリーズを聞いている人たちはヨシュア記の今までの流れをご存知だと思いますし、神の民が非常に危険な立場に立っていたこともわかると思います。申命記31章とヨシュア1章で強調されているのは、右にも左にもそれずに、命じられた律法のすべてを守り行うことによって約束の地にい続けられるかということです。
しかし、民は神様の律法に従うと約束をしたにもかかわらず、ヨシュア記の2章以降を読むと、神の民が約束の地にい続けられるかどうかは疑問になります。ヨシュア2章には、イスラエルの戦士たちの信仰よりも異邦人の遊女の信仰のほうが強かったという話がはっきりと書いてあります。そして、この箇所で、神様は民が約束の地に着いた直後に「無割礼のまま歩むことは、みことばに沿った歩み方だと思うか?」と間接的に注意されたのです。「神の民は約束の地でのスタート地点で、荒野の第1世代のように神様を裏切るのか?」という疑問が読者に沸きおこるはずです。つまり、ヨシュア記の読者の視点からしては、戦士たちは約束の地を受けるに値しない者たちなのです。
ですから、神の民は、自分たちの信仰の薄さと不従順を反省し、ただちに割礼を受けたと思います。
ヨシュア 5:7 そして、息子たちを彼らに代わって起こされた。ヨシュアは彼らに割礼を施したのである。彼らが途中で割礼を受けておらず、無割礼だったからである。5:8 民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。5:9 主はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。
その忠告を受けて、民は、割礼が表す「神様が民を守ってくださる」という約束を思い出し、割礼を受け、その傷によって身動きが取れなくなっても、自分たちの力ではなく、神様の力により頼むことを選んだのです。つまり、自分たちが先頭に立って、戦略を立てて、戦うのではなく、神様が彼らの代わりに戦われることを認め、すべてを神様に委ねて戦うことを選んだのです。この世の考え方から見ると、無責任な選択かもしれませんが、これが信仰の本質なのです。自分のために戦ってくださる神様にすべてお任せすることです。
カルヴァンは、神様が民にこの割礼の命令を下したタイミングが絶妙だと指摘しました。神様は民の優先順位をはっきりさせるため、ヨルダン川を渡らせ、敵の王国に包囲させ、逃げ道のない中でこの命令を下されたのです。しかし、それと同時に、神様により頼みやすくなるように、神様はご自分の力で川を割られた後で、この厳しい試練をお与えになったのです。神様が先頭に立たれ、川のただ中に入られて水を分けられ、一方的に民に救いを与え乾いた道へと民を導かれました。そのように経験させた後で、割礼の命令を下されたのです。この出来事は第1コリント10:13の真実を証明しています。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
神様は、私たちが恐れている攻撃からの脱出だけではなく、神様の裁きからの脱出も備えてくださるのです。割礼によって、神様が私たちを赦してくださることも保証してくださいます。割礼を受けた後、神様は「エジプトの恥辱」を戦士たちから「取り除いた」と宣言されました。「エジプトの恥辱」については、いろんな解釈がありますが、全ての解釈はここで統一できます。それは、民が神様のみことばに従わなかったせいで、「神様の裁きを受けると言う屈辱」だという意味です。すなわち、民が信仰をもって神様により頼んだ結果、神様は民の不従順を赦し、その裁きを取り除かれたのです。ある神学者はこの場面をこう描いています。将軍であられる神様がご自分の剣で戦士たちをご自分の民から「断ち切る」寸前に、戦士たちは自分たちの生殖器官の包皮を切り、割礼において血を流したことによって、神様の剣を止(と)めたということです。ある意味、「切り捨てられた包皮」が「断ち切られそうな兵士たち」の身代わりとなって、「包皮」が神様の裁きを受けたのです。そして、この身代わりの「包皮」は、イエス様の十字架を表しているのです。
奇妙な解釈かもしれませんが、実は、パウロがこのように解釈しています。
コロサイ 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。
2年前のコロサイのシリーズで説明したことがありますが、もう一度説明します。この箇所で説明されている「イエス様の洗礼」または「イエス様のバプテスマ」とは、イエス様が十字架上で私たちの罪と背きに値する死と裁きを背負われ、私たちの代わりに「神様の裁きの洪水」で溺れ死に、死の中に葬られたことを表しています。ですから、私たちが「洗礼」を受けるとき、まず、「イエス様の洗礼」によって、イエス様が私たちの代わりに「裁きの洗礼」を受けてくださったことを覚えます。洗礼は赦しの確証なのです。
しかし、パウロは興味深いことに、「イエスの洗礼」を「イエスの割礼」と比較しています。私たちはみな、霊的に「肉の割礼のない」者、つまり、罪深く、不従順で、神の民に値しない者なのです。要するに、割礼の呪いが描いているように、私たちは、切り捨てられた「包皮」のように、神の民から「断ち切られる」はずの存在なのです。しかし、私たちがイエス様を信じるとき、「人の手によらない割礼を受けた」とパウロは主張します。私たちは「イエスの洗礼」を受けたように、「イエスの割礼」も受けます。と言うのは、イエス様が私たちの代わりに「裁きの洗礼」を受けられたように、イエス様は十字架の上でご自分の「肉のからだを脱ぎ捨て」、私たちの代わりに神の民から断ち切られ、切り捨てられた血まみれの包皮のように十字架上で神の裁きによって切り捨てられたのです。「イエスの割礼」とは、私たちの身代わりとして、キリストが「切り捨てられた」という意味なのです。
イエス様を愛する者として、自分の救い主を「切り捨てられた血まみれの包皮」にたとえることは非常に心苦しいです。しかし、イエス様が受けられた罰が、どれほど屈辱と苦しみに満ちたものだったのかを明確に表しています。それにもかかわらず、イエス様は一番厳しい試練の中で、ご自分の民に対する愛を公に告白されたのです。ご自分の優先順位をはっきり表されたのです。「屈辱を受けても、弱く見られても、どれほど苦しくても、神様の裁きを受けても、私は揺ぐことなく告白する。何があっても、私の民を愛する」とイエス様は十字架の上で宣言されるのです。ですから、私たちが試練の中でしっかりと公に信仰告白できないような時でも、イエス様は私たちに先立って、試練の中から私たちへの「愛」の告白をしてくださるのです。
そのような「愛」の告白の上で、また、その赦しの確証の上で、イエス様は私たちに問いかけられます。「信じたいけど信仰を持たない理由、信仰はあるけど公に告白しなかったり、洗礼を受けないと言う理由がたくさんあることもよく知っている。非常に難しい状況にいるのも知っている。しかし、あなたのために十字架を受けた私はあえて、あなたに聞く。あなたは人からの裁きと、私が十字架で受けた裁きの、どちらを恐れているのか?あなたは人の愛と、私の愛のどちらのほうが大きいと思うのか?決めなさい。」私たちの苦しみと試練に共感してくださるイエス様のみ声を聞いて、試練に耐えられるように試練とともに脱出の道も備えてくださるイエス様により頼み、屈辱の中でも、弱さの中でも、苦しみの中でも、イエス様のみにより頼む信仰を、公に告白し続けて行きましょう。お祈りします。